感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

新年好!

実家に帰っていました。久しぶりに屋根に上って雪下ろしをしたんですが、なかなかこう昔やったフォームというのは忘れないもので、われながら美しいなと思いながら雪下ろしをしての翌日がもう体中が痛くてさすがに若くないというか体もけっこうきてるんですね。ところで、最近ブログを更新してません。色々書きたいことあるんですが、別に書いているものがあって、今はそちらの方ばかりに気を向けています。とにかく死んではいません。

先日実家でテレビを見ていてですね、なんとも乱れたゴミの分別をきっちり行わせるために、ゴミ袋への記名を義務付けることの正否を議論する番組があって、途中からぼんやり議論の行方を追っていました。参加者各自が正否(イエスとノー)に分かれて議論しあうという形式だったのだけれど、義務付けるべきだというプレゼンを行ったのが石原良純氏で、環境問題のためには必要だとか言っていたように記憶します。それに反対する側は第一にプライバシーの問題を挙げていて、イエス側はプライバシーの問題なんて自己責任でカバーすればいいんで、そんなこと言ってるだけだとモラルが乱れるばかりだと主張していた。基本的には、古典的な革新VS保守の図式です。

最終的に、30票ほどが分かれた投票の結果、僅差とはいえイエス(保守)の方が勝ち、そのときなんとなく苛立ってしまった自分は革新の側に心情があるのだろうかと思ったんだけれど、どうでしょう。いずれにせよ、そんなに環境問題とか真剣に考えてるんだったら、ぼくんちと同じようにアンペアブレーカーを15Aにでもすればいいんじゃないかと思う。15Aだと、6畳だけでもこの時期暖かくするためには3、4時間は必要です。いっきに暖めようとすると、すぐにブレーカーが上がるから。あるいは一人当たり月々10万円程度(家賃込み)の消費生活に甘んじればきっとゴミの量も格段に減りますよ。

とにかくイエス側の「記名やむなし」という考えは暴力的で好きになれなかった。けれども、「プライバシー優先」というのにも共感できない。だって、自分だったら銀行カードの番号とかばればれでもそもそも何もないから痛くも痒くもないわけです。毎日何を食べてるのかとかばれてもかまわないし(近所のコンビニの店員はぼくの好みとか大体知ってるだろうな)、そんなのわざわざあばく奇特な人もいないだろうし。

それに、自分の何か犠牲にすることを拒んで「プライベート」の殻に閉じこもるのは、地球環境レベルの犠牲を払っているような顔をして、実は自分たちの生活の変化をかたくなに阻止しているひとたち(現首相ほか新保守といわれるひとたちもこれに該当)とあまり変わらないんじゃないかとも思えるわけで。

「犠牲」なんてなかなか崇高な言葉を使っている私ですが、保守的傾向に対してもともとはパブリックな要求をしていた革新がいつのまにかプライベートな殻に閉じこもるようになった昨今、この「(自己?)犠牲」というものを魅力的なものにデザインすることが、なんにでも「自己責任」を振りかざす新保守に対抗する今後のコンセプトではないかと思ってなりません。

たとえば、「記名やむなし」の声を無条件にシャットアウトするのではなく、ひとまず聞き入れてみましょう。その声を聞き入れたうえで、それと自分の要求との妥協点をデザインする。たとえば「ゴミを出した人」と「当該ゴミ」とがリンクしない形での記名方はないのか等々考える余地はあるはずです。

最近セキュリティー云々の分野でICタグ(チップ)とか注目されていますが、たとえばその(予め個人が登録したナンバーが分り振られている)ICをゴミ袋に貼り付け、業者だけがそのつど確認できるようにし、回収時にICを剥ぎ取る(業者の手から離れてトレースできる事態を防ぐため)とか。とりわけ、セキュリティー関連のアーキテクチャーはプライバシーを守るものでありながら奪う側面があると危惧されているけれど、システム構築の段階できっちり(特定の用途のもとに)デザインできていれば、これほど様々な可能性に開かれていて使い勝手のあるものはないと言えます。

私は、文学でも視覚芸術でも、一見相容れないものをまとめてデザインする力のある作品が好きで、そういう力量を持った人ってすごいなと思っています。それは妥協とか折衷というよりも、どちらの側面も生き生きしていて、しかも相乗効果で両方ともがさらに活力を得ているようなケースです。そういう意味では、今の政治には心底失望しています。みんな仲良くしてください(笑)。