感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

安吾戦争小説論(2)

2.二つの顔

 終戦久しい現在では驚くべきことだけれど、「人間と豚と犬と鶏と家鴨」が「まったく、住む建物も各々の食物も殆ど」差別なく各自の生を営んでいるという、そんな家屋の一室を間借りしている伊沢なる二十七の男に焦点化して、戦時下にある彼と白痴の女との生活を物語る小説「白痴」(46年6月)は、当人のキャリアのみならず日本の戦後を画す作品として文学史にしばしば参照される安吾の代表作である。
 それはあの「堕落論」(46年4月)とともに、たったいま野蛮な戦争から解放され、これから自由と民主のもとに理性が司るべき日本に投げ込まれた期待と不安を集約する作品として人々に受け入れられたということを示している。
 物語の時代は少しさかのぼり、敗戦濃厚な戦時下を背景に、「まだ二十七の青春のあらゆる情熱が漂白され」るなか、とにもかくにも「伊沢は女が欲しかつた」。この「祈願」は成就するだろうか? 
 それにしても二十七といえば――彼も安吾と同様、戦時下にあって映画会社に勤務しているのだけれど、いわゆる「告白小説」を嫌悪した作家本人にならってこれ以上陳腐な符合を追求するべきではないのかもしれないのだがしかし、彼は嫌悪しながらもおりにふれ「告白」を書き綴った作家でもあれば…――、安吾が恋しい女、矢田津世子と出会って「青春のあらゆる情熱」を、その漂白を覚悟しつつ染め抜こうとした年齢を想起させもする伊沢の、女が欲しいという「最大の希願」は、隣家で別の男と結婚生活を営んでいた「白痴の女房」の不意なる住居侵入によって実現する。どんな形と素性であれ、女を得たのだ。
 かくして、苛める母がいる自宅から一散に逃げて来た白痴が、伊沢の留守中の部屋に忍び込みその押入に隠れているのを、帰宅した彼が発見するところから女との生活ははじまる。
 当初はさすがに戸惑いを見せた伊沢はしかし、「この唐突千万な出来事に変に感動してゐることを羞ずべきことではないのだと自分自身に言ひきか」す。そして終には、どうやら女はたんに家を飛び出して逃げ場に窮した挙げ句めくらめっぽうに忍び込んで来たわけではなく、実は、「伊沢の愛情を目算に入れて」もいたのだと、そう白痴のどもる言から悟り、彼女を匿いつづけようと自らに言い聞かせるのである。

その日から別な生活がはじまった。/けれどもそれは一つの家に女の肉体がふへたといふことの外には別でもなければ変つてすらもゐなかつた。それはまるで嘘のやうな空々しさで、たしかに彼の身辺に、そして彼の精神に、新たな芽生えの唯一本の穂先すら見出すことができないのだ。その出来事の異常さをともかく理性的に納得してゐるといふだけで、生活自体に机の置き場所が変つたほどの変化も起きてはゐなかつた。彼は毎朝出勤し、その留守宅の押入の中に一人の白痴が残されて彼の帰りを待ってゐる。しかも彼は一足でると、もう白痴の女のことなどは忘れてをり、何かさういふ出来事がもう定かではない十年二十年前に行はれてゐたかのやうな遠い気持がするだけだつた。/戦争といふ奴が、不思議に健全な健忘症なのであつた。(「白痴」)

 そんな白痴との生活のなかで「彼には忘れ得ぬ二つの白痴の顔があつた」と言う。先ず一つ。「その顔の一つは彼がはじめて白痴の肉体にふれた時の白痴の顔だ。そしてその出来事自体はその翌日には一年昔の記憶の彼方へ遠ざけられてゐるのであつたが、ただ顔だけが切り放されて思ひだされてくる」ものである。
 それにしても、何故、その顔だけが肉体の他の部位を差しおいて記憶の闇からたえず思い出されてくるものなのか。伊沢によれば、顔中の具体的な特徴がそうさせるわけではない。それでは、いったい何故なのか?
 伊沢を代弁する語り手によれば、はじめてふれた「その日から白痴の女はただ待ちもうけてゐる肉体であるにすぎず、そのほかの何の生活も、ただ一ときれの考へすらもないのであつた。常にただ待ちもうけてゐた。伊沢の手が女の身体の一部にふれるといふだけで、女の意識する全部のことは肉体の行為であり、そして身体も、そして顔も、ただ待ちもうけてゐるのみであった。驚くべきことに、深夜、伊沢の手が女にふれるといふだけで、眠り痴れた肉体が同一の反応を起し、肉体のみは常に生き、ただ待ちもうけてゐるのである。眠りながらも! けれども、目覚めてゐる女の頭に何事が考へられてゐるかと云へば、元々ただの空虚であり、在るものはただ魂の昏睡と、そして生きてゐる肉体のみではないか」と。
 だから、「忘れ得ぬ」顔の一つは、伊沢がふれたときの白痴の空虚な顔にほかならず、顔の空虚な点が「忘れ得ぬ」ものにさせるのである。ならば、彼は何故、空虚などにふれようとしたのだろうか? この答えは「も一つの顔」にあるはずだ。

も一つの顔。それは折から伊沢の休みの日であつたが、白昼遠からぬ地区に二時間にわたる爆撃があり、防空壕をもたない伊沢は女と共に押入にもぐり蒲団を楯にかくれてゐた。爆撃は伊沢の家から四五百米離れた地区へ集中したが、地軸もろとも家はゆれ、爆撃の音と同時に呼吸も思念も中絶する。(中略)攻撃する相手の様子が不確かだから爆音の唸りの変な遠さが甚だ不安であるところへ、そこからザアと雨降りの棒一本の落下音がのびてくる、爆発を待つまでの恐怖、全く此奴は言葉も呼吸も思念もとまる。愈々今度はお陀仏だといふ絶望が発狂寸前の冷たさで生きて光つてゐるだけだ。(強調引用者)

 あらゆる「言葉も呼吸も思念も」失調させる三月十日の空襲下の「押入の中で、伊沢の目だけが光つてゐた」。力ずくで、上空から垂直に介入する敵の攻撃は、地上の水平面を引き裂き、周囲を闇に変える。敵のかかる不確かな攻撃が彼から言葉も呼吸をも奪い取り、かろうじて残った光る目さえも闇にとかし込もうとする。そのとき、そこで「彼は見た。白痴の顔を。虚空をつかむその絶望の苦悶を」。
 思念にも言葉にも呼吸にもことごとく見放された「目」は自ら何も捉えることはなく、ただ「光つてゐ」るだけである。そんななか「忘れ得ぬ」ものとしてその目に辛うじてさしせまられる白痴の顔。その顔は、ただ「虚空をつかむ」。思念の手前で、そのように彼の目に映し出されている顔なのだが、であるならば、押入の暗闇のなかで「絶望の苦悶」をもってさしのべられる「虚空」とは何か? 白痴がさしのべる「虚空」とは何か?
 もちろん、他になにがあるというのか。そう、伊沢である。ただ暗闇に目を点らせている男である。それは、「絶望が発狂寸前の冷たさで」一点光る目の向こうに「待ちもうけてゐる」だろう「虚空」の顔。白痴がふれた時の伊沢の「空虚」な顔。
 この後続けて伊沢はこう嘆く、「ああ人間には理知がある。如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめてゐるものだ。その影ほどの理知も抑制も抵抗もないといふことが、これほどあさましいものだとは!」と、白痴の空虚さを嘆いてみせる伊沢の「理知」はしかし、犬や芋虫や豚やらに重ね合わせて見とめられる白痴の「肉体」と、その「空虚」の点で重なるのである。そしてその「空虚」な点で互いを必要としている。互いに目を光らせ、そのたびに闇をなんとか逃れては、息を継ぐ「空虚」な「二つの白痴の顔」。
 伊沢にとって「忘れ得ぬ二つの白痴の顔」とはだから、白痴と私、私にとってのあなたとあなたにとっての私でなければならない。たとえば彼は、「男と女とただ二人押入にゐて、その一方の存在を忘れ果てるといふことが、人の場合に有り得べき筈はない。人は絶対の孤独といふが、他の存在を自覚してのみ絶対の孤独も有り得るので、かほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独が有り得ようか。それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独の相のあさましさ。心の影の片鱗もない苦悶の相の見るに堪へぬ醜悪さ」と人ならぬ白痴の顔相に苦言を呈している。
 しかし、彼女がつかもうとした「虚空」とは、目の光を残して他の生きる印を喪失した彼のほかなかったのである。白痴は見た、彼の顔を、虚空をつかむその絶望の苦悶を。
 まして彼の孤独の相も彼女にひけを取るものではなかった。というのも、「彼は一足でると、もう白痴の女のことなどは忘れてをり、何かさういふ出来事がもう定かではない十年二十年前に行はれてゐたかのやうな遠い気持がするだけ」で、「その出来事の異常さをともかく理性的に納得してゐるといふだけ」の、この実に「理性的」な男もまた、というよりそう言って自分の正体に気付こうとしない彼こそまた、孤独な「芋虫」でなくて何であろうか?

――
 ひと先ず、「爆撃が終つた。伊沢は女を抱き起したが、伊沢の指の一本が胸にふれても反応を起す女が、その肉慾すら失つてゐた。このむくろを抱いて無限に落下しつづけてゐる、暗い、暗い。無限の落下があるだけだつた」。
 坂口安吾は自らの告白を綴った小説「いづこへ」(46年10月)で、最も嫌悪する「一番汚い女」に、にもかかわらず――「私はこの女を連れて落ちるところまで堕ちてやらうと思つた」――意を決して「泊りに行かうよ」と誘う段をこう記述している。

女の顔にはあらはに苦笑が浮んだ。女は返事をしなかつたが、苦笑の中には言葉以上の言葉があつた。私は女の顔が世にも汚い、その汚さは不潔といふ意味が同時にこもつた、そしてからだが団子のかたまりを合せたやうな、それはちやうど足の短い畸型の侏儒と人間との合の子のやうに感じられる、どう考へても美しくない全部のものを冷静に意識の上に並べなほした。そして、その女に苦笑され、蔑まれ、あはれまれてゐる私自身の姿に就て考へた。うぬぼれの強い私の心に、然し、怒りも、反抗もなかつた。悔いもなかつた。さういふ太虚の状態から、人はたぶん色々の自分の心を組み立て得、意志し得る状態であつたと思ふ。(強調引用者)

 女の汚さを思い、そして、そう思いつつも女を無視しえない男の汚さを、女の思いを通して思わずにいられない「理性」の底のなさ。男と女、この二つ交差する白痴の顔を――幾作品にもわたって転換しつつ――思い描いた安吾が命じる「空虚」なる「理性」とは、だから、何か特定のものを回復するための「堕ちよ」ではすまないし、たんに堕ち続けるというのでもない。
 「いづこへ」の先の記述の後、安吾はすぐさま手の平を返すようにこう記述する。「然し」、と。「私は然し堕ちて行く快感をふと選びそしてそれに身をまかせた。私はこの日の一切の行為のうちで、この瞬間の私が一番作為的であり、卑劣であつたと思つてゐる。なぜなら、私の選んだことは、私の意志であるよりも、ひとつの通俗の型であつた。私はそれに身をまかせた。そして何か快感の中にゐるやうな亢奮を感じた」のだと。
 堕ち切ることなどできぬ。「堕落論」にも同じような一節があるのだが、堕ち切って「虚空をつかむ」その瞬間、私たちはしょせん堕落の作為でしかない「堕ちて行く快感」に、つまり「色々の自分の心を組み立て得、意志し得る」ところにまで心底堕落した「太虚の状態」とは遠くかけ離れた「堕ちて行く快感」に、擬似的に身を落ち着かせるだろう。そしてそれは避けがたい。
 だから再三くり返せば、安吾が命じる「空虚」なる「理性」、くずしては作る「組み立て」への「意志」を命じる「太虚の状態」とは、何かを回復するための「堕ちよ」ではすまないし、たんに堕ち続けるというのでもない。堕ちようとしても堕ち切れず、また堕ちたくもないのに堕ちていくほかない「理知」と「肉体」、「生きよ」と「堕ちよ」の飽くなき闘いなのである。「生きよ堕ちよ」と安吾はくり返した。
 間違っても、間に句点が割って入ってはならないこの「生きよ」と「堕ちよ」とはまったく同時に響いている声であり、同じ声に聴かれる命令である。このことは、当時を振り返って安吾もそう告白している一つの逆説、誰よりも戦争から避難したがる反面、誰よりも戦争につき合わずにいられなかった伊沢がギリギリの状態で示してくれてもいる。

「僕はね、ともかく、もうちょつと、残りますよ。僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝め得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されてゐるのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。もうあなた方は逃げて下さい。早く、早く。一瞬間が全てを手遅れにしてしまふ」/早く、早く。一瞬間が全てを手遅れに。全てとは、それは伊沢自身の命のことだ。早く早く。それは仕立屋をせきたてる声ではなくて、彼自身が一瞬も早く逃げたい為の声だつた。彼がこの場所を逃げだすためには、あたりの人々がみんな立去つた後でなければならないのだ。さもなければ、白痴の姿を見られてしまふ。(…)

 ここで注意すべきは、彼が動きたくても動けないのは、おそらく、匿っている白痴の女の姿を見られたくないから、危険を顧みずにそうしているのでは必ずしもないということである。
 以下、足早に確認しよう。「天地はただ無数の音響でいつぱいだつた。敵機の爆音、高射砲、落下音、爆発の音響、跫音、屋根を打つ弾片、けれども伊沢の身辺の何十米かの周囲だけは赤い天地のまんなかでともかく小さな闇をつくり全然ひつそりしてゐるのだつた。変てこな静寂の厚みと、気の違ひさうな孤独の厚みがとつぷり四周をつつんでゐる。もう三十秒、もう十秒だけ、待たう。なぜ、そして、誰が命令してゐるのだか、どうしてそれに従はねばならないのだか、伊沢は気違ひになりさうだつだ。突然、もだへ、泣き喚いて盲目的に走りだしさうだつた」…。
 そう、だからじっさいのところ伊沢は、己れが白痴であること、「気違ひにな」る己れの「白痴の姿」を見られたくないのではないか? すなわち、自ら知っていようと知らざれども、伊沢が見られるのを避けている「白痴」とは、己れの姿にほかならず、早急に隠さねばならないとすればむしろ伊沢の「気違ひ」なのだが、ここではしかし隠す隠さないといった「肉体」に対する「理知」的な判断はさして問題ではない。「誰が命令してゐるのだか、どうしてそれに従はねばならないのだか」、かかる「気違ひ」じみた「理性」の判断(決意、決断…)が、ほとんど動物のような抜け目なさ(あれもこれも知っている…)と大胆さ(決断せよ!)とを交えつつ戦火を切り抜けていく足跡を追わねばならないのだ。そこでは、女の白痴の「本能」の方がむしろいくぶんか理性的でさえあるだろう。

小さな十字路へきた。流れの全部がここでも一方をめざしてゐるのは矢張りそつちが火の手が最も遠いからだが、その方向には空地も畑もないことを伊沢は知つてをり次の敵機の焼夷弾が行く手をふさぐとこの道には死の運命があるのみだつた。一方の道はすでに両側の家々が燃え狂つてゐるのだが、そこを越すと小川が流れ、小川の流れを数町上ると麦畑へでられることを伊沢は知つてゐた。その道を駆けぬけて行く一人の影すらもないのだから伊沢の決意もにぶつたが、ふと見ると百五十米ぐらゐ先の方で猛火に火をかけてゐるたつた一人の男の姿が見えるのであつた。猛火に火をかけるといつても決して勇しい姿ではなく、ただバケツをぶらさげてゐるだけで、たまに水をかけてみたり、ぼんやり立つたり歩いてみたり変に痴鈍な動きで、その男の心理の解釈に苦しむやうな間の抜けた姿なのだつた。ともかく一人の人間が焼け死もせず立つてゐられるのだから、と、伊沢は思つた。俺の運をためすのだ。運。まさに、もう、残されたのは、一つの運、それを選ぶ決断があるだけだつた。十字路に溝があつた。伊沢は溝に蒲団をひたした。/伊沢は女と肩を組み、蒲団をかぶり、群集の流れに訣別した。猛火の舞ひ狂ふ道に向つて一足歩きかけると、女は本能的に立ちどまり、群集の流れる方へひき戻されるやうにフラフラとよろめいて行く。「馬鹿!」/女の手を力一杯握つてひつぱり道の上へよろめいて出る女の肩をだきすくめて「そっちへ行けば死ぬだけなのだ」女の身体を自分の胸にだきしめて、ささやいた。/「死ぬ時は、かうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて、おい、俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をただまつすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分つたね」/女はごくんと頷いた。(強調引用者)

 この頷きに、伊沢は「女が表した始めての意志」を見て、「いじらし」く思う。「いじらしさ」のあまり、「逆上」し「狂ひさうになる」。そうであれば、この女から返された無心の頷きは「始めて」でも、「ただ一度の答へ」でもあるまい。「俺の運をためすのだ」。こうして放心し切った「空虚」な二人の交接は、そのとき言葉を失って怖気づくほかなかった伊沢にはたとえ分からなくとも、あの空襲下の押入のなかでも、そしてまたかつての「火の海」でのあのときも実現していたはずのものである。(続く)