感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

これはだれの政治か?

 「『グランド・フィナーレ』を少女愛抜きで!」。中島一夫さんは、阿部和重さんの『グランド・フィナーレ』をめぐる評価に、際立って症候的な特徴を見出している(「新潮」7月号)。『グランド・フィナーレ』は、冴えない男の少女愛ロリコンを核となるテーマにかかげたものなのに、その表立った作品評価のどれもが、どういうわけか肝心の少女愛に触れずに評価を下していると。
 確か、再犯者の性犯罪としてとりわけ注目を集めた奈良女児殺害事件が報道された時期が、ちょうどこの作品が芥川賞を受賞した頃で、少女愛に駆動された性的虐待を描写しもしたこの作品はタイムリーに受け取られたわけです。だから匿名がとりあえず保証されるネットなんかでは『グランド・フィナーレ』をめぐって少女愛云々は無責任きわまりなく過剰に語られたわけだけれど、文学に携わる立場として責任が求められる雑誌など紙媒体では、PC含みの政治的な批判が当然ありうるロリコンを総スカンし、阿部さんを文化的に囲い込むことによって政治的に無害化してしまったというのが中島さんの主旨。
 例えば、この作品を少女への偏愛を描いた作品として読むのは誤読であると断言する論者。また、フェミニズムの観点から批判してしかるべき論者による『グランド・フィナーレ』評もけっきょくそれに触れぬまま、阿部和重を、ジェンダー構造を撹乱する女性像を描き出す稀有な男性作家として評価している点を中島さんは疑問視する。
 そんななかこの作品を読んで「これってロリコンじゃん、くだらねえ」と一刀両断してしまえたのは実は石原慎太郎さんくらいだったわけで、いまや文学を政治的観点からとらえられるひとがいるとしたら、それは文学から文化的な装いを剥ぎ取って政治的なテーマをあられもなく引き出し、白黒付けるマッチョしか存在しない。

実はここに、『グランド・フィナーレ』にとどまらない大きなジレンマがある。話題の森岡正博『感じない男』もいうように、この国が「ロリコン大国」になりつつあるとして、それに批判的たりうるのはもはやフェミニズムではなく、むしろフェミニズムが批判してきた石原的な男らしい男によるマッチョイズムしかないというジレンマである。そしてロリコンを嫌悪する者が、ロリコンを糾弾してくれるその種のマッチョを、とりあえず”政治的”に支持するだろうことは容易に想像がつく。その時、今や”文化的”になってしまったフェミニズムは”政治的”にいかなるスタンスをとり得るのか。(P224)

 なるほど。あらゆる文化的装いを剥ぎ取り、政治的観点から世界に白黒付ける者が、公の社会のトップに立つ者だとしたら、あらゆる文化的装いを剥ぎ取り、好き嫌いという単なる趣味判断から世界に白黒付ける者が匿名的ネットの世界を席巻していて、それらの動きを議員や知事になるようなひとは大いに毛嫌いするんだろうけれど、そういう彼らの政治的観点とは実は趣味判断に過ぎないんじゃないかという現実を照らし返してくれるような鏡としてネットの世界はあるのかもしれない。
 いずれにせよ、ロリコンネタを半ば放任された空間と、政治的判断を好き勝手に振り回すマッチョな空間との二側面に対して自称文化人は、PCをバカにする余裕を見せながら、カルチュラル・スタディーズだのフェミニズムだの構造主義といった「文化」を楯に牽制しているつもりになっているが、実は無力で、というか自ら決定せぬまま事態の決定責任を全部彼らに委譲しているんだろうと、それが結局『グランド・フィナーレ』評に症候的な形であらわれてるんだろうというわけだ。


 私は、中島さんによる以上の見取り図を読みながら、文学において政治を引き出すこと、導入することって難しいなあと思いました。文学作品が政治とは次元の違う文化的なものだという前提に立てこもったら、政治的に「表現の自由」をめぐる争いもできなくなるし、そもそも、何をやっても許されるような根拠として文学が聖域化されることは誰も認めないはずです。文学=聖域なんて等式、恥ずかしくて今の誰が本気で信じるだろう。
 自分的にはAを慰めるために書いたものがAをいたずらに傷付けることになり(そして「表現の自由」をめぐって訴訟が起こり)、逆にAを嫌悪していたBに思いもよらぬ慰安を与えた、そんなような言葉のわけの分からない動き、言葉の因果にそなわった恣意的な結び付きこそ文学の本領であって、それゆえに文学は文化にとどまらず政治と不可分なはずなのです。
 話を戻せば、中島さんは、『グランド・フィナーレ』から「少女愛を消去することに躍起」な文化的な男たちを上記の理由から批判しました。その上で、少女愛にスポットを当て、主人公の男が愛を差し向ける少女を天皇と同一視する。「不断に享楽を喚起させる無垢な存在」という点において少女は天皇と重なるというわけだ。阿部さんは、少女を愛する男を描写しながら、その実、現在「ロリコン大国」になりつつある国家の国民を批判的に提示しているのである。
 このような作家の批判精神に基づいた政治性を「文化」で払拭することなく摘出しなければ、いつまでたっても構造主義的テクスト分析はマッチョな政治的判断に抑え込まれるばかりだし(「都立大学」からの文学の追放)、「文化的」に飼い慣らされたフェミニズムはいつまでたっても政治的たりえないと。
 ただし、忘れてならないのは、いうまでもなく『グランド・フィナーレ』には表向き天皇など描かれてはいないし、テーマにすらなっていないということです。普通に読めば、単なる少女愛に溺れる俗物的な男の話でしかない。
 フェミニズムが何故政治性を失い、文化的になったのかはいろいろな理由があるのでしょう。フェミニズムのことに関して偉そうなことはいえないけれども、私なりに理由を挙げるとすれば、直接利害が関わるわけじゃないのに、なんにでも男性中心主義とかいって批判を繰り広げていた記憶がフェミニズムにあります。たとえばフェミニストの側から「男流文学論」とかありましたけれど、なるほどこういう見方があるんだと思う半面、なんだか理不尽な批判(批判のための批判?)にさらされているような、個々の作家・作品が気の毒に感じることもありました。
 もちろん、おおよそのフェミニズムが様々な具体的利害関係が生じるなか権利を獲得していった政治的季節があったのを私は知っている。しかしそれがメディアの流通過程で都合よく解釈されたりするうちに、糞でも味噌でもなんにでも男性中心主義批判としてフェミニズムが利用され、次第に政治性を失い、文化的な据わりのよいものになってしまったような印象があります。要するに、私がここで気にかかるのは、中島さんのは糞でも味噌でも「天皇批判」になってはいないかということなのですが。
 ここでは中島さんにしたがって「文化的」を、なんでも平準化し無害化するものと定義します。ならば、それと対立関係におかれた「政治的」とは何か? 批判すべき事象・対象Aを事象・対象Bと同一視し、同じ観点「男性中心主義」として切り込んでいったとき、見えなくなるものを拾い上げていく作業がむしろ政治ではないのでしょうか?
 中島さんの、少女愛の導入および天皇少女愛という結び付けは、その当否は別にしても、『グランド・フィナーレ』評の症候的な部分を明らかにして相対化するきわめて政治性にとんだ批評だと思う。しかし、「少女=天皇」が前提になって論が展開されはじめると、結局少女愛天皇(という文化的概念?)にすりかえられてしまったと思うしかない。きわめてタイムリーな少女愛とはぜんぜんちがって、どうやら渡部直己さんの『不敬文学論序説』以降文学界ではいまや(いままでも?)天皇は「PC」ではないようですし(島田雅彦さんの近著『おことば戦後皇室語録』も参照のこと)。

 
 普通に『グランド・フィナーレ』を読んでみてほしい、この少女愛に溺れる男の話から天皇(批判)が浮かび上がるだろうか? 中島さんのロジックは、第一に、『グランド・フィナーレ』について誰も核心の「少女愛」を読み込まないという現状を分析、「少女愛」を改めて摘出し、第二に、渡部直己さんの阿部=「今日の天皇小説」評を根拠に、『グランド・フィナーレ』の少女は天皇であるという論理を展開させる。ここで紙面の四分の三が経過しているけれど、当の作品を読んでの分析はこの後に続く十数行程度しかない。この作品を読んでクリティカルな「反革命的な作品」と読むにはかなりのアクロバティックな深読みをするか、上記した第一から第二の、作品外の情報をもとに読み込んでいくしか手はないのではないでしょうか?

国立劇場の舞台に立つベテラン女優」のような二人の”少女”による、劇の「上演」開始を告げる『グランド・フィナーレ』のラストに語られているのは、要するに「国立劇場」の「満員の座席」を埋めているだろう国民を、無垢な”少女”(天皇)が代表=上演[リプレゼンテーション]しているという”夢”にほかならない。(P224)

 確かに、性愛対象にされる少女が天皇に似ているといわれれば似ているような気がするというところが天皇という概念の融通の利きまくるところで、だからこれが天皇だと言われればもうその言を批判する気さえ起きなくなってしまう(政治の文化的吸収装置?)。一体、当の対象を少女愛に挿げ替えたことに、作家のどのような政治的戦略があったのだろうか?
 以上、私は、中島さんのテクストを半ば批判的に読んでみました。とはいえ、このように一見無関係な概念やテクストを結び付けながら一つの物語をもった批評を展開するという試みは、ときに政治的に有効たりうるだろうし、ただ批評としてみても完成度を高める作法の一つだと思う。これは生半可な技術とセンスじゃできないと思うし、中島さんは批評家のなかでも群を抜いて高度な技術とセンスを持つ一人だと思っています。
 ただ、このテクストから感じられるのは、文学作品の政治性を云々するとき、この作品から引き出されたものなのか、それとも批評家が様々なテクストを結びつける過程で一つの作品に見出そうとしたものなのか、たとえそれが曖昧でも分けるべきではないのかと、こと最近思うことです。中島さんの今回の場合はやはり後者のほうで、中島さんがもつ「天皇批判」の欲望が『グランド・フィナーレ』に相対的に適切な構造を見出し、転写されたものとして読めてしまう。中島さんはそれでもこれは阿部さんの欲望の現れであり政治だというのでしょう。
 しかしこれはいったい誰の欲望であり政治なのでしょうか? 作家の欲望を代行(リプレゼンテーション)するかのごとく、作品に一切描かれていない欲望の対象を読み込んでしまう欲望とその政治的判断はいったい誰のものなのか? その欲望と政治的判断は、それこそ阿部さんを「文化的に保存しておきたい」欲望を後押しするものなのではないか?


 『現代小説のレッスン』の石川忠司さんは、日本語は「ペラい」という性質を踏まえ、阿部和重さんの諸作品を読み解きました(8/17日記参照)。「ペラい」というのは、発話が発話対象をズバリ単刀直入に言い当てることができないから、対象に対して際限なく無節操に発話を繰り出すほかない結果、表現が薄っぺらくなってしまうという性質を形容したものである。阿部さんは、その日本語的なペラさを敢えて引き受けつつ作品を叙述し、それによってペラい日本語的な有様を批判しているというのが石川さんの阿部評でした。
 しかし石川さんの前提には問題があると思う。日本語はペラいんじゃなく、「ペラい」と思われてきたと考えるべきではないか。ペラいゆえに崇高視されるのであれ(本居宣長時枝誠記など)、批判されるのであれ(マルクス主義、日本語廃止論など)。
 だから、「日本語=ペラい」を前提して話を進めると、肯定するか否定するか二者択一のどちらとも決着のつかない泥沼に陥ることになる。まさしくこれが、当の対象から離れた挙げ句、地に足付かない解釈の解釈を際限なく繋げるペラい言葉の伽藍を築くことに結果する元凶なわけです。単に日本語がペラいわけじゃなくて。
 石川さんは、阿部さんが(ペラいゆえの)言語行使の暴力性に自覚しているがために、『シンセミア』以前では敢えてそれを暴発させ、『シンセミア』において遮断し、自己コントロールできる範囲にとどめ飼い慣らしたという論理展開をしましたが、この論理も「日本語=ペラい」を前提しているがゆえでしょう。
 もとより、言語(日本語)行使の暴力は、ペラいから抑止しようとか、さらに引き伸ばそうとか意図して言語行使者のコントロール圏のうちにとどまるものではないはずです。けっきょく、特定の言語システムをペラいとすることにより、あたかも別のところにペラくない言語状態・言語システムがあるかのような論理的前提が問題なのではないでしょうか。
 もし問いを立てるとしたら、問うべきは、何故日本語はペラいのかではなく、何故ペラいと見なされてきたのかであって、日本語=ペラい(=天皇制…)と見なす解釈共同体(のペラさ)に問いを向けるべきではないか。そのうえで阿部さんを肯定的に評価するとすれば、日本語=ペラいという因果関係(の領域設定)を当然視・前提にして論を進めるような立場に批判的な小説だと評するべきなのかもしれません。
 思えば、日本(語)はペラい、空虚だ、スーパーフラットだ、中身がない等々と言われて久しい。そのような様態を骨抜きされた権力システムとしての天皇制と重ねながら指摘する向きもありました。誰かに何かを語るとき、論理的前提(「Aは男性中心主義だ」「Bはペラい」…)は必要だし、そもそも利害関係が切迫してからんでくるものならそれをマッチョにでも立てなければならないわけだけれど、それが自明視されるやいなや、政治の文化的囲い込みがペラペラと始まるのかもしれません。

今日は批判的な言葉ばかり書いてしまいました。ごめんなさい。