感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

鹿島田真希の苛立ち、長崎の苛立ち

 今回ここで書くことは、鹿島田真希さんの小品「女小説家」(「群像」5月号)と「俗悪なホテル」(「早稲田文学」5月号)を読んだ印象の諸々。ただし『俗悪なホテル』はこれを100倍くらい増量して展開すると面白そうだけど、これだけだと余りぱっとしないというのが私の感想なので、ここで分析の対象になるのは、比較的『六〇〇〇度の愛』に近似した「女小説家」のほう。先ずは、やはり上手だなと感心した理由を素描し、それから、前回『六〇〇〇度の愛』を読んで感じた違和(8/9参照)の理由も少し分かった気がするので、それについても少々。
 手法・文体は本人も認める通り、かのドゥラスさんからささやかな影響を受けたもので、物語のモチーフはニコール・キッドマンさん主演で部分的映画化(『めぐりあう時間たち』)されたヴァージニア・ウルフさんの『ダロウェイ夫人』からのもの。ただしこれに関しても本人が『ダロウェイ夫人』をめぐる小文(「文学界」5月号から「死を欲望する意識」)を書いていることもあり、ひっきょうプレテクストからの影響云々なんて彼女にとっては、問題にされること自体さしたる意味がないのだろう。
 ところで、小説は、一連の行為や様態の連続によってストーリーを形成するものである。このとき、通常なら、行為(様態)と行為を心理的なプロット(因果関係)で結び付けることにより、ストーリーを円滑に展開することが保証される。Aは泣いたという行為(a)とAを見たBは笑ったという行為(b)だけでは不条理だが、この行為の間に心理的な理由付けを施してあげると、私たち読者はそれなりに納得づくでストーリー展開を追うことができる、というわけ。「Aは泣いた。かつてAにバカにされて悔しい経験をしたことのあるBはAを見て笑った」とか。
 これに対してはもちろん様々な偏差がある。長短こもごも一風変わった心理的味付けを導入するケースもあれば、行為aと行為b間を加工せずそのまま接続するケースもあるし、他の行為や描写などで肉付けするというオプションも当然考えられる。
 「女小説家」の場合は、行為と行為の間を切断、引き伸ばし、そこに様々な体験や記憶(ただし当座の行為とは直接関係のない体験や記憶)、それらに纏わりつく感情の動きや印象の明滅を埋め込んでいくという手続きをとる。行為と行為の間を切断し、引き伸ばし、繋げるこのプロセスが当作品の見せ所であって、行為と行為の連続によって構成されるストーリーは、一連のプロセスが結果した現象でしかない。
 以上の手続きは、主人公「女」に即き過ぎず、かといって離れ過ぎない位置に設定された語りのポジションが効果的に機能している。即き過ぎると(主観描写)、「女」の無意識をも含む一連のプロセスを語ることを可能にする距離を失ってしまうし、離れ過ぎると(三人称客観描写)、行為間の切断線が見えなくなってしまい、語り手が人体を切り裂き縫合する手術を間近に見せるような――そう、この作品はダミアン・ハーストさんの、牛を裁断し各部位に従い輪切りにしたホルマリン付けのアートを想起させる。そこにあるはずなのに本来見えてはならないものが不意に現前するいかがわしさと美しさ――プロセスの動きが相対化されてしまう恐れがあるから。
 この語り手は、そのつど現象として現れる行為の「断面」を切り分けて各「側面」に展開、時空間にわたる幾つかの断層として、「女小説家」をとらえ続けるだろう。『六〇〇〇度の愛』が仕掛けた語りも、異なる人称の二側面からこの断層をとらえる試みであった。
 この断層的プロセス下にあって体験・記憶・感情・印象等々はときに混在させられ、圧縮・溶融し、また比喩ベースでのきなみ相似関係や相反する関係に並べられるなど徹底した加工を施される(例えば「女」がスーパーでひとりの婦人と出会ってからフェルメールの絵画に思い至る一連の挿話はこの作品の方法論を手短に説明してくれる換喩的な要旨として分かりやすい)。
 だから、神経症病みの「女」主人公が、スーパーの主婦や妹の息子、自分の旦那などとのやり取りのなかで無闇にヒステリーを起こさずに、彼らと共感できる瞬間は、それがたとえ誤解を帯びたものであっても、徹底して加工されあたかも舞台で演じているかのような状況下においてしかない。
 以下の引用は、「女」が買い物の途中、ゼリービーンズをめぐって諍いをする男子女子が思わずそれを大量にこぼしてしまう一場。 

そしてとうとう誰もが予測する瞬間が訪れた。両者のゼリービーンズは台秤の上にぶちまけられたのだ。水色、黄緑、青色、紫色、という少年の集めた寒色系のゼリービーンズと、赤色、橙色、黄色、桃色、という少女の集めたゼリービーンズが散在していた。女は無意識にそこから数字を読みとろうとしていた。女にはそれが色覚の検査表に見えたのだ。そこには暖色系の集まりの中に寒色系の点が数字を描いており、色盲でない女は、つまり赤と緑の区別がつく彼女は、暖色系の点の集まりの中にはっきりと寒色系の点の集まりによってできた数字を発見することができた。しかしこの散らばったゼリービーンズは、数字という最も単純な記号さえ表現していないこの色の集まりは、女を不快な気分にさせた。寒色と暖色の混在は、両極端な気候、冬と夏の温度、季節という周期すらをも破壊し、女の過去を支離滅裂にした。女は幼い頃冬の季節に都会の石畳をブーツで蹴った感触を忠実に思い出そうとした。そしてその感覚を十分に味わい、堪能し、引き伸ばし、そこから始まる一連の事件を思い出そうとしていた。女は小説が書きたかったのだ。しかし足の裏が思い出した石畳の感触は、女が思い出す前に雲散し、夏にゴムサンダルの可塑性が石畳の硬さを吸収したという思い出が邪魔をした。相反する印象が、女に言説を生成することを妨げていたのだ。

 行為と行為の間に、様々な性質を持った言葉が切り貼りされ断層をなしていく一連のプロセスは、たんに物語に停滞感を与えるものではなく、彼女に潜む狂気を精確にとらえていくものだ。

女は「そうだわ」と呟き眼球を剥きだしにして、少年が座っているソファの後ろにある窓のカーテンを勢いよく開けた。少年は飛び立つように書斎から逃げ出していった。女は窓の外の景色を見た。もしこの部屋が車両なら、景色はものすごい速さで流れていってしまう。歯の裏にはチョコレート。それを舌で歯がそうとして黒目はぐるぐると回り、もうなにもかもが溶けて混ざってしまう。草原も、山も、家々も。速い、ということ。そのスピードが、人間の知覚を狂わせ、鈍くし、曖昧にして、個々の存在の自己同一性の境界線を溶解し、くっつける。連想するもの、液状の熱いガラス、アメーバー、缶の中でくっついて一つの物体となったいくつものドロップ。第一印象はすっぱく、味わうと甘く、最後にはペースト状にからみつく。マシュマロは景色となり、そして体験となる。そして女は混乱する。あらゆるものの意味と価値との順序が滅茶々々になる。誰もが共通に見ている電車の窓の外の景色と、歯の裏にチョコレートがくっついたという個人的な体験の優劣が女にはわからない。女は思った。自分はどうして小説という方法を選んでしまったのだろうか? 意味と価値を明確にして、その優劣を活字にするのが自分の仕事ではなかったはずではなかったのか。そうだ。若い時にはこんな迷いはなかった。/女は呟く。「何故?」と。少年がいないことには気づかない。

 この一場は、「女」が妹の息子からチョコ入りマシュマロをめぐる顛末を聞き出すところ。息子は、「女」の家に来るときに乗った電車の中で食べたマシュマロが歯にくっついて困り果て、窓の外の景色を見ることが出来なかったことを、「なにか食べた?」それは「どんな味」か?「景色はどんな風だった?」等々と執拗に聞いてくる「女」に掻きまわされながらなんとか話す。
 ここで語り手は、当事者の息子がいなくなってから息子の体験を「女」が我が身に起こったこととして引き寄せ、再び断層を切り出して見せてくれる。例えば、車中のマシュマロ体験をめぐる「すっぱく」、「甘く」、「からみつく」。「景色」と「体験」、形容詞と動詞がここにおいて因果関係のある行為・様態の結び付きを解除し、ゼリービーンズを前にしたときと同じように、無秩序にからみあう言葉の断層ぐあいは彼女の、そして小説という狂気を知らしめて見事としかいいようがない。

 それなのに、ここで私は、『六〇〇〇度の愛』以来固着した微弱な違和を感じたのです。何故、「誰もが共通に見ている電車の窓の外の景色」がここで提出されるのかと。この集団的な体験・記憶と、歯の裏にチョコレートがくっついたという個人的な体験・記憶が、何故ここで比較関係に置かれ、意味付け価値付けの優劣を、「女」をめぐる一断層にくわえねばならなかったのかと。
 もちろんこれは、とりわけ『六〇〇〇度の愛』に際立って以来の鹿島田さんの主要テーマのひとつである、ごく私的な体験・印象と集団が共有する大きな体験・記憶との関係云々であり、それはこの両者の間に単純な価値の優劣をつけることなく、複数の側面から相同性や異質性をとらえる試みとして結実しているわけです。本人もこのことを明確に述べていました(「すばる」8月号)。
 けれども、いま「女小説家」に絞って言えば、全体を通して「女」の周辺をめぐり執拗にその断層を切り出していく語りの手続きが、「誰もが共通に見ている電車の窓の外の景色」(と個人的な体験の対比)において不意に「女」近辺から離脱し、即き過ぎず離れ過ぎない位置からひどく一般的な立ち位置に移動、浮ついた感触を私に残さずにいない。
 良くも悪くもこの語り手(のえとらえる「女」)は、集団的体験と個人的な体験を区別しそこに優劣をつけるイデオロギーに我慢ならないんだろうなあという、ひどく凡庸な印象を強くしてしまう。そもそも、集団的体験か個人的な体験かという二項対立はもっともらしく見える偽の問いで、その二項対立を前提にしてこの間に相同性や異質性をとらえていこうとすればおのず限界があるような気がするのです。
 「女小説家」はほんの一瞬だけれど、こういう公私の対比が大局的に出てくると、どうしても集団的なものの方が虚偽であるゆえ仮想敵として立ち上げられ、個人的なものの方が真実だというようなものの見方をしてしまわないだろうか? 
 ちょっと考えさえすれば、この私以外は「誰もが共通に見ている」なんてこと、本当はあるわけないわけです。携帯いじくったり、本読んでたり、景色見ながらでもエッチなこと考えてたり、酔いつぶれてたり、色々ある体験が車中に閉じ込められているわけでしょう。私的なもの、マイノリティーなどを擁護するときに陥る、言うなればイデオロギー批判のイデオロギーが立ててしまう論理の一端が、仮想敵としての集団的体験だということです。このとき集団的体験なるものは、作品の引き立て役として捏造されたものでしかない。
 もちろん、『六〇〇〇度の愛』の場合は、長崎の被爆体験には、ひとつの体験として括れない様々な私的、あるいは私的以下のものたちが無秩序に散在していることを、注意深く描写していました。とはいえ、この被爆地・長崎の(集団的)体験と記憶が、平成を生きる女の理由なき気まぐれの旅行――長崎へのいささか気まぐれな要因を含んだ原爆投下と同じように――を通じて相対化される語りの有様はどうだろうか?
 この作品における被爆地としての長崎という大枠テーマの導入は、平成のさしたる不安もなく生きる男女の日常と、長崎の当時(の体験)と現在(の記憶想起)に様々な相同性や異質性を見出し、両者の二項対立を相対化するための装置でした。女はそれを確認しながら、行き過ぎていくのです。長崎の地に何故来てしまったのかという問いをはぐらかしながら。あれが似ているこれはどうかと平行線をたどるのみ。しかし、以上の相対化の手続きをどんなに繰り返しても――たとえこの相同性と異質性の確認がテーマのみならず語りの位相におよんでも、というかおよべばなおのこと――、集団と私、公私の二項対立を維持・確認することにしか貢献しないのではないでしょうか。 
 これは批評の問題ですが、『六〇〇〇度』評を幾つか読んでみて、それらはけっきょく長崎・原爆については触れずに作家の技量を褒めるか、小説の次元において長崎と作中人物の空虚な日常を重ねる今日的な発想を褒めるかしかないわけです。もちろん私がこの前書いたレヴューもそれらと変わりありません。
 とはいえもちろん、くり返せば、小説の語りには以上の如き損失(と私が勝手に思っているところ)はなくて、むしろこのような偽の二項対立の断面を引き伸ばし掘り崩していくところに真骨頂があるのだけれど。要は、この前も書いた通りやはり技巧上の熟達ぶりとテーマ導入上の信じられない軽さとのギャップにあるようで(後者の軽さは前者の非常に抽象性の高い語りによって疑われない程度に糊塗されているようなのですが)、けっきょくそれは、各人日常を生き残ることの生活の智恵ばかり増す一方、「誰もが」共有する大文字の出来事など望めない今日的な課題だったりするのでしょうか?

 いうまでもなく小説は、すぐれた政治的見解を述べているか、最先端の歴史的視点を導入しえているかで評価の優劣がつけられるものではない。だから、最初から政治だとか歴史なんて無視すればいいわけです。「女小説家」の最後は彼女の夫に、「小説家は現場に入るべきではない」と言わせていた。
 しかしそれでもなお、鹿島田さんは、『六〇〇〇度の愛』で長崎というかつて(?)国民的な記憶を抱えた場所を物語の一プロットとして採用し、集団的な体験と個人的な体験という偽なる二項対立に「女小説家」を逡巡させたわけである。
 これはしかし、たんに批判して済む問題だろうか。そこに私は、熟練した語りの巧者のうちに秘めた或る苛立ちを感じ取るべきではないだろうか。どんな大文字の出来事も、語りの断層の一部に相対化し還元する自身の小説に対するやり場のない苛立ち。鹿島田さんのこの苛立ち(?)は、私は大いに買いだと思う。
 国民的な記憶だの集団的な体験だのが偽だとは言え、それをなくすことなんて当然できない。誰もがそれを拠り所に私的な記憶や体験を立ち上げ日常をやり過ごすほかないのだから――無数の集団的な記憶の交差点に明滅するのが個人的な記憶なのだから――、鹿島田さんが個人(小説?)を超えた記憶や体験を語りの断層に打ち込むとき、この苛立ちを読むべきだし、今後も読み取りたいと長崎は願う。

追伸1:ちなみに、散らばったゼリービーンズの無秩序なイメージを色覚検査表として意味付けることも、個人が集団的記憶を媒介しなければ実現できないことであって、だからこのゼリービーンズが検査表と同値されると同時に私的には崩壊する一場も、車中のマシュマロ体験と同じ語りの構造を持っているのじゃないかという意見もあるかもしれない。意味だの価値とはそもそも特定の集団と共有して成り立つものなのだから、言葉の意味付け作業をする以上は、集団的な記憶は介在させざるをえないのだと。だから、車中のマシュマロ体験シーンにおける集団的な体験と個人的な体験に分割する手続きを殊更批判することは意味がないのだと。無論そうとも言えるんだけれども、やはりここでは、散らばったゼリービーンズの無秩序なイメージを色覚検査表として意味付けることと、そのように「誰もが」意味付けるだろう(はずだ)と認識し、個人的な体験と対比させることとは切り離して考えなければならない。追伸2:昨日「ウルトラマンマックス」を見逃し(朝7:30はないだろう…)、哀しいいきおいでこれを書きました。その後、中国へ生活の拠点を移すべく旅立つ二人の友人の送別会。様々なレベルでの中国の台頭は、いままで問われなかった記憶や体験を日本の断層から切り出してくれるのだろう。彼らはその一助になってくれるのかな。