感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

『現代小説のレッスン』は、現代小説のレッスンたりうるか?

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

 石川忠司さんの『現代小説のレッスン』。このテキストは、文学の「エンタテイメント化」の指南書である。エンタテイメント純文学問わずこれから作家を目指すひとは間違いのない必読書であろう。
 最近、文学を「エンタテイメント化」する営為が方々でなされているが、いずれも試行錯誤しているわりには成果は芳しいものとはいえない。よって私が指南してあげようという代物。
 文学とはいうまでもなく書き言葉(活字)によって成り立つものである。私たちは様々な物語を活字(を読むこと)によって消費する。しかしかつて物語は活字によってではなく、何より、眼の前に現前する語り手の熟達した語り、語り手の話し言葉によって、直接私たちに向けて語られるものだった。文学は、そんな語り手と聴き手との話し言葉を介した直接的な物語の需給関係を遮断し、活字を介した間接的なものにしたのである。
 そこでは、語り手が物語を語る上で駆使した多様な言い回し、独特の声質、身振り手振りいっさいがっさい物語から削ぎ落とされる運命にある。このように語り手固有の語り口を不要とした活字による物語を前提とする文学は、その貧困な己れの有様をなんとか繕うために様々な営為を、近代はじまって以来試みてきた。その結果、開発され、制度化した要素は主に三つある。内省・内言と思弁的考察、それに描写である。近代文学の物語を語ることの貧しさはこの三要素の配分によってとりあえず免れることになる。
 以降、三要素は様々な作家の営為にしたがってバランスをとりながら、しばしば逸脱したいくつもの組み合わせが試みられた。しかし、本来物語を豊かに感受させるために編み出された主要三要素だったのだが、時が経つにつれ常軌を逸したバランスを取る営為が現れる。他の要素を抑えて一つの要素が肥大したり、前衛だの実験と言えば聞えはいいが、その試みは当然「エンタテイメント化」からほど遠い代物だ。「エンタテイメント化」には欠かせない物語消費を疎外することになってしまうのだから。
 逆に、「エンタテイメント化」を焦って主要三要素を極力排除する傾向がある。この三要素は、世界だの自然を観照しながら内省する近代的な個人を実現するものだが、いまや太宰や漱石の如き近代的な個人は「エンタテイメント化」を疎外するものでしかないからだ。とはいえ、エンタテイメント文学と称してよく陥りがちだが、活字がもたらした三要素を排除しすぎると、かえって物語の貧困さが目立ってぺらぺらになることは疑いを入れず、よってこの試みも「エンタテイメント化」からほど遠い代物である他ない。
 以上のように、活字を導入した近代文学の成り立ちから現代の「エンタテイメント化」の試行錯誤に至る経緯を説明する著者による文学の「エンタテイメント化」とは何か? それは物語消費を疎外することなく、活字がもたらした三要素を活かすこと、これに尽きる。活字で物語を組織する他ない以上、物語を内省他三要素で豊かにしながら、三要素の出過ぎた真似を牽制すること。
 これを例証するために著者は、都合三人の作家を挙げ、具体事例にしたがって証明することになる。描写の「エンタテイメント化」の代表として村上龍さん、思弁的考察の代表として保坂和志さん、そして内省・内言の代表として舞城王太郎さん。
 しかし、奇妙なことに、この三者は十分な完成度には至っていない、その筋の偉大な失敗者でもあると著者は弁明する。文学の「エンタテイメント化」を指南するのだったら、それを明朗に実現しているという理由で冒頭に例示される宮崎誉子さんや藤沢周さんをさらに展開すればいいものの、著者は何故かここで反面教師というわけでもない失敗例に執拗に拘るのだ。「以下の章では主に、宮崎誉子藤沢周ほど明朗ではなく、その「エンタテイメント化」の努力を見極めるにいくらかの手続きが必要な書き手たちにかんして、彼ら(彼女ら)の偉大な達成および無様(であるとともにやはり偉大)な失敗にかんして詳しく――もっともかなり頻繁に大幅な寄り道を行うつもりだが――考察する」(P18)。
 私は、以下、この「偉大な達成および無様(であるとともにやはり偉大)な失敗」はひょっとすると石川さんの当のテキストではないかという問いを明らかにし、あわせて文学の「エンタテイメント化」とはそもそも何かという問いに触れるだろう。


 このテキストは個別作品を評価するに当たって、実は、文学の「エンタテイメント化」とは別に、もう一つの評価軸をもっている。それは、物語の「領域設定」というものである。

素になって考えてみてほしい。一介の生身の人間以上でも以下でもない小説家が、物語の展開を自らの身体性の十全な延長において、リアルに把握しかつきわめて細かくコントロールできるのはまさに小「藩」的な時空感がギリギリの限界なのではないだろうか。「県」ではダメ。まだまだ広すぎるし、中央集権体制を前提としたそこでは人間たちの移動も激しすぎる。「藩」においては比較的人口も少なく、住民も代々固定しているため、例えば事件Aが事件Bに影響を与えて事件Cまで引き起こすとか、もしくは祖父の代のあの事件が今こうたたってとか、そうした生身の人間が持つアナログな知性によっても十分把握・制御できるかたちで因果の流れを設定し得るというわけだ。「藩」を舞台に展開されるドラマは、作者の立場からしてもっとも責任持って監督し易い特質をそなえている。(P140)

 この部分に限らずおりにふれ著者は作品として物語るに適切な範囲は分相応な範囲に限るべきだと、積極的に領域設定を指定しようとしている。しかし、読んでいると気付くのだが、どうやらその限定の身振りはダミーで、本意は別のところにあるようなのだ。つまりむしろ、領域設定は範囲の大小問わず客観的な尺度など望めず、したがって恣意(的暴力的介入)を免れないゆえたえずそれに自覚的でなければならないということが、彼の領域設定論の本意であるようなのだ。
 物語への活字の介入は、かつて分相応だった物語(を語ること)を、直接向き合う聴き手不在のままとめどなく冗長に語ることを可能にしたし、活字にとりついた内省他三要素もくわわって物語の境界領域はさらに引き伸ばされ、また曖昧さを強めたのである。このとき目を向けねばならないのは、領域設定の範囲画定以上に、設定すること自体の根拠のない暴力的な恣意判断の介入、なのではないかということだ。だからもう一つの評価軸とは、領域設定の大小ではなく、それに無自覚かいなか、ということになる。
 著者がせいぜい「藩」程度に限定づけするのは、それが本来的な問題なのではなく、広範囲すぎるといきおい自ら領域設定した恣意性を失念し、その領域を必然的・客観的なものと勘違いしてしまう恐れがあるからそれを未然に防ぐための措置に他なるまい。かりに設定した領域が必然化したとき、それは「エンタテイメント化」を離れて、再度、かったるい制度化された近代的な個人のうちに物語を囲い込むことにしか貢献しないだろう。「国民的=統計的な事態を個人的=内面的な領域へと伝統的に回収し、適当な「文学」をデッチ上げようとする誘惑に」(P146)。
 要するに、この領域設定に関する評価基準も、文学の「エンタテイメント化」を測る指針と関係するものなのだ。つまり、文学の「エンタテイメント化」とは、物語の軸と内省他三要素の軸との「領域設定」に自覚的でなければならない、ということではないか?

 ところで著者は、阿部和重さん『シンセミア』の節度ある「藩」的な領域設定を讃えてこのように述べていた。「この「藩」には暴力も満ちているけれど、それらはもはや『ねじまき鳥クロニクル』流のイメージとしての「暴力」でも、ペラい言語に鼓舞された妄想としての「暴力」でもなく、因果のベクトルを進行させるためのたんなる物語的因子の一つにすぎない」(P173)と。確かに頷ける『シンセミア』評ではある。
 しかしこの作品の、因果を一斉に解錠する大団円を見れば明らかな通り、むしろここでの真骨頂は、物語の因果に奉仕する暴力ではなく、因果のひとつひとつに潜む暴力であり、ひっきょう因果(が設定されること)の暴力にこそ関わるものではなかったか(だから『シンセミア』はそれ以前の、毎度挫折を余儀なくされる暴力をテーマにした作品群を正しく継承するものではないか)。著者の阿部評はいささか性急なものを感じる。
 またこれと同じように、著者は村上春樹さん評価に関わっても、最終的に節度ある物語の領域設定に至った村上さんを讃えるだろう。しかしここでの性急な節度ある結論にも、どうも違うような、私は疑義を呈さざるをえない。
 というのも、心理分析や告白をめぐる解釈によって作中人物なり作家当人の心のうちを掘り下げる節度なき態度をおりにふれ批判しながら、村上さんの一連の作品に、フロイトを導入しつつ原罪意識から近親相姦的欲望の達成(本来的な欲望対象の発見→原罪の解消)に至る心理的プロセスを読み込む著者の手つきは理解し難いし、そんな心理的プロセスをへて達成された村上さんの作品(『海辺のカフカ』)を「空前絶後」といくぶんアイロニーを含みつつ評することも肯んじえるものではない。いつだって事が済んだ地点から解釈を行使せざるをえない心理学用語で過不足なく説明できる事態ほど「空前絶後」から遠いものはないのだから。
 結局ここで著者は、その恣意的判断を失念するかのように急な領域設定に乗り出し、それで満足してしまうようなのである。物語の節度ある領域設定が恣意的なものであることを知っていて、その確率的な恣意性を踏まえた領域設定を奨励する著者であるにもかかわらず。
 彼の語り口がエンタテイメントを体現するかの如く、何事にも拘らない表層的な速度感溢れる魅力に満ちていながら、とりわけ特定の対象(W村上や舞城さんなど)には倫理観に貫かれた近代的な個人よろしく裏のある持って回った言い回しで、絶賛とも酷評ともつかないアイロニーに満ちたものであることは、以上のことと無縁ではあるまい(この要領をえないアイロニーは普通にW村上や舞城さんをエンタテイメントとして消費する一般読者には不可解なものとして喉元過ぎるだけで、恐らくある一定の「純文学」共同体(?)にしか通用しないきわめて反エンタテイメント的なものかもしれない)。


 以上のきわめて凡庸な疑義は、私のような見方もあったりして領域設定とはひっきょう相対的なものにすぎないのではないのかということで、であるならば、テキストのメインテーマである「エンタテイメント化」の領域設定はどうなのかということです。それは結局のところ、文学の「エンタテイメント化」とは何かということなのですが。
 もちろんそれは、活字を背負った文学がもたらした、物語消費を疎外するかったるさを、活字の条件を維持しつつ消去することだと明確に定義されています。それはさらに物語の軸と内省他三要素の軸(活字の条件)との「領域設定」として明確な評価基準が打ち出されもします。
 けれども、それが、具体的な個々の作家の営為(の「エンタテイメント化」)の評価基準となってその達成と失敗を裁断するというかたちを明確にとるとき、こと石川さんにとっていったい文学の「エンタテイメント化」とは何なのか、何のために問われているのかという問いが改めてもたげてくると思うのです。
 このテキストは、進行するにしたがいメインテーマをさしおいて、「藩」的視点の導入を提唱するし、また村上さんの「不在の中心」の術中にはまって見せるかのごとく心理分析を駆使するわで、ついには舞城さんにおける内省の「エンタテイメント化」の一つの達成を確認しだい、幼児的に過ぎると「現実的経験」の導入を勧める始末でした。文学の「エンタテイメント化」という領域設定が、その恣意性ゆえに要請される厳密さを放棄して、しょせんそんなこと無理なのだし、そもそも俺の評価基準なんてそんなところに限定されるものではないのだからと、幾つかの評価基準による文学の領域設定を――ひとつひとつは「藩」程度の説得性に止まるものですが――試みているものが『現代小説のレッスン』なのではないか、ということです。しかし、このテキストの魅力は、アイロニーでもなんでもなく、単純にストレートな気持ちで、この辺にこそ由来するのだと私は考えているのですが。だからこれが著者の「エンタテイメント化」追及の単なる判断停止だとは思わない。著者が保坂さんの判断停止に見て取ったように。
 石川さんの各所発言や以上の身振りから知られるように、文学の「エンタテイメント化」、文学に本来的に内在する「エンタテイメント化」があるとすれば、恐らく一見そう思われがちな売れる売れないとか、物語の読みやすさ消費しやすさに限定されうるものではない。それは、物語るに足るものを喪失したあとでなお何にもまして心に残る思弁的考察の記録を留めるものでもありうるし、何にもましてジャンルの垣根をかき回し賑わす、そうして領域再設定を促すいい加減な内省・内言でもありうるし、誰より近代文学がもたらした語りの二重構造(傍観しながら関与する、見られながら見る)に敏感であるゆえ機能単位に分けられて物語に奉仕しながらいきおい融通無碍に動き回る描写が「エンタテイメント化」に奉仕しないとも限らない(『半島を出よ』の物語のクライマックスが正しく描写にまみれたシーンを待ち望まずに読み進めた者はいないのではないか)。
 とはいえ、「エンタテイメント化」とは何でもありの概念ではない。著者が行った、複数入り乱れながらもひとつひとつは明確な領域設定下における試行錯誤においてしか望めぬものなのだ。それが抽象的な言いならば、言い換えよう、ひっきょう近代文学とはその起源から現代の「エンタテイメント化」に至るまでこの種の試行錯誤とともにあったということなのだ。
 これは資本主義が高度化した今日的な課題なのではない。話し言葉に由来する物語を書き言葉に馴致させる試みは当然、言文一致練成期の文学が敢行したことだし、この時期に活字から開発された三要素が自明視されてのち、前衛的モダニズムの実験において自立しはじめた活字および三要素を継承しながら再び物語への没入との接続を目指した川端翁や谷崎翁がいたわけだが、彼らがどのような呼び名のもとにそれら試行錯誤を行っていたかは、この際重要ではない。この現代において、ひとりの批評家が従来の領域設定とはまた異なった境界領域から、それもとりあえずは呼び声喧しい「エンタテイメント化」の波に乗りつつ、文学のありうべき姿に向けて試行錯誤を重ねる様がひたすら重要なのである。