感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

キレる語り、アミービック・ナラティヴ

註:金原ひとみさん=キレる語り説は、雑誌「an・an」における嵐の二宮和也さんの的確な指摘による。

AMEBIC

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 前作『アッシュベイビー』を読み終えた後、デヴュー作『蛇にピアス』から『アッシュベイビー』と書き進めた作家の次回作はひょっとすればこんな感じになるんじゃないかという密かな予感があった。いやその感触は予想以上のもので、前作で見出されたキレまくりドライヴ感いっぱいの語りはいっそう磨きがかかり、加速に加速をくわえ、今作に至ってその一人称語り手「私」はついに臨界点に到達、崩落の憂き目に会うことになる。

 芥川賞受賞の『蛇にピアス』は、身体にピアスやタトゥーを施す「人体改造」にチャレンジする語り手「私」を中心にした話。そこで「私」は、いささか逸脱した身体感覚を生きているとはいえ、身体に対して(辛うじてではあれ)コントロールできる立場にある自己意識を確保していた。むしろ、自己意識が過剰な危機、不安定な局面に晒されないために、そのつど身体に異物を噛ませ「人体改造」しているという側面もあるのであり、この「私」を見れば、意識に精神的なダメージを与えるための「人体改造」という側面が稀薄なのは明らかだ。「人体改造」=忌むべきものとする短絡的な考えほど古臭いものはない。
 以上。『蛇にピアス』は、「人体改造」というモチーフを今日的なリアリティーにおいて作中に導入し、それを物語上の一挿話一道具に終始させることなく、主軸の媒介(Gauge)として作中人物を関わらせ、物語を起動させている点、悪くないなと思いながら、その実、改造車にする余地のない凡庸なファミリーカーに乗せられているような決まりの悪さをその語り口から感じたものでした。語り口がテーマについてけてないというか、16G仕様の穴に00Gのピアスは入らないんですけどみたいな。
 続く『アッシュベイビー』もまた、語り手「私」の視点から、自己意識と身体の分裂が問題にされていた。キャバ嬢として日夜複数の男女との愛のない性交を繰り返しながら、ただひとり愛してしまった男との思い通りにいかない関係に悩みまくり、意識をめぐらす「私」。だからといって、本命男以外との繰り返される性交が躊躇されることは一切ない。それは悩みの遣り場なく、うまくいかないことの捌け口(としての無作為な身体行使=性交)として為されるわけではないし、そんな「私」には、そもそも愛する男に対する罪悪感といったものも皆無である。
 いわば、前作の「身体改造」に辛うじて見られたような、メンタル面の諸問題が身体のレベルにおいて処理されるとかといった心身連関が、今作ではそれを嘲笑うかの如くほとんど機能していないのである。身体は様々な場所でとめどなくヤリまくっているし、自己意識は別の場所で飽きもせず男との関係を悩んでいる。身体に対するコントロール権を放棄している意識は、身体が勝手に動いているからといって殊更考え込むこともしない。
 そんな「私」は愛する男に対し、文脈の見境なく「好きです」と告白し続ける。しかしそれを受け止めることのない男を前に、その言葉はほとんどメッセージとして機能することなく、吐き出される呼気のように存在しないも同然。意識は絶望的に空転する。
 以上。身体の暴走と意識の空転劇。「私」に見られたこの心身分裂状態は、「私」とルームシェアする男、獣姦と幼児性愛すなわち弱き者への虐待愛に明け暮れる男にも当て嵌まるのだが、なにより、文学上の今日的な主要テーマのひとつである「ルームシェア」が、二人とも各々の部屋にひきこもるゆえまったく意味をなしていない点、二人の心身分裂状態を語って余りある。
 なんて、作家はここでルームシェアなんて小馬鹿にしてるんだけどね。というかそんなことはこの作品においてどうでもいいことで。重要なのは、ここで作家が手に入れたらしい「キレる」語り。
 誰もが一度や二度はキレたことのあるご時世、いうまでもなく「キレる」というのは、その行為の根拠となる感情なんか私のなかになかったし、行為を被る対象(行為の目標)にも根拠なんてなかったんだけど、とにかくキレちゃいましたキレてみましたキレたっていいじゃんという、周囲にとってはえらい迷惑千万な行為のこと。「私」は物語冒頭から辺り構わずキレている。その語り口も鋭く。男とのやり取りのなかでむやみやたらに「好きです」、「好きです」と言い続ける「私」も実はキレているのだし、「ルームシェアニスト」とか思わず口に出る気の利いた言葉や台詞にもキレてるがゆえに吹き出さざるをえないセンスが光る。キレる笑い。

註:キレる笑いといえば、マンガでは言わずと知れていて、鴨川つばめさんの『マカロニほうれん荘』から古谷実さんの『行け!稲中卓球部』をへて、ハグキさんの『ハトのおよめさん』まで数多くあるけれど、文学ではどうだろう、キレる笑いで押し捲る、町田康さんと舞城王太郎さん辺りが本命なのかな。

 もちろん、「私」が陥った自己意識――なんの支えも根拠もないがゆえに空転する自己意識は、キレる語りと相性がいいに決まっている。ここに至ってピアス穴も00G全開に開かれることになる。であるならば、次にこの語りが捉えるものは一体なんだろうか?

 新作『AMEBIC』の語りは、ノーマル・パートとアブノーマル・パートに分かれている。語り手「私」が精神錯乱に陥るとき、意識の外で「私」が書いた「錯文」がアブノーマル・パート(以下AP)。この作品は、きわめて居心地の悪い印象を読者に与えるAPの錯文からスタートし、おりにふれ顔を出す錯文から意識を回復した「私」の正常な思考のもとに、この錯文をめぐって内省、解釈をくわえるパートがノーマル・パート(以下NP)ということになる。散発的に顔を出すAPと、それについて内省するNPとの相互干渉によって物語は進行するというわけだ。
 語りの二つの位相を物語の駆動力とする点は、前回レヴューした鹿島田真希さんの『六〇〇〇度の愛』と同じである。しかし二作品の語りは決定的に異なるものだ。『六〇〇〇度』の人称の異なる二つの語りは、それぞれ語りの権利が同じように与えられており、基本的に並列関係にある。したがって、読者の印象は、ある対象・状況を、抗争しあうことなく、別の人称=視点から語っている、といったものである。
 他方、『AMEBIC』はどうか。まず第一に、二つの語りは同じ権利を与えられていない。NPは自己意識のコントロールのもとに(しばしば不自由を感じながらも)自由に語ることを許されているが、APは本来語られてはならないものである。意識が触れたくないものとして抑圧した記憶や生理的な知覚感覚が、声やイメージとなって辛うじて語りを行使する位相である。声やイメージとなって辛うじて意識のもとに回帰してきた結果が、錯文に結実しているというわけだ。NPはそれを無視できず、ほとんど意味をなさないその文を前に圧倒され、内省し解釈を繰り出し続けるほかない。
 しかしそれはNPの戦略だとも言える。つまりAPを疎外することによって、NPの意識はたえず自己が正常であることを確認することができるのである。いわばAPはNPの正常さを保証する鏡(支え)のようなものとして機能している。二つの語りは並列関係ではなく、垂直にある鏡像関係だと言えそうだ。ここでの読者の印象は、意味不明な謎の対象(AP)を読む意識(NP)といった単線的なものに収まるだろう。
 それを裏書きするように、錯文の形式はきわめてオーソドックスなものである。なぜか。第一に、句読点を恣意的に打つことによって、句読点に基づいた文の分節を混乱させる。例えば、ノーマルな意識のもとでは二つの文であるべきところ、二文の間にある「。」を取り払って強引に一文にするとか。一つの単語の間に、「、」を無数に入れるとか。そして第二は、恣意的な仮名漢字変換。例えば「死んだ」を「新だ」にしたり。
 これらの記法は、この文=記述がアブノーマルなものであることを示すインデックスとして機能してくれる。とはいえ、これらはきわめてオーソドックス、ノーマルきわまりない記法である。理由の第一は、日本文学史をひも解けば、新感覚派の諸氏、あるいは谷崎翁(『卍』『盲目物語』など)以来の常套手段。第二は、とりわけワープロが導入されてから目新しいものではない。よって読者の目には、「私」のAPは実に真面目に狂っている、というか(マニュアル通りの)狂いを演じているかのようにさえ見えてしまうだろう。
 このような記法に基づいたAPとNPの掛け合いは、作品の半分近くまでを支配している。そこで「私」は身体にほとんど何も嚥下することを許さず、極度の拒食状態に陥っている。この拒食行為は、自分の身体やそれを通過する食物を異物と見なし、徹底的に排除するものだろう。しかしそれは、ときおり吐き気を催したり、周囲の人々との接触を通しておりにふれ回帰する。すなわち「私」の拒食を軸にした生活は、語りの構造上、NPとAPの関係に等しいといってよい。そしてこの身体を抑えて肥大する自己意識のオバケは、前作『アッシュベイビー』から繋がる意識の有様にほかならない。

 しかし、状況は静かに変転しはじめていた。その最初の大きなポイントとなるのが、「私」の彼――「私」とは別の婚約者有り――がトイレの換気扇に「私」の死体があることを想像し、彼女に伝える場面である。

「トイレの換気扇、何だか変な音がしてる」/「ああ、ひゅうひゅうって、風の音でしょう? ここ二、三日続いてて。管理人に言おうと思ってたの」/「何か詰まってるのかな」/「何か、ねえ」/「死体とか」/「私が入れた?」/「いや、俺が」/「誰の?」/「……うーん、君の」/「私の?」/「うん」/「私はここに居るでしょう」/「君を殺した俺が見ている幻かも」/誰の? と聞いた時、彼が一瞬頭に婚約者の事を浮かべたのが分かった。いたずらをした子供のような、こちらを窺うような微笑みを浮かべていた。私は、自分の死体が換気扇に詰まっている様子を想像した。きっと中は暗いのだろう。きっと風が冷たいのだろう。きっと私の体は硬くなっているのだろう。頭の中の私は、かっと目を見開いていた。次第に頭の中の映像は死体ではなく、死体が見ている映像に切り替わる。薄い明かりが漏れていた場所がぱっと明るくなり、そこの縁に手がかけられる。少しずつ、さらりとした髪を纏った後頭部が現れる。それは少しずつ上がり続け、やがて現れた二つの目と、視線が合う。/「どうしたの?」/「今トイレに入った時」/「うん」/「あなた換気扇の中の私を覗いたわね?」/「うん」/「私」/「うん」/「目を見開いていて」/「うん」/「恐かったでしょう?」/「俺は君に恨まれている?」/「……そうね」(…)P078

 ここで作家は、「私」の抑圧した身体・死体を、「私」が書いた錯文ではなく、彼(との関係)を通して「私」の意識に投じている。これが第一に重要な点。ここで「私」は、実は彼の「幻」かもしれないという問いが提示されるが、それは次のステップへの伏線となるだろう。
 以上のように、身体・死体に象徴される自分の抑圧していたものの存在――「私」が最も嫌悪する排泄物や嘔吐物はおりにふれトイレに流されていた――を、彼を通して意識した「私」なのだが、次にこの「私」は、自ら自分の死体を見ようとするのである。これが第二に重要な点。
 最初、「私」は死体を見ているが、次に視線を入れ替え、死体から「私」をまなざすことになる。しかしそこに映し出される対象もまた死体同然の何物かなのだ。痩せ細り、ひとから奇異な視線を投げられたり「骸骨」といわれようと否認し続けた自己の死体同然の何物か、が。
 次に折り返し続く会話をみても明らかな通り、こうして「私」が自身の抑圧したものを見ることができたのは、彼の視線、彼の「幻」を通してだからこそなのだ。APとNPをめぐる「私」の自己意識の悪循環を解放した彼(の「幻」)。「私」はそれを確信をもって彼に伝える。換気扇の中の私の死体を発見したのは彼ではなく、むしろこの私であるかのように。

註:ちなみに、APとNPをめぐる自己意識の悪循環を解放したきっかけが他人の視線の介入、その突拍子もない想像力によるものだとすると、ここに、どう見ても金原さんの組織する文面からは違和感の感じられる死体の描写が読者の関心をひきつけずにいない。これはもうあの超有名なホラー映画の一場面、井戸=テレビの枠組から這い出るリビングデッドのあからさまなパロディなのだから。ひっきょうAPとNPの語りの枠組を横断する徴候を示すこのパートは、生死・内外・虚実の境界を掘り崩すリビングデッドをモチーフにした過去の作品を、パロディとして強引に自分の作中に押しとどめる、作品間の横断が見られる一瞬でもあったのだ。これまで金原さんは、あられもないこの種のパロディに対してかなり禁欲的に作品を組織する作家だと思われたのだが、とはいえ私はこの一瞬を高く評価してしまうし、こういうばかばかしく脱力した方向にも可能性があるとは思うのだけれど。

 これ以降、「私」は自分の身体・死体・抑圧したものとの接触を開始し、共生しはじめるだろう。NPとAPは加速度的に紙面を順々に入れ替わる。それ以前と比べたら、二つの語りの間にストレスはまったくもって見受けられない。つまりNPはAPの介入にそれほど悩むことはないし、言及しない。APの錯文は、以前の文面よりも圧倒的に読みやすくなっていく。
 APが以前よりも増して速度を増すというのは、その深刻さにおいてではない。文面の深刻さはかえって失われていき、逆に表層的になっていく有様なのだ。ついにラストは、NPなのかAPなのか、相互に侵食し判然としなくなるだろう。APがNPを通して語っているのか、NPがAPを通して語っているのか、どちらでもありうる体裁を取っている。ここに至ってNPは既に自分の支えとして錯文を必要としていない。疎外した錯文との関係で自己を形成しなくなるのだ。
 語りの構造上NPとAPの関係が以上のような変容を来すなか、「私」はこれまでとは違った対応を取り始めるだろう。それを一言で言えば、「私」をアミービックに分裂させること。「私」を拡散し、人格の複数化を図ること。自己のなかに別の人格を見出したり、他人から人格を拝借して上書きしたり。それこそアミービックに。
 なぜ「私」が彼の「幻」を積極的に受け入れることになったのか、ここで明らかだろう。上の引用における彼とのやり取りは、自己意識の循環から多重化に移行するための、つまり多重化によって自己(文学?)を延命(安楽死?)させるためのトレーニングでもあったのだ。
 換気扇事件以来味をしめた「私」は当然、彼の視線、彼の「幻」も積極的に借り受けるだろうし、最後に至っては彼の婚約者をも自分の物語のフィールドに登場させ、人格の一つとして機能させることになる。
 それ以前の「私」は、婚約者の彼女を人前で敢えて真似、演じることによって一時のカタルシスを得ることに止まった。そのようなパフォーマンスは、彼の婚約者である彼女を嫌悪しつつ羨望するがゆえのものであり、抑圧しつつ何処かで回帰を許すNPとAPの両義的な関係に相似するものであった。
 しかし今や婚約者は彼と同様に「私」の一人格として、「私」の諸人格とアメーバ状に並んで侵食しあうものでしかない。NPとAPの語りが折り重なるように。ある状況において見ればそれはNPに見えるし、別の角度から見ればAPに見える、といった具合に。

 以上から、この作品はタイトルにこめられている通りアミービックな分裂を心底生きているということになろうか? 両手を挙げてその通りと言うことは、しかし今の私には躊躇われる。理由はいくつかの視点から言えると思うけれど、けっきょく、最初から最後までの語りの基調となる「私」語りがやはり支配的な印象を拭えないからだと私は考える。NPとAPは最後まで基本的に「私」を指し示し続け、そこから複数化する余地を与えない「私」が確固としている印象がたえずあるのである。
 最後の方になるにしたがい、「私」が複数に分裂した人格を有する主体であることの証拠が次々と暗に示され、それを自ら疑いはじめる「私」。確かに、最後で「私」が語るAP/NP相互乗り入れの語りはある程度アミービックな分裂を実現しているようではある。ただしそれは、APとNPが曲がりなりにも区画されていたそれ以前の状態があってこそ、相対的にアミービックな意義をなすものでしかない。それは二つの語りの区画が崩壊した様相を示す語りとして効果的に機能するだろう。
 しかしこの作品は、APとNPが相互浸透してから以降の語りを展開することはない。すなわち相互浸透を前提・当然視した上での語りの問題である(あるいはそもそも、相互浸透を前提した上で試みられた語りがこの作品を最初から貫くAPとNPの循環する語りの機制だったのだろうか? そうだとしたら、私は大変な誤読をしたことになるのだが…)。
 AP/NP的な自己意識の悪循環を断ち切ったあとで提出される語りの問題に適切な形を与えた例の一つとして、前回レヴューした鹿島田さんの『六〇〇〇度』があることは確かだと思う。そこにあるのは、ノーマルな錯文、アブノーマルな散文。

註:もちろん、このような語りの可能性は、文学の創生とともにあるものだといえますが、とりわけ80年代以降に極限的な形で提出され、例えば高橋源一郎さんをはじめ何人かの作家によって大胆に試みられてきたものでしょう。最近では、鹿島田さんをはじめ田口賢司さんとか横田創さん、福永信さんらが語りの面白い試みを繰り広げている。

 とはいえ、『六〇〇〇度』の、主体の複数化にしたがってずれながら静かに展開する語りの運動とは違う、張り詰めた力強さが『AMEBIC』の語りにはあると思う。APにキレるNP、NPにキレるAPが団子虫状になってキレまくる語りの力強さが。
 だから今度こそ、APとNPが仲良く力を合わせるところから始めたとき、そのときまだキレる余力がその語りに残されているならば、それこそアミービック・ナラティヴへの進化を遂げる一画期となるのかもしれない。

追伸:先日この時期恒例の顔、稲川淳二さんがテレビに出たときのちょっとした話。霊が叩くドアノックについて。部屋のなかにいる者が、「どんどんどん、どんどんどん」というドアノックを耳にしても特に感じるところはないのだけれど、それが「どんどんどん、どんどんどんどん」と一個過剰に鳴ったりすると、えもいわれぬ恐怖を感じるんだとか。なんかこの人が語ると全部説得的に聞えるんですが、やっぱホラー語りの師匠だよな。尊敬。まあとにかく、この最後に叩かれるいわくいいがたい「どん」がJホラーの妙味だよね。Jホラーを下手にコピーすると、「どんどんどん」のノックの音量をただ過剰に上げれば恐くなるんだと勘違いしたような作品ができるんだけど。ちなみにホラーマンガ『不安の種』(1、2巻。中山昌亮さん)は、先日ついに完結した『新耳袋』のマンガヴァージョンのような位置付けとしてけっこう評判いいみたいですが、ぼくにはあのプチホラーは理解できないというか余り恐怖にも不安にも駆られなかった。一話4、5ページ勝負で、大写しの視覚効果に頼らざるをえないから、なんか無理してるなあという印象を毎話受け続けました。マンガでああいう微妙な恐怖とも不安ともつかない感情を導入するとなれば、ある程度の長さが必要なんじゃないかとも思った。偶然を支配するホラーの対象をフェティシズムに終わらせるんじゃなく(萌え4コマ以降、ホラー4コマは可能か?)、文脈内在的な必然性をもって導入するためにも。成功してる例を挙げれば、古谷実さんの『ヒミズ』とかね。あのモンスターは4巻分の長さがあってこそかもし出される必然性。むろん長ければいいというわけじゃないところに、作家の技術があるわけですが。『ヒミズ』と『不安の種』は、ホラーの対象のイメージや出てくるタイミングが似てるところがあるものの、前者の方があらゆる意味で圧倒的です。ちょっと違ったケースとして、ほかに日常の恐怖を描いた作品を今思うままに挙げれば、望月峰太郎さんの『座敷女』が絶妙。境界例=幽霊。小説なら保坂和志さんの『カンバセイション・ピース』、をあげたら怒るひといるかな。文の余白から立ち上がる幽霊。映像では、べたに『幽霊より怖い話』は佳作だと思うけど、同じ監督の坂牧良太さんの『こぼれる月』は至極真面目に登場人物の精神分析をやっていて、なんか最後まで見れなかったんですが、どうなんだろうなあ。いずれにせよハリウッドが人間のしでかしたホラーを描こうとすると、レクターシリーズを模範にした猟奇的サスペンスものになって、けっきょく非人間的なモンスターの隠喩に収まりがちで、けれど日常的なホラーはやっぱりそういう隠喩的な指向からたえず逃れるものじゃないですか。無論アメリカ映画にもデビッド・リンチロマン・ポランスキーがいます。で、日常的なものの理不尽な憑依を飽くなくテーマにした作家と言えば、かのカフカさんで、池内紀さんによれば、彼って親父とアスベスト工場を経営してたそうで。知らなかったよ。彼、肺病病みだよね。『変身』に繋がる、理不尽なものの憑依とかいろいろ勘繰ってしまいました。ついでにいうと(7/25、28の日記参照)、このいわくいいがたいホラーな対象「どん」こそ、使い方しだい、状況しだいでホラーにも、ギャグ(つっこみどころ)にも転用できる多重態なんだよね。「さよならアメリカ」における多重化のメディア「袋」(あるいは「箱」)と同じく。