感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ゲンバク小説

六〇〇〇度の愛

六〇〇〇度の愛

「自分の過去のいかに劇的な瞬間を語る時にも、違和感は拭えない。かつて自分の過去を無秩序と見なし、それを秩序あるものにしようとした試みはもはやない。違う国のアルファベットが混ざった文字を順番に並べることは不可能だ。/無秩序と違和感で染められた過去の帯を私はそのまま広げる。突飛という海に聞き手を漂流させる。私はその無益な行為を繰り返すしかない。治癒やカタルシスの可能性は、期待しない。涙はない。その事実に絶望することすらない」(「新潮」05年2月号P75)。

 直近の三島賞を受賞した鹿島田真希さんの『六〇〇〇度の愛』の一節。それによれば、秩序だった物語を語ろうとはもう思わない。だから聞き手に、物語を通して感動的な涙やカタルシスを与え、感情を揺さぶろうという意図さえすでにない。
 それなのに、なお語ろうと物語を組織する語り手によって語られた物語の集積がこの作品。果たして、秩序のない語り(によって語られた物語)に物語の権利があるのか? ましてこの語り手は自分の家族と恋愛について語ろうとするのだ。秩序なきラブロマンスやファミリーロマンスなどそもそも語れるのか? 語れたとして、その語りの集積に物語の権利があるといえるのか?

 私は数日前から夏休みをとって現在地方に遠征中なのですが(だから日記は当面お休みの積もりだったのですが)、そこで手に取った新聞の4コママンガ(「信濃毎日新聞」8月8日夕刊「ズクたん」西沢まもるさん)を見ていたところ、ふいに『六〇〇〇度の愛』に思い当たったのです。
 その4コマは時事的なネタとして広島・長崎の原爆をテーマにしたものでした。ツッコミ役のおじいちゃんとボケる飼い犬とのやり取り。まず1コマと2コマ目は、おじいちゃんが悼む感情を露わに「この小さな日本に 2個も原爆が落とされた!」と嘆き、「かなりむごい話だよな」と落胆するシーン。そこから転じて3コマ目に犬が出てきて「オレの場合も たんこぶが2つ」と喋り、おじいちゃんに叩かれた痕らしい頭上のこぶを見せる。そして最後のコマで、改めて犬がおじいちゃんの植木に小便をひっかけながら「植木を2本も 枯らしちゃったんだ」と言う台詞をかましつつ、おじいちゃんに怒鳴りつけられている犬の図という…、これがオチ。
 要するに、原爆二弾が犬のたんこぶと小便に結び付けられて笑いのネタになっているという構成に、軽い戸惑いを感じたわけです。実は『六〇〇〇度』を読んだときもこれと似た戸惑いをともなう違和を感じていたのでした。そこでは、「平凡な日常」と「被爆地」がなんの躊躇いもなく重ね合わされてしまう。つまり、夫とその間に出来た一子とともにとりたてて不満のない毎日を暮らし、ひょんなきっかけで不倫の旅に束の間を興じる団地妻の「平凡な日常」が限りなく「被爆地としての長崎」に重ね合わされてしまうのです。それこそ平然と…。
 最近のアカデミズムの世界では、いわゆるカルチュラル・スタディーズポストコロニアル分析をはじめ、精神分析学や社会学的なアプローチなどによって個々の作品から政治的なメッセージを読み込もうとしたり、個々の作品の歴史的な位置付けをしようとする試みがあり、盛んです。これらの試みに対して『六〇〇〇度』はどのような読解を引き出させるだろうか? かりに私がこのような試みから当作品に接するんだったら、結論から言えば、「戦後60年被爆体験の歴史的な重みは今やないも同然である」といったものになると思う。井伏鱒二さんの『黒い雨』以来、夢にも見なかった「ゲンバク」小説の誕生。島田雅彦さんが戦後左翼を「サヨク」に変換したポストモダンな試みは、ついに、政治信条とは関係なく戦後日本の誰もが共感できると信じられてきた国民的被害体験にまで飛び火することになったのか?

 主人公の位置を占めるこの女が不倫の旅に出た先が、長崎。もとより長崎に行くあてなどなかったし、そもそも旅に出たのも思いつきでしかない。そのきっかけとなったのが、女によれば、団地の非常ベルの誤報で、咄嗟にそれを耳にした女は理由もなく原爆のキノコ雲を頭にイメージし、夫にも告げ知らせることなく長崎に向かうことになる。「私の直感が動いたのは、あのキノコ雲を美しいと思った瞬間から。私はその感情を疑って、長崎について、もっと悲惨なイメージを植え付けようと必死になってこの土地へやってきたのよ。多くの意味があり、しかもそれがめまぐるしく変わっていることを認めようとはしなかった。まるで自分が小さな団地に住むことによって、あるいはそこでエプロンをすることによって、あるイメージを植え付けようとしたかのように。印象を安定させようとしたのね。可哀想な長崎。団地に住む私」(P47)。
 彼女はまた、長崎で出会った不倫相手の青年の肉体に自分を重ね、長崎を重ねる。アトピー性皮膚炎のため体中に傷跡をとどめた男の肉体は、長崎の被爆した土地と重ねられ、その地で放射能を浴びた被爆者のケロイド状の皮膚にも容易に結び付けられるだろう。「自分とよく似た無秩序。それは果たしてあなたの肉体のことかしら? ねえ、それは溶けてつながったガラスの瓶、焦げて誰なのかわからない子供の死体、高く積み上げられたおびただしいしゃれこうべ、それらを総合してもなんの意味もない、そういう状態、その土地のことをいうのではないかしら。私が貪っているのは人の肉体? そうかしら? ある状態、その土地……長崎のことをいうのではないかしら。私が貪っているのは長崎だわ。そしてあなたは、誰でもないあなたは……長崎だわ。/長崎、僕の名前が」(P33)。
 男を、被爆した長崎の無秩序な状態に重ね合わせる女。この女は自ら団地に住みエプロンをすることによって、自身の無秩序な状態に意味付けの杭を打ち込み、秩序(だった物語)を与えようとした。長崎にもそれを試みた。際限なく広がる死体や瓦礫になんの意味も見出せない被爆地に、花柄エプロンをかけるようにキノコ雲の幾何学的に美しいイメージを覆い被せること。そのうえで、横たわる死体や瓦礫に戦争被害の悲劇を読み込むこと。それと同じように、男にも無秩序を見出しながら自分との関係を通して意味付けをし、秩序(=物語)を与えようとする女なのである、彼女は。
 しかし彼女は、無秩序のフィールドに秩序の網をかけることに情熱を傾けているのではない。秩序の網をかけること、夫と一子をもうけ、団地に住みエプロンをかけて夫の帰りを待つ団地妻の物語に染まることがどれほど虚しいことか、彼女はよく知っている。だから、退屈な日常から長崎への逃避行にも情熱が傾けられるわけではなく、けっきょくこの女の物語は他に複数の意味付けの可能性が透かし見えるように語られているのである。その様を、以下、語りの構造から引き出してみる。

 女は、この作品において二つの語りから捉えられている。二つの語りが随時交替することによって女をめぐる物語が展開する仕組み。一つは、一人称で物語を展開する部分。そこでは女の一人称「私」の視点から物語が語られることになる。もう一つは、三人称で物語を展開する部分。そこで女は他の三人称人物と同様、匿名的な代名詞「女」として登場する。そこでの語りはあくまでも「女」に焦点化することが基本で(他の人物には余り焦点化しないということ)、一人称の語りの部分から(へ)の移動を円滑に行うことが出来る配慮はある程度なされているが、前田塁さん(「文学界」連載時評)が指摘するように、この二つの語りの位相にずれが見出されるような仕掛けもなされている。
 つまり「私」から「女」へ、「女」から「私」への移行において「私」=「女」であることが疑わしい部分がままあり、それゆえに女/私は複数化し、女/私の物語は複数化するのである。また、「私」から「女」への接続が一度でもうまくいかなければ、この「私」は、「女」の次に接続される「私」と同一であるかも疑わしくなり、「私」の中にも亀裂が走るだろう。「女」のなかも同様。
 この女/私は作品全体を通して複数の挿話−物語を生きている。例えば、夫と子供と共同生活をする女/私、長崎へ不倫の旅に出る事を決意する女/私、長崎で一人の青年と不倫をする女/私、かつて母と兄と共同生活をした女/私等々。このような女/私は、単一の語りによって語られる限り終始一貫した存在として保証されるだろう。がしかし、先ほど示した二つの語りから生じる「語りの段差」において抽象的な単一性を保持しつつ複数化するのである。
 語る主体の切断と、それによる物語の継承−複数化。これを目覚しい形で可能にしているのが、複数の私/女のなかにあって、書く私/女を配している点である。わけてもそれは、私自身をモデルにした女の物語を書くというのだ。「箱男」/「袋族」にも見られたように(切断を前提した上で、「箱」は物語の継承のほうに、「袋」は複数化のほうに力点があった。前々回前回参照)。私/女はいう。「私にそっくりな過去と現在を生きている一人の女の物語を私は書くだろう。それを私小説というのだろうか」と。
 注意すべきことに、この書く私/女の挿話は、二つの語りの位相を切断しつつ継承されるさまが最もよく見える、症候的な部分になってもいる。「(…)だから私が小説を書くとしたら、主人公となる女もそういう人物だろう。/やがて女が行動を起こす時、つまり物語が始まる瞬間がやってくる。それはいつもと変わらない日だ。なぜその日なのか。理由はない。自殺をする人でさえその日を選ぶ明確な理由はないのだから。ただ些細なきっかけがたまたまその日に起きた。それだけのことだ。女は子供と一緒に夕飯の準備をしている(…)ふと、女を釘付けにする音が鳴り響く。なにかの警報、サイレン、そういったものだ。私たちはそのような音を聞くと、漠然と何か行動しなければと最初に思う」(P8)。
 このように女/私を書く女/私の挿話は、女の物語の背後には、常に一人の女である私が呼吸していることを明示してくれている。ただし、ここでは一見、「私」が物語の外部に立って物語に内在する「女」を統御しているかのように見えるかもしれない。しかし、そんな語りの階層化を打ち破るようにすぐさま、一人称「私」もまた一つの物語に内在する人物として動き出すのである。その背後にはもちろん、物語を眺めながら記述している一人の女である私がいるはずなのだが。

 以上。『六〇〇〇度の愛』は、一人称と三人称をめぐる二つの語りの位相を駆使し、複数の女/私の物語をまとめ上げた。言い換えれば、複数の挿話−物語を並列させながら、そこに単一の語りの視点を貫き秩序だった物語を構成することをせず、二つの語りの糸で縫い合わせる過程で生じるほころびにこそ、いま物語を語ることの可能性を見た、というわけだ。『六〇〇〇度の愛』はそれ自体で完結した語りの総体ではあるが、そこから複数の読みを読み手が引き出せる程度の無秩序を確保していると言える。読み手を突飛な海に漂流させる、とはそういうことだと私は思う。
 物語のなかで、女/私が原爆雲を美しいと感じ、自分や男のことを、被爆地としての長崎になぞらえる読みも、この突飛な海に漂流しているゆえである。彼女自身、この美的感覚が不遜であることを知っているし、被爆地を平成の日常的な風景になぞらえる読みによって隠蔽されてしまう様々な世界の断面(物語の語り方、物の見方)を知っている。それゆえに、被爆地をただ悲劇の語りにおいて悲しむべき物語に限定する営為も傲慢不遜であり、「原爆」という本来無秩序な経験、突飛な物語の海としての「原爆」を隠蔽する語り方なのだということを、私たちに正しく示してくれる。
 だからこそこの女が偶然の誤報を耳にしたことが原因となって、突然頭に湧いたキノコ雲のイメージに魅了され、被爆地としての長崎に足を向けることになったという物語の突飛さは、「それもありだね」と受け入れられねばならない。しかし果たしてそうか?
 
 ところで、読み手である私は、初めてこの作品を読んだときからどうしても拭い切れない距離感というか不信感があるのです。私の素人目でも、三島賞受賞の技術もセンスも疑いないものだと確信しながら、この不信感一つのために、どうしても読みながら乗れないというか、心揺さぶられ圧倒されることがない。それは『六〇〇〇度』に語りの構造が似た『白バラ四姉妹殺人事件』でも感じられたことで、ひょっとすると、鹿島田さんの技術上の形式的な完璧さ感、それにともなう物語のきわめて高い抽象度が下手な感情移入を妨げるだけなのかもしれませんが。
 『六〇〇〇度』に限って言えば、計算され尽くした語りの配置に基づく抽象度の高い物語の展開に、被爆地・長崎のテーマはけっこう乗りが悪い感じがする。もう少し言うなら、この作品は、人間存在の生きる根拠のなさ、空虚さ、それゆえもたらされる複数性などが抽象的な語りに乗っておりにふれ語られるトピックとなっており、その存在の有様が被爆した長崎の瓦礫と化した風景と重ね合わされたわけですが、この長崎の導入の必然性が感じられないということです(さらに、この人間/長崎をめぐる切断と複数性のトピックは語りの形式上にも見事に体現されるものでした)。
 もちろん、ここで私が感じたい必然性とは、作品を単一の物語としてまとめるべく長崎を導入することの根拠、という意味でのそれではなくて。だからそれは誤認、誤報、誤謬、誤読に満ちたもので全然かまわない。恐らくあの『さよなら アメリカ』の袋男と袋女が主体の複数化をめぐって私にかろうじて見せてくれたように。
 しかし繰り返すと、非常ベルの誤報に象徴されるように、この作品上で機能する誤認、誤報、誤謬、誤読――それはもちろん語りの段差によって生じるだろうものも含めて――は、女の長崎への逃避行、すなわち物語への長崎の導入を呼び込みきれず、単なる恣意的な導入に終始してしまっている感じが拭えずにあるのです。歴史家が歴史記述においてこのような恣意的な介入をすると歴史修正主義だと批判されますが、むろん私はこのとてもウェルメイドな作品がそんな評価に該当するとは思えない。
 そう思えないのですが、何度読んでも作品上への恣意的な導入感がやはり拭えず、結果的に物語全体の印象も、焦点化人物である女/私のモノローグとして読めてしまう。だから語りの複数性は技術的に巧いなと感心させられるくらいなのです。こう、なんていうんでしょう、のっぴきならない複数性、誤読が必然的に召還するダイアローグに立ち会えなかったという感じ。
 技術的には高度なのに、結果的に語りがモノローグとして読めてしまうから、長崎という歴史的な場のテーマの導入が物語とのツキが悪く恣意的に見えてしまうのか、その逆なのか、因果関係は分かりませんが、この二側面(語りの構造とテーマ導入)はけっこう関係してるのかなあとも思いました。
 被爆地としての長崎の導入は凄く大胆な試みだと思うし、作家としての鹿島田さんのなかではそれなりに必然性があるような気はするのです。『白バラ』からの展開としてみても。
 また歴史的に見れば、広島と長崎は、被爆によってそれまで蓄積してきた物語の海を一瞬にして歴史の闇に葬られただけではなく、戦後60年を経過した今、その被爆の出来事さえ歴史の闇に葬ろられようとする昨今だといえるのですから。だから、こんな状況下においてもう一度被爆体験を文学史上に表現するにあたってなすべきことは、単に歴史の厚みに裏打ちされた悲劇としてジャーナリスティックに消費する方向ではなく、むしろ抽象的な物語に敢えて長崎の記憶を溶け込ませる試みに賭けられた何かがあるのかもしれない。
 ここまで色々、肯定否定ふくめて書いてみたのですが、けっきょくのところ私が『六〇〇〇度の愛』の決定的な突飛さからどこか顔を背けているのかもしれない。あるいは、そもそも私の感じた不信感は作品評価においてなんの根拠もないものなのかもしれない。その不信感を言葉にすると、偶然にまみれた誤読の必然的な導入(横光利一さんの「純粋文学論」みたいだな…)ということであって、そんなの計算ずくでできるもんじゃないじゃんという謗りも当然ある。というかはっきり言ってかなり胡散臭い。
 とはいえ、発表当時からおりにふれ当たってみたのですが(というのも私の周りは『六〇〇〇度』ファンが多い)、どうしても私の感情が奮い立たされずに、今日8月9日を迎えてしまったのでした。とりあえず時間切れ。

 追伸1。金原ひとみさんの『AMEBIC』を購入。前作『アッシュベイビー』は前々作の『蛇にピアス』より無視できない展開を遂げていたゆえ、今作も期待。他方、綿矢りささんのこの沈黙はなんでしょうか? なんかしでかしてくれそうな。あるいはぼくが見過ごしてるだけ!? 追伸2。こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』。こちらは広島原爆をテーマにしたマンガ。彼女は広島出身だけど、1968年生まれで自分自身は被爆に直接関係のない世代。それでも、被爆は歴史的に様々な関係を経由しつつ今の世代にも決して無縁ではないことを、世代間をたどって淡々と描写していく佳作。『六〇〇〇度の愛』の被爆をめぐる冷たい記憶の叙述とはまた違った歴史の断面。思えば『はだしのゲン』は小学校の頃読んだけど、あれは原爆マンガとかそんな枠組みをこえて強烈に記憶に焼き付いてるもんなあ。