感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

袋のなかの失楽――「箱男」ならぬ「袋族」2

さよならアメリカ

さよならアメリカ

 樋口直哉さんの『さよならアメリカ』は、頭から袋を被って生活する男の話。箱男たちがそうだったように、袋族の男もまた、何ものかに向けて書いている(以下、8/1日記参照)。我々袋族がどのようなものであるのかを。しかしそれは、呼びかけの体裁を取ってはいるものの、それがどこに向けてなのか、具体的な宛先は示されないし、人称さえも指示されない。『箱男』ではかろうじて呼びかけの人称たりえた「君」さえも。
 男は、自分は精神病棟に隔離されていて、その治療法の一つとして袋族になった経緯、袋族とはいかなるものかを記述するよう医者から要求されていると言及する。しかしじっさいは医者になど一度も会ったことはないし、それに、一度も出されたことがないこの監禁された場所が精神病棟なのかさえ不明な状況を男は生きている。仕方がないから、男は、自らの精神状態を確認するためにこのノートを書いているのだとひとり納得するほかない。この通り袋族の呼びかけは、箱男以上に世界の袋小路をさ迷っているのだと、ひとまずは言えそうだ。
 したがって、この男の「袋」を、それを被ることによって生じる権利ともども引き継ぐ者はいない。『箱男』が見せた語りのリレーのように、話者が変換されることはないのである。この出口なしの状態を如何に打開するか、打開を捏造するか。「箱男」的な主体の乗り換え(による打開策)が無理だとすると、「袋族」にとって残された道は、なにか? それは恐らく、主体の多重人格化である。この打開策に基づいた「袋族」の語りの構造は、『箱男』から見れば極端にフラットに見えるだろう。またそのような構造において書く主体にエロチックなものは望めないかもしれない。少なくとも「箱男」的なエロスは。

 「袋族」でも「箱男」と同様、男は当初「見られずに見る」立ち位置を確保する。そのような匿名性であることの利点をおりにふれ主張する。そもそも彼が袋を被った最初の理由は、外部からの視線を遮断することにあった。より正確に言えば、思わず好きになってしまった女の子との性愛関係を遮断するため。緊張の余り彼女からの視線をシャットアウトし、自分が彼女のことを見ていることを彼女に気付かせないために、たまたまあった紙袋を被ったのが「袋族」化する最初のきっかけだったと言う。
 はじめのうちは慣れなかったものの、日を追うごとに袋を被った生活が一日の大半を占めるようになる。そんなとき、男のもとに弟と名乗る者が現れる。半信半疑で話を聞けば、どうやら父が別の女性に産ませた異母弟だとのこと。その日のうちに自称弟は兄である彼がひとり暮らしする部屋に潜り込む。そこで弟は持参したノートパソコンを拡げ、外出する様子を見せることなく、部屋にひきこもりながらウェブを遊歩し、各種掲示板をさ迷っては「カキコ」を繰り返す退屈な生活を送る。
 兄はひきこもりと袋族は違う種族だと定義する。箱男箱男と浮浪者は違うと必死になって弁明したように。しかし、弟のパソコンと兄の袋は多くの点で似たツールであることが示唆されてもいる。似た者同士ゆえに愛憎半ばするということか、じっさい彼らは父とよく似ているとしばしば記述される。兄は父のことも嫌悪する対象として描いているのだが。

 袋族の兄は、「見られずに見る」位置を確保しながら、実は、誰かに見られることを欲してもいる。彼を見た者と仲間になり、あわよくば性愛関係を結ぶことさえ期待しているようだ(もちろん、この「箱男」にも見られた両義的な感情は、既に「見られずに見る」ことが不可能になった時点で回想しつつ書いている話者のもたらすものであるのかもしれないが、少なくとも彼は振り返った当時をそのような両義性において記している)。
 ただし、彼の仲間意識は、同族の者に限定される。袋繋がりのコミュニティー意識。すなわち袋を被った者以外は、無条件で皆敵と見なされるのだ。たとえ家族であっても、である(別言すれば、「家族」は既に特別な種族・属性の権利を失い、「暴走族」だの「日本民族」だの「薔薇族」だの「袋族」等々様々な属性と同じ選択のレベルにある)。それは彼の弟がウェブ上の掲示板サイトにおいて日夜ほぼ決まった「板」(=テーマ)に止まりつつ発言を繰り返す行為に似ている。いまやウェブ上の「板」は同族を示してくれるカテゴリーにほかならない。
 恐らく、以上のこともまた、平成の箱男「袋族」が置かれた袋小路の性質を、巧みに表現する一側面だろう。どちらかと言えば、『箱男』では、箱を被ることの特異性よりも、誰もが箱を被る権利があるという意識のもとに書かれていた。時代は箱だ、みたいな。だから人々は自分がいつ何時箱男になるのかに怯えるかのように箱男の存在を無視したし、既に箱を被った者はいつ何時箱を奪われ、取って変わられるかに怯えたのだ。『さよならアメリカ』では、それが逆向きになっている。だから袋族は少数派であり、それをなんとか探し出し、仲間にするという「族」意識に貫かれて物語の前半の多くは割かれることになる。
 要するに袋は、匿名性を確保する透明なメディアでありながら、同時に固有性を示すメディアでもあり、それを装着することは固有性を主張することになるのである。男は、袋を被れば誰も見向きをせず匿名的な存在になれることをしばしば語りながら、場合によっては――とくに危険が迫り周囲のセキュリティー意識が高まるとき――誰よりも目立つ存在(排除の対象)になることをもおりにふれ語っていたはずだ。というか、目立って排除の対象となることへの怯えにはリアリティーが感じられるのに対して、彼が語る匿名性に関する挿話はほとんど彼の夢想としてしか聞えず、じっさい周囲がどのように受け止めているのかに対する想像力は絶無、強引に遮断している観がある。ちなみに、「箱男」にもメディアをめぐるこの両義性はあったが、やはり話者の志向性は匿名性としてのメディアとして箱を積極的に位置付けるものだったろう。

 彼の記述の上で、最初に袋を被った彼を「見る」ことになるのが弟だった。ただし弟は自分の似姿ではあるものの、同族ではない。とはいえ、弟との出会い=共同生活は、次のステップにとって欠かせない導入であった。つまり彼の同族探し、もっと言えば、誰かと性愛関係を結ぶことが次に目指されることになる。その取っ掛かりは確かに同族内に限定されてはいるのだが、彼女とならば、お互い袋を被らなくとも性愛関係を結べるかもしれないと、たとえ一瞬であれ男に思わせるひとりの女が袋を被って、男の前に現れることになるのだ。その彼女もまた弟と同じように、男に断りなく部屋に潜り込み、以降、ひきこもりの弟と女袋族の彼女とのワンルーム共同生活がはじまる。
 その共同生活は直ちに関係に性愛的要素を持ち込み、最終的にはエロチックな空気に満たされることになる。ここまでは、『箱男』と展開は比較的似ていると言える。『箱男』も、当初の「見られずに見る」立場から、見られることによって、エロチックな空気をかもし出す性愛関係に入ることになった。そこで箱男AはBに権利委譲を許すことになるが、この場面でも短いながら三人のメンバー、三角関係による共同生活が目論まれていた。
 箱がAからB、BからCの男に委譲されるとき、その方向とは逆向きに女が委譲される。だから最低でも三人が必要とされるわけだ。箱男Aの「見られずに見る」観察ポジションは、Bとその女が結ぶ性愛関係に召還され、女と引き換えに覗き見るポジションをBに譲渡する、といった具合(このように抽象化した図式に対して、「女」の民俗学的な婚資としての待遇を批判し、箱男の隠されたホモソーシャルなリレーを責めることもできるだろう。箱女の権利を獲得せよ!とか。このあたり「袋男」ではなく「袋族」に言い換えた『さよならアメリカ』は目配せがきいていると言えるかもしれないが、果たしてどうか?)。 
 話を戻し、それでは、『さよならアメリカ』における三角関係はどのようなものか。そこには、『箱男』と決定的に異なる点がある。三人の正体が実は一人だったとすれば、どうか? つまり、後者『箱男』の三人は別々の主体であり、各々分節されていたが、前者『さよアメ』の三人は同一主体の別人格なのだ。一人芝居!? そう、自称「袋族」の男は、自ら兄として弟の人格を外在化し、「本当の仲間」もしくは性愛関係の対象として袋女の人格を外在化する。
 そして弟は三角関係の恋敵としての役割も担わされるのだから、ここで袋男は、複数人格化(=自己の解離)を、恋愛を組織するためのツールとして利用しているのだと言える。しかしその性愛関係は「箱男」のものと異なる他ないものだが。『箱男』では、見られることによって承認を得た者が恋愛関係に入ることができるというシステムだったが、『さよならアメリカ』では、誰かに見られることをあらかじめ封殺しているようなのだ。その上でのみ成就できる恋愛関係なんて果たしてありうるのだろうか?

 弟と女が袋男の別人格である証拠は、本文通して多々あげられる。弟の場合は、早い段階から袋男自身によってその可能性を何度も指摘されていた。また、袋男は袋族になった当初から「袋を被ることについてのサイト」を開設していたのだが、そのサイトがハッキングに見舞われるという苦情をこぼしていた。物語の最後に至って彼はついに、その犯人が弟であることに思い至る。ところで、彼は、コンピューターウィルスは実はウィルス対策ソフトを作っている企業がばら撒いているのだと妄想する男で、このことからも、彼の「サイトハッキング=弟」説は、サイトオーナーの自分とハッカーの弟が同一人物であることを示している。
 弟はまた、兄の袋を盗み出し、自ら被ることによって袋女をファッキングする関係に入ることになるが、このとき自分の袋(弟に盗まれた袋)に似せた袋を被りながら彼らの「性交」を覗く兄は、弟と自分の区別がつかなくなるだろう。(他に、弟=兄説が決定的になる一場があるのだが、それはネタばれ的な場面ゆえ、ここでは明かさない。)
 注意したいのは、むしろここでの袋男・兄は、人格を外在化させた弟に袋を委譲し、その袋を被る弟を兄だと誤認する女と弟の「性交」を通して自分なりの性愛関係を成就しているように見えるところだ。袋女のオーナー気取りでいた兄は、女を弟にファックされるシーンを覗き見ることによって性的興奮に満たされているのである。ちなみに、このときの兄の袋を被った弟が、兄の目にはほとんど映らず、見えたとしても死体か人形のように映しだされる記述の仕方は、人格の外在化を示していると言えよう。
 いわば袋男にとっての袋とは、人格の隠蔽のツールであるとともに、多重化のツールなのである。箱男における箱は、それとは違った。箱は、確かに多重化の可能性をとくにラストにおいて垣間見せるものだったが、あくまでも隠蔽のツールとして意図され、機能していた。つまり見る主体の人格的特性を否定するツールとしての箱。対して袋は、人格を創出し、拡散するツールとしても積極的に機能している。兄は袋を弟に被せることによって人格を外在化=多重化させ、それにより女に人格を誤認させることによって(兄の)人格を隠蔽したわけである。この多重化のツールによって袋族は性愛を組織するのである。
 ただし、多重化のコントロールはそもそも不可能である。というか、コントロールできるならば、そこに性愛が生まれることはない。だから、ここでの性愛関係の樹立は、彼が統御できない(女の)誤認によって賭けられているのだ。
 自分が見ていると意識している対象が実は別の主体であるという誤認――別の視点から言えば、自分を見ている、見られていると意識している主体が実は(本当に見られているのは)別の対象であるという誤認――が、関係に性愛をもたらし、辺りをエロチックな空気で満たす。
 ここでの誤認を折り込んだ視線力学が、『箱男』における視線力学と異なることは明らかだろう。両方とも単純な見る見られるの関係ではなく、そこに「書く」ことの契機を折り込んでいる点で同じではある。しかし、「君」への呼びかけに期待が持てた『箱男』の「書く」ことには、基本的に誤認の要素はないのであり(箱男たちの聖火リレーのようなポジティブさに比べたら)、監禁されたひとりの精神病者が書いているという『さよならアメリカ』には「書く」ことへの根本的な不信感が漂うだろう(箱男たちの断続的なリレーはその不信感の最初の兆候という側面をもつが、それが途切れずに続いてしまうことに袋族との決定的な差異がある)。
 とはいえ、注意すべき点。この誤認は三人とも、あまりにも潔く切り換わるようになされるので、半面、きわめて意図的なものと感じさせもするのだ。恐らくこの両義性は『さよならアメリカ』の意図した試みであろう。例えば、弟と女が兄を別人だと誤認するシーン、兄が「性交」に入る女と弟との関係を誤解するシーンの他、兄を締め出したあとドアのカギを掛けながら窓のカギを閉め忘れ、兄が二人の「性交」を覗くスペースを残す失策、兄が自分の袋を見失う失策シーンなど各所の「誤認」は、その深刻さ、必然性をことごとく欠落させており、非常にあざとく(要するにわざとではないかと勘繰られるように)仕掛けられている。まるで一人芝居であるかのように。
 しかしくり返せば、それはあくまでも、三人(格)のどれもが統御できない誤認として、彼らはその誤認に対し必死に取り繕い、その場その場の理解をしようとするのである。だからこそ兄は自ら弟人格を外在化し、多重人格化しているのが自分であることを信じることはできない。おりにふれその可能性を疑ってみせるのだが。

 それでは、次に、袋女が男の人格としてどのように関わるのかを見てみる。先ずは、出会ったばかりの二人なのに、女は、男が袋を被った最初の理由を知っているかのように仄めかすシーンがあげられる。だから男はこの女を、袋を被って誰だか特定できないものの、彼に最初に袋を被るように強いた初恋の女の子だと誤認し続ける。このように男は女の正体を否認し続けるのだが、彼女の発言が男の記憶の外在化だと見なすのは容易い。初恋の失意をいま取り戻すために袋付きで召還された女の姿。
 また、袋女との出会いは火事の現場が最初であった。そのため、彼は当初彼女を放火魔だと疑ってかかる。その疑いを晴らすべく彼女に聞きただす男なのだが、彼女の口から聞き出されるのは「実はあなたこそ放火魔だ」という一言なのだ。ここからもまた、袋男は自分の放火魔人格を否認しながら、彼女の姿に投射してやり過ごしている様が見られる。
 しかしもちろん、男が自分のなかから袋女の人格を外在化させたというだけでは、正確ではない。結論から言えば、端的に言って、主体内人格間の恋愛などありえないのだ。従来の恋愛の定義を変え、夢想や自慰行為をも恋愛だと強弁しない限り(しかしこれはいまや強弁だろうか?)。この恋愛の定義を踏まえ、さらに彼の、女に対して芽生えた恋愛感情を彼の言葉通り肯定するならば、彼に対する彼女の言動は、違った様相を見せ始めるだろう。単なる男の一人格のものとしてではなく、独立した個人として振る舞う様相が。
 すなわち彼女は先ず、男に対して視線を交差させることにより、彼女に対する恋愛感情を植え付けたのだ。彼が彼女のことを初恋の人――視線の交差に緊張しはじめて袋を被ることを覚えた相手――と重ね合わせている記述を尊重し考慮すると、視線の交差は、このときに交わされたものと推測される(しかしこの学生時代の甘い初恋の記憶は、彼か女によってすりかえられている場合が考えられ、実際は弟と出会った時か、彼女と会った放火事件の時だとも考えられるが)。
 この視線の交差は彼に袋を被らせ、「見られずに見る」位置を所有させるものだった。がしかし、それはそもそも女に「見られる」ことによって獲得されたものであり、このとき以降「見られる」ことの両義的な感情にひとたび貫かれた男は、いずれ再び女に見られることを、性愛がらみで見られることを欲しているだろう。それは無論、女の算段である。
 以上の通り、視線の交差―袋族化―求愛への傾斜は、女による一連の催眠プロセス下にあるものなのだ。催眠による解離。この一連の催眠プロセス(弟の登場と、その弟との「性交」を男に見せるのもこのプロセスにくわえていいのかもしれない)を踏まえ、女は男にさらなる暗示をかけ、男から別の人格を引き出すことになる。彼の放火魔人格を創出し、それを一時的に彼女自身の姿(というか袋の表面)に投影させること。それが連続放火事件に結実するのだが、その結果は、プロセスに比べたら『さよアメ』にとってそれほど重要なものではあるまい。
 以上、袋女の側から追ってみると、男が性愛のために利用した人格隠蔽と多重化のための「袋」は大きな誤認を男に与えていたことになる。とほほ。したがって、彼が書き続けたノート、『さよならアメリカ』として結実した記述は、女の催眠――袋を巧みに使っての、女による男の記憶への書き込み――に誘導されたものと言えそうだ。
 弟と彼女とで作る性愛関係を断ち切られ、放火犯として連行、監禁されたエンディングに至るシークェンスと、そこでほんの束の間出会う或る女とのやり取りは、その可能性を示唆してくれるものだろう。だとすれば、彼女の身辺やいくつかの事件にまつわる彼の記述は確かに、誤解や否認、突然の沈黙等々に塗れたものとして十分読み返されうるものに見える。(或る精神病者の記述であるかのように…)
 「夜の風が吹いた」。袋男が彼女との(催眠による)性愛関係から目覚めるのが、「アメリカの夜」の風が吹くなか、覗き見する男を、改めて袋女が見返し、視線を交差するときだというのも感慨深いものがある。「夜の風が吹いた。開いている窓に気付いたのだろうか。彼女がぼくの方を見る。ぼくは身を隠さなくてはと思ったが、それをしている時間はない。ぼくと彼女の視線が交わる。非難、哄笑、そして軽蔑(少なくともぼくはそう感じた。実際、彼女は袋を被っているから正確なところはわからないのだ。)ぼくは慌てて身体を下に伏せて匍匐前進するように身体を移動させた。そしてやおら立ち上がり走って逃げた」。ワン・ツー・スリー、パチン!(…)

 むろん、だからといって、逆に女が利用した「袋」こそ正確な認識に導くツールだというわけではないのだが。

 例えば、また別の角度から見るなら、やはり袋女は袋男の人格の一部を投影したものだということができてしまう。男の袋に「SAYONARA アメリカ」というロゴがプリントされているのを見て、女は自分の袋に「サラバ NIPPON」と記す。歴史的にアメリカと日本の関係は父と母の比喩関係によって語られてきたことを想起しよう。男は自分の父を嫌悪しつつ自分との類似点を見出して戸惑う男の子だった。父に「さよなら」を告げることが、エディプスコンプレックスの観点から、母との性的関係に入ることと並行しているのだとすれば、男が袋女に示す性愛もそれと重なるものであると理解できる。
 この場合、女は男の母親像を投影したものであり、かりに女は実在するのだとしても、そこでの役目は男の夢(「アメリカの夜」)を映し出す袋状のスクリーンでしかない。
 思えば、そもそも男の弟は、兄の母の要請があって兄に近付いたのだった。この弟が兄の部屋に侵入してきた直後、袋女が見計らったように侵入してくるのも上の理解を裏付けるものだろう。さらに男は、自分と弟を袋を被るもの(ペニス!?)とし、女を「袋そのもの」だったと示唆しつつ言いよどむ場面があるのだが、、、あるいはむしろ、このあたりは作家が用意したあざとい罠というべきだろう。もとより多重人格読みも、余りに今日的なキーワードゆえ罠なのかもしれない。そもそも、兄も弟も女も一つの主体の複数人格などではなく、別々の主体なのかもしれないのだ。
 「SAYONARA アメリカ」も「サラバ NIPPON」も単なるロゴマークにすぎず、袋を被った者の指標にときおりなりうる程度の利用価値しかなく、そこにメッセージを読むことはばかげていると、本文にも記述されているではないか。だから、それらのロゴから、『アメリカの夜』でデビューを果たし、ストーリーの大枠が『さよならアメリカ』に似ていなくもない『ニッポニアニッポン』を書いた阿部和重さんへの何らかのメッセージを、『箱男』のアベ繋がりで読み取ろうとするのもまた私たちはしないほうがいいのかもしれない。見事な実績を残しつつ先行した者に対する愛憎半ばするリスペクトを除いては。「箱男」から「袋族」への平成(というか次世紀)における見事な転身はこのリスペクトあったればこそだと思うので。

(追伸1。強いて言えば、『さよならアメリカ』は、阿部さんの上記二作品よりも『インディヴィジュアル・プロジェクション』に直接繋がるものなのでしょうね。追伸2。表題「袋のなかの失楽」はミステリーの名作『匣の中の失楽』から。でも『匣』のメタミステリー構造はむしろ『箱男』の話者リレー構造の方に近接します。読み進めるごとに、いままでの話は虚構にすぎないと、夢落ちみたいに切り落として展開していく、叙述トリックを駆使した話。他方、主体の複数人格化のモチーフのもと、男女二人の話者が記述のテリトリー争いを演じる『さよならアメリカ』は、どうか。それは恐らく、『匣』の作者・竹本健治さんの作品としては、『ウロボロス偽書』に近いのかな。これまた名作で、竹本さんとしては『匣』で見せた際限ないメタのリレーを如何に相対化するかという意気込みのもと書かれたもの。複数の話者による挿話が並行して進み、いずれの話者も、自分たちの話こそ現実で、他のは虚構だと認識しながら、その虚構だとおもっていた話に現実が侵食されたり。タイトル通り複数の挿話の間も、現実と虚構の間も相互にウロボロスのごとく食い合うというとんでもない本。ただ、さらにそれを押し進めた『ウロボロスの基礎論』はマンガを入れたり、やりたいことは解るけど、やりすぎ感たっぷりでちょっとね。うんこ事件は笑えるけど。)