感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「箱男」ならぬ「袋族」

さよならアメリカ

さよならアメリカ

 今年の群像新人文学賞を勝ち取った樋口直哉さんの『さよならアメリカ』(「群像」05年6月号)。袋を被って生活する男の子の話。一読して、というか冒頭からし安部公房さんの『箱男』を想起させる代物。
 周知の通り1973年の代表作『箱男』は箱を被って生活する男たちの話でした。なんとも不条理感漂う設定ですけど、70年代初頭といえば、文学史上いわゆる「内向の世代」(後藤明生さん、古井由吉さんら)が台頭した時代。彼らは日常に宿る狂気をテーマとし、狂気があるとすれば日常の外にあるわけじゃなく、毎日を当然のごとくやり過ごしている日常の風景にこそあるんだと知らしめた世代でした。そうやって彼らは、文学を熱い政治的テーマ(右翼にしろ左翼にしろ)から解放し、個人の内向する心理の動きに閉じ込めたと認知する向きもあるけれど、この撤退こそ政治的だったと見直すひとたちもいる。
 バリケードを張り巡らせ、火炎瓶が飛び交う非日常的な空間にばかり政治を見ようとする方が、政治を見失いやしないかという疑問が内向の世代にあったのだとすれば、確かに彼らは当時のリアルな政治をとらえようとしていたといえるかもしれません。当時、増加する上野近辺のホームレスならぬ浮浪者について取材した記事をおりにふれ引用する『箱男』もまた「内向の世代」と同じ空気を呼吸しているといえそうです。イメージとしては、写真家・牛腸茂雄らが携わった「コンポラ」がずばりその周辺をとらえていますよね(昨年の三鷹での牛腸展、すごくよかったな)。

 確か安部さんは50年代の初め頃にけっこう攻撃的なアヴァンギャルド美術批評なんかも書いていて、それは戦後まもない頃から当時の若手アーティストのゴッドファーザー的な存在だった花田清輝さんの影響を感じさせるもので、じっさい花田さんや岡本太郎さんの周辺にいた作家です。当時の花田さんと岡本さんはコンビを組んで、美術と文学の接合・交流を目指すグループ「夜の会」を結成していましたが、今思うと羨ましい限り。
 とはいえ彼らの運動も50年代の半ばに至る前にすでにうまく機能しなくなったようなのですが。ルポルタージュ絵画とかいって左翼的モチーフ(プロレタリアリアリズムとか)とアヴァンギャルドの手法の接合を考えていて(アヴァンギャルドのなかでもシュールレアリズムと抽象主義との接合を考えていたらしく、結局なんでも「弁証法的」に接合したがるややっこしいひとたちなんですが…)、あくまでも左翼運動を手放さなかったところに挫折の直接的な原因があるんでしょうけどね。当時は、実験工房や具体グループ(吉原治良)が出てきたり、フランスからはアンフォルメルなどの影響もあって、また読売アンデパンダンでは過激な無名アーティストの暴挙なんかもちらほら出てきはじめ、左翼運動なんて糞くらえ、アヴァンギャルドで突っ走ればいいじゃんという空気が醸成されつつありましたから。
 この波のなかからのちに赤瀬川原平さんや中西夏之さん、高松次郎さんらが出てきて(「ハイレッドセンター」!)、彼らは彼らで逆説的に政治を導入する点がスリリングで美術史上欠かせないアヴァンギャルドとして位置付けられるわけですが、彼らが美術館から路上に出てやろうとしたいくつかの美術運動(「首都圏清掃整理促進運動」64年など)はけっこう「箱男」/「袋族」運動みたいなところがあると思う。日常を動かすシステムにとり憑き内在しつつ脱臼させるみたいなね。外から壊そうとするんじゃなくて。そのような運動は当然、以前の世代から見れば後退しているように見えるのでしょうが、「内向の世代」的なリアリティーはそこにあるわけでしょう。で、いま『箱男』の新版が出たんだから、『挟み撃ち』と『杳子』の新版も読んでみたい気がしません? あるいはもうそれに相当するものってあったっけ? 
 最近、「内向の世代」と同じ頃の永井豪もの(デビルマンキューティーハニー)や『キャシャーン』なんかがリメイクされてるし、文学界でもそのへんいけるんじゃないかなあ。多重人格化する杳子とか、失われた外套の記憶をウェブ上のデータベースで検索しまくり、脳内の自分の記憶がデジタル記録の渦に挟み撃ちされて拡散する主人公の記憶を追う物語とか。とりあえずハリウッドでもいけそうな。

 ちなみに70年前後のハリウッド・ホラーといえば、ゾンビの「夜明け」の時代ですよね。それまでのユニバーサル=ハマーによる様式的なモンスターの時代から、ジョージ=A=ロメロさんによる感染系モンスターへの以降。最近撮られた『ドーン・オブ・ザ・デッド』はロメロ作品(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』や『ゾンビ』)をうまくリスペクトしていて、ダニー・ボイルさんの『28日後』とともに腐りかけた最近のゾンビ映画に活力を与えてくれました。他方、トビー・フーパーさんによって『悪魔のいけにえ』が撮られ、夜明けをバックにレザーフェイスがチェーンソーを振り回すエンディングシーンは、同時期にスピルバーグさんが撮った『激突!』での日暮れをバックにトラックが炎上するシーンと重なって映画史に名高く、トビーとスピルバーグ両氏はその数年後オカルトブームのさなか『ポルターガイスト』を共同制作することになるわけです。

 日本のコミック界では楳図さんが出てくるわけですが、その話は以前しました。サイボーグものでも、石森章太郎さんの『009』からはじまって『仮面ライダー』や『新造人間キャシャーン』などは人間の意に反して(キャシャーンはそうでもないけど…)機械が感染=憑依するという設定で、従来の機械ロボットもの、アトムや鉄人のパターンとは一線を画す。そういえば、『マジンガーZ』(永井豪さん)も機械ロボットとそれに乗り込む人間がシンクロするという設定で、現在のロボットもののモデルになっているわけですし。『人造人間キカイダー』や『キューティーハニー』はもともと人間に似せた機械ですけれど、彼らロボットは、「良心回路」をとりつけられたり敢えて不完全に作られることによって人間性を創出させるという設定でした。いずれにせよ、相容れぬもの同士の接合が大きな枠組みとしてある。その傑作の一つが『デビルマン』だよね。最近は、人間の神経系を、部分的に機械化したメディアを通してネットに繋ぐという実験が行われていて、いずれ人間は生体ウィルスのみならず、電子上を駆けめぐるウィルスにも影響を受けるメディアになるだろうという見解がどこかのサイトに掲載されてましたが、あれはガセでしょうかねえ。コンピューターウィルスと生体ウィルスが影響しあうとかいうのはさすがにないか。鳥インフルエンザとかSARSとか(あと狂牛病も)ウィルスの異種間交雑が騒がれている今日だけど。90年代以降ゾンボホラーの基本感染源はウィルスですからね、いずれは、サイボーグホラーなんていうカテゴリーが出来たりして。

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 話を箱男/袋族に戻します。『箱男』の構成上面白い点は、話者を一転、二転させるところにありました。最初の話者(箱男)がとあるきっかけで箱を手放すと、次に箱を被る男(箱男B)に語りの権利も譲渡し、さらに次なる箱男Cに箱とセットの語りの権利を継承させるという具合に。その理由は、第一に、箱を被れば、誰もが固有性を失って匿名化するから、その限りで箱男は交換可能なわけです。そして箱を被る者は、無機的な風景と同化してしまうゆえ、だれにも「見られず」に、世界を「見る」ことができる。誰にも邪魔されずに自分だけ世界の外に出て、世界を眺めながら解説する権利が与えられるというわけです(このへんの話者設定は後藤さんの『笑い地獄』にも通じるところがあります。けっきょく話者は失墜する点も)。
 「見られずに見る」という立ち位置。最初の話者はその権利を存分に享受しているところから物語は始まります。しかしそのような超然とした立ち位置にずっといることが出来なくなる。というのも、箱を被ろうと彼らもまたけっきょく世界内存在でしかなく、見られるほかないからです。
 誰もが自分の固有性を信じて生きているなか、あなた方も本当はこんな匿名的な存在でしかないんだと示している箱男の存在は、煙たいもの。そうして誰もが箱男たちの存在を見ないでやり過ごしているわけですが、決定的に見てしまう者が出てくるのです。それ以来、箱男は世界の外から「見られずに見る」立場から失墜し、世界に引きずり込まれることになる。匿名性を確保することなどできない、誰もが凡庸な固有性を背負って生きていかざるをえないんだということです。
 以降、この箱男は「見られながら見る」、見られていることを常に意識しながら見ることになる。その状態において、彼を見た者と世界を共有し、構成していくことになる。この世界は、彼を見た者との性愛的な関係をきり結びながら、きわめてエロチックなものに構成されていきます。匿名性を確保しえたパートには、まったくエロチックなものはなかったのに対して。そうこうするうちにけっきょく当初の箱男=話者は見られる側に完全に移行し、その権利もまたAからBに引き継がれるのですが、BもまたCに奪還されることになる(そしてCもまた…)。
 Cパートのあとは、誰の者か特定できない複数の箱男的な語りが順列に必然性なく並べられるだけで、語りの継承の力学関係さえなくなってしまう。そのなかでの少年Dの挿話は興味深い。彼はアングルスコープを使って隣家に住む女教師のトイレを覗き見しようとする。箱男的に。彼は先ず「見られずに見る」立ち位置を確保します。しかし直ちに見つかってしまう。そこで彼を見つけた女性は、彼にも同じシチュエーションに立たせ、どれだけ恥ずかしいことかを知らしめようとする。「先生がどんな思いをさせられたのか、せめて同じ気持を、君にも経験してもらうくらいはした方がいいんじゃないかな」。その仕打ちとは、彼を部屋に閉じ込めて裸にさせ、女性はその部屋の外からのぞき穴を通して彼をながめるというものです。
 しかし、注意すべきことに、少年がスコープでのぞこうとしたときと、この仕打ちとでは決定的に異なる関係性が生じている。この女「箱男」は「見られずに見る」わけではない。彼に見られていることを意識しながら見ているわけだし、見られている少年は女「箱男」が見ていることを意識している。この入り組んだ関係性ゆえに彼は勃起をしたり、きわめてエロチックな雰囲気を呈する挿話となる。
 私はここで何を言いたいのかというと、『箱男』は単に見る/見られるという一対の視線力学によって構成されているわけではない、ということです。箱男たちは見るうえで見られることを怯えながらも期待し、常に意識している。だから、彼らは、見たものを「書く」わけです。自分のこと、自分が見たものごとを見られることを予期し、期待して。「書く」ことは見る作用と見られる作用に対し、各々とは別の作用を意識させずにいません。見ることは見られることを、見られることは見ることを。逆にいえば、この双方向の作用がひとつの意識に折り込まれるとき、「書く」ことが作動しはじめる。
 『箱男』のテーマの一つが「書く」ことだというのは以上をもってです。かりに「書く」ことの契機がなく、見る/見られるという一対の視線力学にしか焦点を当てていなかったら、箱男たちの語りのリレーはなかったろうし、少年Dは「見られずに見る」ことに明け暮れ、覗き魔として生涯をすごすことになったろう。女教師はそんな少年に対して見ることは必ず見られることをともなうものだということを身に書き示すように教え、正しく「感情教育」を施したわけです。書くこととは、見ることの暴力を温存させるものですが、見る見られる関係に、しばしばエロチックな感情に富んだ多様性をもたらすものなのです。
 箱男たちのリレーもそこに根拠がある。箱男たちは皆こぞってノートを携帯しており、見たことをそれに書き込んでいく。箱の内側に落書きのようにとどめる場合さえあります。彼らにとって世界はノートであり、箱の内側の落書きなのです。そのノートはまた、ひとりの視点からの記述によるものではなく、A、B、Cと引き継がれ、いくつかの視点からの記述によって埋めあわされていて、そこは言葉どおり世界のアルシーヴと化している。ラストに向かって複数視点の挿話が無差別に混入し、ついにはどこに行っても箱の内側から世界は抜け出られないと述べられる様は、このアルシーヴを体現しているといってよいでしょう。

 彼らは現在進行で書いているノートなど、いつ手元から離れてもかまわないという態度でいる。しかしそれはいつか誰かの視線に拾われることを、無根拠きわまりなく、投機的に期待する信念と裏腹のものなのです。「このノートは、拾い主がそのつもりになれば、ひと財産になってくれるはずである」。『箱男』は複数の話者(「ぼく」「私」)によって支えられているものだと再三述べましたが、最初から最後まで、ただ一点、「君」への呼びかけとともに記述されている体裁は一貫しているのでした。それは次なる箱男への呼びかけであり、『箱男』を通して私たちにも呼びかけてくる「君」なのでしょう。
 ただし、書くことがかくもエロチックたりえた時代には受けとることが出来た「君」だけれど、いまはどうだろう? 私のブログは来るべき「君」への期待、エロチックな期待とともに書けているか? かりにいまでもエロチックな情動が書くことを駆動しているのだとしても、それは箱男的な視線力学を前提にした書くことのエロさとはまた別種のもののような気がします。恐らく『箱男』のアルシーヴ化するラストは次の世代におけるエロチックな有様を示唆するものだと感じますが、路上とともにウェブを遊歩する「袋族」はそれをさらに押し進め存分に体現しているだろうか、あるいはもっと別種のエロに賭けているのかも知れず、その検証は近いうちに行う積もり。