感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

怒り+笑い+哀しみ=BR弾

バトル・ロワイアル [DVD]

バトル・ロワイアル [DVD]

 最初の滑り出しはあの『漂流教室』かそれとも『ドラゴンヘッド』のようないい加減さで、とある中学三年生の一クラス分を乗せた修学旅行のバスが突然政府に拉致され、瀬戸内海に浮かぶ小島に連行される。そこで繰り広げられるのは、三年間をともに呼吸し合った同級生たちが殺しあう殺人ゲーム。それも国防上必要とされる国家的行事だというのだが、予期せぬままこのゲームの参加を余儀なくされたうら若き生徒たちにとっては理不尽この上ない。むろん、物語の設定としても、今の日本からみれば、余りにも現実離れしているため、私たちにとっても理不尽なものなのだけれど、どうしたことか、最初から最後までリアリティーをもって物語に没入することができる。それは原作でも、映画版でも確かに感じられたものなのです。
 このリアリティーの源泉は何か? 国家レベルの戦争やテロでもいいし、身近なレベルで終日起こっている動機なき殺人劇でもいい。これらが余すところなく示してくれる現代的な暴力の理不尽さの隠喩として『バトル・ロワイヤル』の殺人ゲームは機能していて、だからこそ、誰の眼にもリアリティーが宿るのだろう。それはある程度当たっている。ただ、私はもう少し別の角度から『バトル・ロワイヤル』(以下『BR』)のリアリティーが宿る底知れぬ源泉を言葉にしたいと思う。それは、私がこの作品から感じられた三つの感情にしたがって導き出されるリアリティーの源泉であり、以下、それをめぐって言葉を繰り出すことになります。
 
 この作品が象徴し、またこの作品を駆動している「理不尽な暴力」。これを終始一身に体現しているのは、殺しあいに巻き込まれた生徒たちの教師です。彼は、政府の下命を受け、生徒たちの殺人ゲームを監視しコントロールする役割をになう。むろんその実態はいわば中間管理職みたいなもので、そのポジションを自ら意識しながら、ことさら暴力を司る権力者として振る舞うわけではなく、生徒たちを循環する暴力を見届ける立場にすぎないのではあるけれど。
 しかし、理不尽な暴力の不気味な有様を、この教師が体現しているように仕立てられているというのは、見た人にはおそらく無理のない解釈だと思う。むしろ、権力分布におけるその中間管理職的なポジションこそ、暴力の理由を問わぬまま無責任にその行使に明け暮れることができるという点で、「理不尽な暴力」の縮図であるとも言える。むろん『BR』は中間管理職に命令を下す、責任あるポジションを描写することはないし、というか、いまさらそんなポジションなどありゃしないという現状認識が『BR』の今日的リアリティーを支える素晴らしく理不尽な無責任の様態なのですが。

 映画版での教師役は北野武さんでした。この役は彼をおいて他にいないんじゃないかというほどのはまり役で、この作品のリアリティー付与に一役も二役も買っていたと思う。というのも、理不尽な暴力には根拠も正当性もないゆえいかがわしさが付き物だけれど(どこかの国のリーダーをイメージしてください)、北野さんはそれをごく自然に体現できる役者だったということです。
 暴力の行使は緊張感をともなうものだから、当然、怒張した空気を漲らせて画面に張り詰めた装いを組織することがその場面にリアリティーを保証することに貢献するはずです。しかし北野さんの佇まいは、緊張した顔付きを維持しながら、そこに笑いの文脈を持ち込んでどうにも弛緩した空気を漂わせる。もうこの時点で、学生たちが冗談としかいいようのない暴力が行き交う只中へ有無を言えず投入された状況を語り尽くしているでしょう、北野さんの演技を通して。
 原作でも同様です。原作における教師は、かの国民的教師、武田鉄矢さん扮する金八先生を露悪的に風刺した中年男性で、お仕着せがましいとは言うまい、愛と正義を語ってお茶の間に啓蒙を施してきた金八先生をまるで演じるかのようなそのふるまいから繰り出す暴力の行使は、じゅうぶんいかがわしさを体現している。

 とりわけ映画版では、さらに強調している側面があります。それはこの教師を、自分の娘(たったいま殺人ゲームを戦っている学生たちと同年代の)とからませる回想シーンがおりにふれ挿入されているところです。父親は娘を何気に気にかけながら、娘のほうはそんな父をウザがるというよくありがちな親子のパターンをくり返し映し出す画面からは、他の誰とも変わらない無力な人生を享受している父親としての側面が炙り出され、哀愁感漂わせる彼のかすかに見せる後姿にも共鳴の余地を私たちに見つけることが出来るよう工夫されている。

 以上、要するに、北野さん演じる教師には、三本の一見相容れぬ異なった感情の線が走っているわけです、私たちに向けて。だから私たちは、これを撮って亡くなった深作欣二さんがこの三本線を提示した意味を一つのメッセージとして考えないわけにはいきません。それを私なりに考えると、暴力の多義性、暴力が引き出す感情の多様性です。理不尽とはいえ、暴力とはある関係性のなかでしか存在しえない以上、様々な関係においてそのつどその顔付き、性格を変えるということ。『BR』にあわせて別言すれば、理不尽さをあらわにした暴力はいかがわしいものではあるけれど、哀しくもあり、またみずみずしくも感じられるものだということです。そのように受け取りながら映画を見ていました。

 それが確信となった瞬間がラストのシーンです。それは教師が最後まで残った学生に、暴力を仕返されるシーンに他なりません。ここはしかし、単に仕返されているだけじゃありません。学生が仕返すように仕向けている側面が確かにあるのです。教師の側からみれば。
 彼らが交差する瞬間、見ている私に、恐怖と笑いと哀しみがいっせいに心身を駆けめぐったことを今も覚えています。一瞬の緊張から生まれる恐怖と脱力した笑いと身震いから凪ぎに至る感動をともなった哀しみが、です。北野=教師が体現していた三本の感情の線がこのクライマックスで一つの大きな感情の波となって押し寄せてきたわけです。
 そしてこのとき、学生=子供は解放され、さらなる別の道を歩むことが示唆されるし、教師=大人もまた解放される。しかし暴力は修復不可能な様々な形で彼らにとりつき、現動化の瞬間をいつでも狙うかのように暴力の痕跡を漂わせるエンディング。
 であるならば、それこそ大人への成長ということで、大人たちはそのステップを用意し援助してくれたと見なすべきだろうか? むろんそのようなビルドゥングスロマン、イニシエーションの話としても受け取れる物語の構造をこの作品はもっている。がしかし、むしろこの作品は、啓蒙的な訓練、躾けという名目に暴力を収斂するイニシエーションの枠組を借りながら、そこに瀰漫する暴力の理不尽さをも提示しているのではないでしょうか。
 いかがわしいはずなのに、北野=教師が不意に見せる暴力の虚しさ、哀しさは、おのれを乗り越えていく子供たちに差し向けられたものというよりも、何よりみずから身に負うてしまった暴力の理不尽さに対するものであり、この理不尽な暴力に対する自覚的な評価を経由したればこそ、その虚しさ、哀しさは子供たちへの正しいエールとなる。
 そこに子供たちがくわわって生まれた笑い。その笑いが、暴力のいかがわしさがもたらすような頽廃に充ちたものではなく、きわめてみずみずしいものだったことはじゅうぶん頷ける。詳しくは、北野さんと子供たちが最後の一瞬にかいま見せる「真剣な遊戯」を見てほしいと思います。
 ここで大人と子供が試みたことは、理不尽な暴力からの解放ではない。むしろ暴力のそういう性格を認めること。暴力をいかがわしいものだとか、恐るべき故に抑止されるべきものだといった一義的な性格付けから解放すること、理不尽な暴力をその多様性のまま解放することに他なりませんでした。深作さんは死ぬ間際に、大人にも子供にも落とし前をつけてくれたと思っています。

バトル・ロワイアル II 鎮魂歌(レクイエム) 通常版 [DVD]

バトル・ロワイアル II 鎮魂歌(レクイエム) 通常版 [DVD]

 だがしかし、それにつけても、BR弾の二発目(もちろん『BRⅡ』)は期待外れではなかったでしょうか。というのもそれは、理不尽な暴力からの解放、暴力の封じ込めを目指したものだからです。先ず第一に指摘しなければならないこと。北野=教師の娘(前田愛さん)が親父の弔い合戦のような立場で新たな殺人ゲームに参戦していることが問題です。殺人ゲームへの参戦は、あくまでも自己の意思とは別の次元で、有無を言わせず決定されたものでなければならなかったはずです。みずから望んだ暴力は、涙ぐましい意気込みは認めなければなりませんが、イニシエーションの話としてみれば、大人になることの拒絶(イニシエーション=去勢否認)でしかない。というのも、BR弾の一発目の真意からすれば、大人になることとは、単に、一様に管理された自己を担うことではなく、多感な子供の感情からはいつになっても逃れられないことを引き受けることなのだから。つまり大人であることの定義は、暴力を自らコントロールする能力ではなく、むしろ暴力に翻弄される勇気を要するかいなかという点に求められるということです。
 二発目を放った深作健太さんは、親父の遺志を継承することなく、大人になろうとしたわけです。結果的にそれは、父親の死を否認し、みずから子供にとどまることにもなるはずです。

 このとき彼が選んだ教師役が竹内力さんだったことはとても興味深い。私は彼が登場した瞬間に、もう『BRⅡ』への感情移入を断念せざるをえず、最後まで戸惑い続けたことを覚えています。一発目を基準にしたことがそもそもの間違いなのかもしれないのですが。
 確かに竹内さんは、暴力を体現するにはとっておきの役者でしょう。しかしこのとき暴力のいかがわしさは失われ、薄っぺらな印象を与えることになる。過剰さがあったとしても、いくつかの理由(後述)から中途半端な印象に止まり、けっきょく、躾けとしての暴力が少々行き過ぎました的なものにすぎない。竹内さんで金八先生をまともにやろうとしたようなものです。『Ⅰ』にあっては、金八先生(の髪振り乱した躾け)さえもてあそばれる過剰な暴力の側面を捉ええていたとすれば、『Ⅱ』になると、金八先生を真に受けたという感じなのです。
 竹内さんが問題なんじゃないんです。彼を起用するなら、例えば『DEAD OR ALIVE』シリーズ(三池崇史さん)のように、彼が資質としてもつ暴力性をとことん突っ走らせ、笑う他ないところまで使い切るとか、好例はいくつかあると思うんですよ。
 そんな竹内さん演じる教師のさらなる問題点。それは彼がまた、心にトラウマを抱きながら殺人ゲームを監視し、自ら参戦することになる点です。そればかりか、彼の学生たちも、前田愛さん扮する子供をはじめ、主要な人物たちはこぞってトラウマをもっている。そのような伏線がおりにふれ引かれます。したがって、そのトラウマ(の解消)が参戦の動機づけとなっている。暴力に立ち向かう理由が彼らにはあるということ。その理由がもっともらしく神妙に語られる(『Ⅰ』における教師の回想シーンは、今ある状態との因果関係を説明的に結び付けることは決してなかった。もしトラウマとして語ろうとするなら、そんな理由などとってつけたものにすぎないと笑うように示していたはずです。例えば『殺し屋1』。人生の理由とは「デッドオアアライブ」一か八かの戦うことだと知っている彼らなのだから)。
 この事態はすでに、暴力が目的的に作動する理不尽さを抑圧し、操作可能な手段に貶めている営為にほかなりません。自分のトラウマを見据えたり、解放するための暴力でしかないのだから。そもそも安易なトラウマの設定が暴力を一時的に隠蔽するものでしょう。

 だから最後に交差する教師と学生が演じる戦いは啓蒙的で、私にはリアリティーに欠けるものでした。啓蒙を馬鹿にしているわけではありません。啓蒙的な暴力の関係ではとらえられないような関係から発動する暴力の多様な表情を見逃してはならないと思うのです。あなたを出し抜く暴力を見逃したまま生きること、あなたを解放する暴力を見逃したまま生きること、啓蒙的な作品はこのような人生を奨励する。
 とはいえ、『BRⅡ』を見る若いひとたちは、トラウマの癒しに至る物語を正しく無視し、『プライベート・ライアン』の冒頭シーンのような大掛かりな殺戮シーンからなにかを触知するのかもしれないけれど。最近言われる重度な凶悪犯罪の低年齢化がリアリティーをともなって聞えるのだとすれば、理不尽な暴力をがんがん浴びせながら、殊勝に啓蒙を唱えているメディアに一因があるといえるのかもしれません。