感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「Jホラーシアター」VS「ホラー番長」

予言 プレミアム・エディション [DVD]

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 『予言』『感染』(以上、一瀬隆重さんプロデュース「Jホラーシアター」シリーズ第一弾)、『運命人間』『月猫に蜜の弾丸』『ソドムの市』『稀人』(以上、ユーロスペース主催の「ホラー番長」シリーズ)をいっきに鑑賞。和製ホラーここに健在、これは当分安泰だなと思った。少なくとも彼ら(の多く)は、このジャンルの一角を占めつつ最前衛たる自負をもって製作にいどんでいるぞという意気込みがひしひしと伝わってくるシリーズで、惜しみなく夏の夜を堪能できた次第。感謝。
 一方の「Jホラーシアター」は、比較的オーソドックスな和製ホラーの文法を踏襲しつつ随時奇抜な演出を心がけていて楽しめたし、もう一方の「ホラー番長」は、一にも二にもオーソドックスなホラーの定式を崩しにかかろうとしていて、そのグレ方一つ一つがとても気持ちよかったです。どちらかといえば、前者はなにがなんでも映画はエンターテイメントに徹すべしという人のため、後者は映画とは永遠のサブカルチャーのことだという人のためのシリーズ。

 と、
  いずれにせよ見事にまとまった作品だと思うのだけれど、ただ一点、いっきに鑑賞しながら感じたことがあって、それというのも「怖さ」っていったいなによ? というこのジャンルにとっては当然――だよね?――核心的な問いでした。
 『邪願霊』や『女優霊』をはじめ、「ほんとにあった怖い話」シリーズから『リング』で一画期を築くにいたったこのジャンルの「ホラー」は間違いなく、ほんとに怖かった。高橋洋、鶴田法男、小中千昭中田秀夫黒沢清(敬称略)といったこの期にホラーに携わった彼らは、それまでホラーといえば特殊メイクなど高度な視覚効果をふんだんに使ってひたすら人体を攻撃し切り刻む美学の追求にあけくれるスプラッター系ホラーの枠組だったわけで、それとは別種の「怖さ」を私たちに示してくれたのだった。
 ジェイソン、フレディといったスプラッター系殺人鬼から、長らくサイコな人格に取って代わられていたハリウッドのホラーは最近Jホラーを導入し始めているという話題をよく聞きます(『RING』『呪怨』)。この事態を、ハリウッドのグローバルスタンダードに対抗するローカルなカウンターの勢いと見なすのは、和製アニメをディズニーの対抗ジャンルと考えるのと同じように虚しいはず。スプラッターの嫌悪感に塗れた「怖さ」も、Jホラーの不条理に充ちた「怖さ」も、どちらがほんとに怖いのかと問えるものではなく、どちらの「怖さ」を採るにせよ、そのつど作品ごとに判断されるべきなのだから。

 
 話題がずれました。要は、最近のJホラーってほんとに怖いのかという問いでしたね。思えば、この問いがはじめて私に芽生えたのが清水崇さんの『呪怨』シリーズを見たときからでした。『呪怨』といえば、『リング』でJホラーの体系がほぼ確立された直後にシリーズ化された、いまや『リング』シリーズと双璧を分け合う作品で、これが世に出ていなければ今をにぎわすJホラー時代はおそらくこれほどではなかったろうというほどのもの。
 中田さんや黒沢さんら『リング』が生まれるまで和製ホラーを支えてきた世代が必ずしもホラー作家として自他ともに認めなかった世代だとすれば、清水さんにいたってはじめて自らJホラーを引き受け、そのように見なされている世代が誕生したとも言える。
 そして周知の通り清水さんは、それまで築き上げて完成させたJホラーの体系を受け入れつつも、違ったフェーズを出そうと試行錯誤してきた作家でもある。いくつかの発言からもそれは知ることができます。そのなかで彼が試みた改革の一つが、ホラーの対象を直接描写することでした。それまでは、ぼかしたり遠望でとどめたりすることによって得体の知れぬ対象から喚起される「怖さ」を表現していたところ、彼は思い切って舐めるように対象をカメラに収めたわけです(このあたりは小中千昭さんの『ホラー映画の魅力』に詳しい)。しかしこれが「怖さ」を表現しているかというと、疑問。むしろ、従来の文法に乗っ取って表現された「怖さ」の方が心身ともにびくびく反応してしまうのはどうしたことか? 真の恐怖にはむしろ鈍感なのが人間の本性なのかも知れず、怖いと正直に反応してもそれがパブロフの犬的な反応だったら真の恐怖とはいえないんじゃないかとか、いろいろ考えるわけです。いったい、どちらの「怖さ」がほんとなのだろうか?
 
 以上のような思いが今回の二つのシリーズを見ていてもずっと作動していました。彼らの作るホラー映画は一概に怖いといえるものではない。むしろ彼らが表現する「怖さ」は、笑いや哀しみといった別種の感情の枠組とないまぜになってあるものなのです。思えば、楳図かずおさんがマンガの世界で成し遂げたこと、例えば、彼以前の主流だった様式的な「怪奇」マンガはもう古い、これからは様式に頼らず身近な「怖さ」を表現しようとして60年代中盤以降に台頭する「恐怖」マンガを想起したりもします。楳図さんの描く「怖さ」もまた笑いや哀しみと相俟って感情の振幅が激しいですよね(その極限の一つが『漂流教室』)。逆に彼の「笑い」(『アゲイン』『まことちゃん』)は不条理な「怖さ」に接していたり。楳図さんは、のっぺりした表情をもつ子供と、逆に襞にまみれた表情をもつ老人をしばしば好んでキャラに設定するけど、いずれも感情表現が未熟か熟れすぎているゆえ中途半端な表情を維持した年頃なんだよね。基本的に無表情で、どちらの感情に転ぶかぎりぎりのところで保たれたような顔。それはこのキャラに感情移入する私たちの表情であるのかもしれません。
 ここで今回のシリーズの作り手の方々に話を戻せば、彼らは、Jホラーという枠組で「怖さ」という根拠のない感情を追求したのかもしれない。言い換えれば、「怖さ」という感情の根拠のない「怖さ」を追及したと【自註1】。だから、そもそも「怖さ」とは何かを問うているこれらの作品を見る者もまた、怖がりながらその問いかけを引き受けざるをえないと。いわばメタホラー的側面です。Jホラーもそれだけ円熟したということでしょうね。いまやJの域をこえ、アジアンホラーとか言われるくらい浸透してマーケットも充実しつつあるわけだし。そのうえプレテキストも充実し、すっかり体系化したJホラーの文法をきちっとおさらいしさえすれば、必ずしもホラーで活躍していない作家だって十分怖いエンタメホラーをとることができる状況を、三池崇史さんの『着信アリ』が露悪的に示してくれもしたわけだし(そういう意味でも三池さんの仕事は重要)。こんな状況のなかでJホラーをとる作家が選んだ姿勢が上記のようなものだったというのは、あながち強引な解釈じゃあないのではないでしょうか?

 ただその一方で、問題点も感じられないこともない。上記で示した彼らの冒険は、オーソドックスなホラーの体系を意識しすぎて、必要以上に反発したり、無視したりしているように感じられる側面もあるようなのです。例えば清水さんは、中原昌也さんとの対談でかつてこのように述べたことがある。「僕は彼らを尊敬し、その作品に共感してきたんですが、いざ自分が撮る段になったら、彼らと同じことをやってもしょうがないと思った。それだと結局、「『リング』が流行ったから同じようなものが出てきたよね」で終わっちゃう」と。だから「自分もそれに賛成してきた理論を全部裏切ってやろうと思った」(「文学界」04年1月号)と。
 『呪怨』製作時における清水さん個人のこの気概がなければ、Jホラーはおそらく今の時代を築けていなかったと思う。ただ、清水さん個人の問題としてではなく、何かに対するカウンターの意識は必ず両義的な意味を含んでいるものだと、こと今回のシリーズを見ながら考えざるをえなかった。どんなジャンルでも、既成の体系に反発したりそれを突き放し軽んじる意識はそのジャンルをより豊かなものにするモチベーションたりうるけれど、それが先行すると(←ここ重要)、空回りし、衰退の呼び水となるものだということです。
 今回あらためてホラーをざっと見ていてそういう側面を感じるたびに恐怖をちょっと甘く見ているんじゃないかなあとか、もっと本気で怖がらせてみろよ、ほんとはその自信がないんじゃないの? とか偉そうに勘繰ってしまったりもするのですけれど、いずれにせよ、「ほんとにこれって見るひとたちは怖がってくれるのかなあ」というたえまない問いがけっきょくのところホラーの原点だとは思うわけです。シリーズ間、作品間の勝負は、オリジナリティーや新奇性をめぐってもなされるべきだとは思うけれど、なにより「怖さ」をめぐってなされるべきものだものね。
 この問いをスルーした新奇性なり雑種性なるものは、高尚なテーマどまりで、ジャンルを細らせるだけじゃないかなあ。かくして「怖さ」をめぐるジャンルの核心的な問いが、隣接したジャンルから栄養分を吸い上げ、新奇なホラーを提供し続けてくれるのだろうと私は信じているのですが、如何?


【自註1】7/26、13:30。けっきょく、不条理な体験(何故襲われたのか、何故こうなってしまったのか分からないが、とにかくいまこうなってしまっているのは事実であるというほかない…)というのは、様々な感情が危うく紙一重で切り結ばれている状態なんだろうな。そんな状態にあるときの私たちは、怖さがちょっとしたきっかけで、笑いに流れたり、哀しみや怒りに転位したり、あるいはそれらの感情が重なっていたりするんだろうと思う。そのことをうまく表現するマンガ家で、楳図さんの他に、ぼくはしりあがり寿さんを知っている。彼は、ギャグマンガが不条理を呈しはじめる80年代の前半に出てきた人。しりあがりさん自身、80年代的な笑い――日常の細部をことさら強調して挙げ足取り的にとる笑いや、個々の文脈を外して相容れないもの同士をぶつけて笑う(パロディも含む)笑い――に乗りつつ、批判的に対峙する必要を、おりにふれ語っています。いわば彼もまたジャンルの核心的な問い、「笑い」とはなにかをずっと考えてきた人なのです。それにまた、山上たつひこさんをはじめ、業田良家さんや喜国雅彦さん吉田戦車さんらのキャリアをみながら、笑いのつぼを抑える上で他の感情のツボにも目配せする必要をよく理解しているなあと感心することがあります。そのなかでもしりあがりさんのつぼの抑え方は初期の頃からぼくにとって最も心地よいうちの一手で、それが極まった最近の『方舟』とか『ヤジキタ』シリーズを読んでいると色んな感情が出たり入ったりするんですよ。いまはそれを言葉にすべく「しりあがり論」を営為執筆中なわけです。