感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

純文学論争再論

批評という営為は―私に限っては今はクレーマーに甘んじているわけだが―場を作ることだと思っている。

最近、Twitterで「ジャンル間の階級制の問題」(小谷真理)が話題になった。事の発端は、村田沙耶香川上弘美笙野頼子ら純文学に属するとされる作家のことを、フェミニズムSFとみなしてもよいのではないかといった議論にある。

純文学と、SF等のエンターテインメント文学の関係。両ジャンルは、これまで様々議論されてきたが、2000年前後の純文学論争(平成純文学論争とする)の頃に斎藤美奈子が放った発言―「かつての文学なり純文学が持っていた地位の高さはもうない。ディレクトリが一個下になった。ミステリー、ホラー、あるいはSFがあるように純文学がある」(『群像』2001・3)―に象徴されるように、「ジャンル間の階級制の問題」は解決されたはずだったが、必ずしもそうとはいえないという見方もあるようだ。

平成純文学論争は、主に笙野頼子と男性批評家の対立だった。文学の終焉だの限界だのを言い募る男性批評家の一神教的な否定神学に対して、笙野が切り返したのは、ジャンルを総動員した多様性である。「面白い事に一神教のかたまりのようなミステリーから越境してくる桐野夏生氏はミステリーのコードを拘束と感じる場合があると書いて論争を起こした。SFダメ論争が前の私の「ドン・キホーテの「論争」」と呼応したようだった事を思い出す」(『徹底抗戦!文士の森』2005)。

当時ジャンルの限界・見直しが議論されていたのは純文学だけではない。興味深いのは、従来のコードから比較的自由ではなかったのが男性であるのに対して、ジャンルの可能性を模索していたのが主に女性―ミステリは『白蛇教異端審問』(2005)の桐野夏生、SFはジェンダーSF研究会(2000年発足)の小谷真理ら―だったという点である。私を含む男性批評家―私に限っては今はクレーマーに甘んじているわけだが―は、この時期、純文学(の終焉)からサブカルチャーなりライトノベルへの移行―批評文脈でいえばポスト『批評空間』―にばかり目がくらんでおり、彼女らの動きが見えていなかった。今回のTwitterでの議論も女性が中心である。

『新潮』の10月号では、高橋源一郎佐々木敦の対談があった。ポスト『批評空間』の、文学における批評的言説を担った2人といってよい。話題の中心は、佐々木が文芸批評を「降りる」という話から、小説(=純文学)と批評の定義に及ぶ。

彼らの純文学の定義は、上記斎藤の状況分析―他のジャンルと同じ特殊なジャンルの1つ―を前提しつつ、「他のどのジャンルにも収まらない」(佐々木)「何でもありのジャンル」(高橋)だという。このような文学観は、2人の読者には馴染み深いものだろう。

彼らは、「ジャンル間の階級制」を真っ先に批判するだろうが、純文学以外のジャンルをコードが限定的なジャンルだとみなしているのではないか。しかし、ミステリは決められたコードに従うべきだとする男性批評家に対して、そのようなジャンルの縛りを批判したのが桐野夏生だった。

むろん、自分が関わるジャンルがなるべく自由であってほしいと願うのは自然なことであるが、自由の主張はしばしばコードの縛りを意識したことによるものである。「人はさまざまな可能性をいだいてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。」(小林秀雄「様々なる意匠」)

純文学作家になったからには、言葉が不慣れな子供を歓喜させる絵物語は披露できないし、コアなSFやミステリファンをうならせる仕掛けに没頭しえないし、キャラクターの魅力にばかりこだわってもいられない。次作から5・7調に転じることもできない。小説は理論上自由であるとしても、現実的に出来ることは圧倒的に限られている。

高橋と佐々木の文学ジャンル論には、「可能性」が豊かに語られる半面、この「驚くべき事実」がない。また彼らはそれぞれ自身の批評家から小説家への転身について説明するが、その説明には不可抗力的な要素が見られず、自由意志のもとに行われたかのようである。

要は、高橋と佐々木には、歴史があまりないのである。ジャンルの技術に対する目配せは誰よりもあると思われる2人だが、その技術論は歴史をともなっていない。だから高橋のこれまで多く発表された文学論は、小説作品を詩やマンガと同列に語ることに屈託がない。佐々木は、「私」の問題を扱う際に文学史を参照するし(『新しい小説のために』)、小説論を展開する際に隣接ジャンルを参照するが(『これは小説ではない』)、それらの議論は歴史の固有性ではなく原理論に収れんする力学が働く。

私は彼らを批判しているのではない。歴史を主題とすることが多かった『批評空間』後の文学における主要な2人の批評的言説を説明している。

私が、ときに「純文学=叙述・ジャンル小説=物語・ライトノベル=キャラクター」と3ジャンルの規則を説明したり、純文学を「自意識・叙述・主題・物語」の4象限から説明したりするのは、文学史を語るために必要だからである。しかし、原理論的に考えたい人にはひたすら胡散臭いだろう。

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純文学のコード=規則について話したが、次に制度面の話をしておきたい。上記Twitterでの議論の際に豊崎由美が、作家はデビュー誌など出自に縛られることに悩むという趣旨のツイートをしている通り、制度と規則は複雑に絡みあっている。

佐々木は、純文学を文芸誌に掲載される作品と定義している。おおむね首肯するが、文芸誌に掲載されない作品は純文学ではないということを意味しない。

とくに大正から昭和の初めにかけては多様な同人誌文化があり、中には相当程度の影響力を持つ雑誌があった。しかし、戦後になると文学の社会的影響力の地盤沈下が起こる過程で次第に商業メジャー文芸誌の寡占状態になるのは事実だ。

文芸誌のコンテンツがディスられることは、前世紀末から『批評空間』界隈ではしばしば見られたが、その制度面を大掛かりに批判したのは大塚英志である。彼の批判は、文芸誌が代表する純文学は、サブカルに補填してもらうほど深刻な不良債権なのだという現状認識を持ち、自立すべきというものだった。そんな文芸誌=純文学批判に対して、文学の多様性を守るという観点から反論したのが、前述の笙野にほかならない。

多様性から批判された大塚も、文芸誌体制に依存しない多様性―その形になったものが文学フリマだが―を組み込もうとしていたわけで、彼の〈近代的責任主体の再起動〉なる評語はネオリベとも相性がよく私には理解できないが、実は笙野と大塚の間には対立するほどの違いはなかった。いずれにせよ、たいていの文学論争は不毛なものだが(不毛だからこそ味わい深いのだが)、こと平成純文学論争の中でも笙野と大塚の論争に限っては、すれ違い続けたものの、有意義な争いだったと思う。

佐々木は、最近作『絶体絶命文芸時評』で倉本さおりと対談をしている。そこでこの10年ほど文芸誌を主戦場に批評を組織した経験を踏まえ、文芸誌体制について多くを語っている。

佐々木は、純文学は文芸誌に掲載された作品である旨を主張しつつ、文芸誌が「文化事業」「メセナ」であることに肯定的に言及している。大塚がそれに居直るなと否定的に語った側面である。

いずれにせよ、文芸誌が利益度外視の文化事業であることはそれほど重要ではない。出版社が自由な経営判断で続けるなり、降りるなりすればよいのではないか。

そこそこ重要なのは、純文学は文化インフラの主要なジャンルという側面である。例えば純文学の作品は教科書に載り、図書館に収載されやすいという事実を見ればよい。初等教育から大学文学部までの教育、図書館、評論・研究(メタ言説)のリファレンス、海外への翻訳ルート等を文学の文化インフラと定義しておこう。これらの文化インフラは純文学がほぼ占有している。ということは、現在純文学を一手に引き受けている文芸誌がほぼ独占している状態だ。文芸誌に載るということは、商業ベースに乗るというだけではなく、文化インフラにも登録されるということを意味する。そしてこの文化インフラは、歴史的に、文芸誌だけが培ってきたものではない。

私たちは、ジャンル小説ライトノベルなどエンターテインメント文学に言及しようとすると、図書館には置いていない等、アクセスの困難さに突き当たる。島田雅彦林真理子はほぼ同期だが、前者のアクセスのしやすさに対して後者は圧倒的に不利な立場だ。

斎藤は、〈各ジャンルのディレクトリは平準化した〉と述べた。ジャンルの価値観は確かにそうなった(?)が、インフラレベルはまだ歴然とした格差がある。むろん以前と比べるとずいぶん相対化されたとはいえ、社会的な扱いとしては、消費財のみの側面が強いエンターテインメント文学に比して、文芸誌=純文学は消費財文化財を併せ持つ。言い換えれば、文芸誌による、消費財(商品)としての選別排除が文化財としての選別排除にも深くかかわる。

以前は『文學界』に同人誌評があり、文化インフラのおすそ分けをしていたが、今はそれもなくなった(「同人雑誌評」1951~2008年、現在は『三田文學』)。

文芸誌に参入すれば文化インフラにフリーライドできる。内側にいれば当たり前の環境だが、外から見ると同じ文学をやっていても羨望の環境のように見えるかもしれない。同じ税金を払っているというのに! エンターテインメント文学のメタ言説なんてAMAZONレビューや口コミ、リアル書店での展開くらいしかないわけだ。要はマーケットだが、それは一過的なものでしかない。エンターテインメント文学も今後さらに本が売れなくなれば、この厳然たる階級制にクレームでもしたくなるのではないか。あるいは、純文学内部においても、商業ベースでリニューアルを進める文芸誌に対して、掲載されない・広告してくれない作家は階級内差別を感じているかもしれない。