感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

2人称の活用法

批評をやっていると―私は文学クレーマーだが―、作品評価というものについて考えることがある。文芸批評は、根拠のない誹謗中傷や、たとえ根拠があっても行き過ぎた罵倒を行いがちであり、それが文化的営為として(?)なんとなく放免されてきた―作家にとってはたまったものではないだろうが―という歴史がある。

それらは現在検証してみればハラスメントやクレームでしかないものも多々あるだろう。評価をする作品は著作物であり商品なわけで、この側面を忘れて行われる批評は、文化的営為という口実に甘えていると言われても仕方がない。Amazonの低評価レビューが信用毀損罪で罰則を受けた事例は文学クレーマーとして他人事ではないわけだ。文学と比べると軽音楽のような、商品的な価値が自明な業界では批評が成立しにくいのも、むろん良し悪しあるだろうが、参考にすべきところがある。

文学史を振り返ってみると、文芸批評が誰にも相手にされなくなったゼロ年代には、書評―もしくは書評的な批評―が業界では重宝されることになるのだが、批評のクレーマー体質を批判し、場合によっては「絶対に作品を否定しない」と口にする評者も登場する。ただしそれがまた、何かしら徳のあるような倫理的意味合いを持ってしまうことにも注意すべきである。端的に言ってそのような評価は、別の業界ではステマと蔑まれる行為であり、下手をすれば消費者に対する詐欺になりかねない。

そもそも絶賛したくなる作品などそう多いはずはないわけで、時評などでいつも褒めている人を見ると疑いしかない。私は『ファミ通』のクロスレビュー世代だから、評者4名全員が8点以上を出すゲームがどれほど希少なのか、まして40点満点はほぼ神の域に達するものであることを知っている。神が出る回はほどほどにしてほしいものである。

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先日、三島由紀夫賞の発表があった。受賞は宇佐見りんの『かか』だった。私が唯一否定的に言及した作品である。そこで当該作の何が評価されたのかを考えた。このところ気になっていたのは、2人称の活用である。三島賞のノミネート作の中では、当該作に加え、崔実の「pray human」も2人称を活用していた。最近刊行された早助よう子の作品集『恋する少年十字軍』の表題作も2人称だった。

2人称の活用例はそれほど多くはないので、やはり目立つ。何故2人称なのかが問われやすいわけだ。まず『かか』は2人称を利用する意味を見出せなかったというのが、私の中で評価が上がらなかった理由である。

小説において2人称を用いる場合、大きく分けて2つの機能がある。まず1つめは、1人称が2人称に呼びかける・報告するスタイルであり(1人称的2人称スタイルとする)、『かか』と「pray human」はこれに属する。いわゆる書簡形式で、他にも色々な作品の中で部分的に用いられることはままある(超絶有名なのは漱石『こころ』の遺書)。

もう1つは、3人称が2人称を呼称するスタイルである(3人称的2人称スタイルとする)。ただし3人称というと正確さに欠ける。要は、作中人物ではない話者が特定の作中人物に対して2人称を呼称する方法。有名なのはビュトールの『心変わり』(1957)だが、「恋する少年十字軍」もこれ当たる。Twitterでもすでに言及があったが、倉橋由美子スタイルといってもいい。

1人称的2人称スタイルと3人称的2人称スタイルは様々な変奏がある。倉橋の『パルタイ』(1960)は、3人称的2人称スタイル的だが、1人称が存在するので、折衷といったところか(1人称的2人称寄りの3人称的2人称スタイルとするが、もはやなんのことか不明)。「ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた。わたしはあなたがそれまでにも何回となくこの話を切りだそうとしていたのを知っていた」。

文壇で2人称が話題になった直近の事例は、2013年上半期の芥川賞を受賞した藤野可織の『爪と目』である。当該作の2人称活用は基本『パルタイ』に近く、1人称的2人称寄りの3人称的2人称スタイルだが、渡部直己が「移人称小説」の1例として紹介・評価したことでも知られる。

「移人称小説」とは、ゼロ年代から10年代前半にかけて流行った、複雑な人称操作を試みる叙述が際立った作品の総称である。言い換えれば、「移人称」をはじめとするトリッキーな叙述の文脈において2人称活用も注目されたわけだ。

3人称的2人称スタイルは、2人称活用本来の呼びかけ機能(私はあなたに伝える)がペンディングされる。読者の視点から見ると、「あなた」と呼びかけられているにもかかわらず、誰が何を報告しているのか不安な状況に置かれる。結果的に、物語や主題に対して、叙述が際立つことになる。

1人称的2人称スタイルは、2人称活用本来の呼びかけ機能に依拠しており、手法としてはオーソドックスなものである。呼びかけは必然的に主題を強く招き入れる。私はあなたに伝えたいことがある。

まとめると、3人称的2人称スタイルは叙述に特化し、1人称的2人称スタイルは主題に特化する、ということになるだろう。

3人称的2人称スタイルをふくむ「移人称小説」は「保坂スクール」に多く見られると言及した佐々木敦の発言がある(『小説技術論』渡部直己)。偶然の符号だが、『爪と目』が芥川賞を受賞した回にノミネートされていた作品に、いとうせいこうの『想像ラジオ』がある。当該作は1人称的2人称スタイルの典型である。2人称呼びかけのスタイルによるものであり、なおかつ東北大震災という強烈な主題を持っていた。いとうせいこうが主題と呼びかけという発話スタイルを併せ持って10年代に復活したことを分析したのは、主題の積極性を提唱する矢野利裕(「無数のざわめきとともに騒げ!―いとうせいこう論」『群像』2019・4)である。

むろん、1人称的2人称スタイルが、こと10年代に増えたということはないだろう。しかし、2人称に限らず呼びかけ・報告のスタイルが乗代雄介をはじめ―九州芸術祭文学賞出の小山内恵美子「あなたの声わたしの声」(2018)も思い出す―、独特な叙述をともなって登場している点に注目しておきたい。

呼びかけも様々な方法がある。これまた偶然の符号だが、宇佐見りんが受賞した時の『文藝』2019年冬号には、いとうせいこうが「うた・ラップ・小説」と題して町田康と対談をしている*1。その『文藝』の、村田沙耶香との受賞記念対談で、宇佐見が『かか』の叙述について「日記の他者化」と自説しているところは興味深い。抽象的な1人称でも3人称でもうまくいかず、「うーちゃん」というプライベートな1人称呼称が弟の「みっくん」に呼びかけるスタイルによって「日記の他者化」が可能になったという。

自分にとって親密な他者を立ててそのつど呼びかけること。その呼びかけは、抽象的な他者に向けて明確な主題を伝えるシンボリックな呼びかけではない。シンボリックな呼びかけの場合、呼びかける主体の輪郭は明確である。では『想像ラジオ』の呼びかけはどうか? 呼びかけの主体・DJアークは、死者というその決定的な輪郭のなさ・不在性ゆえに強固なシンボルを逆説的に招き寄せていたのではないか。

一方、「うーちゃん」の呼びかけは、何かを伝えるというよりも、いまにも溶解する自分(と世界の関係)を繋ぎとめるために必要とされているようである。当初私が期待していた2人称とは別の機能を、作家は2人称・呼びかけに与えていたのかもしれない。こう解釈すると、乗代雄介の「私」と「ゆき江ちゃん」とのファミリーリセンブランスな関係にも重なってくるし、文脈しだいでは遠野遥にも重なる。

そういえば、SNSでは、宇佐見りんは神ならぬ「天才」「奇蹟」という称号が早速与えられつつある。おそらく独特の叙述によるものだろうが、『かか』の叙述はその風変りさよりもむしろ、使用する語彙を限定するなど統制・調整されているところが重要で、要はこれは「家族語」なのである。良くも悪くも読者を選別するだろう。

*1:『群像』10月号では、いとうは崔実と「pray human」談義をしている。1人称的2人称スタイルの守護神のようですらある。