感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

第42回野間文芸新人賞雑感

10月は「LGBTQ+展」―「Inside/Out─映像文化とLGBTQ+」(早稲田大学演劇博物館)―と、「死刑囚表現展」(松本治一郎記念会館)があった。前者はまだ開催中だが(https://www.waseda.jp/enpaku/ex/10407/)、後者は3日間のみの開催で、急ぎ足を運んだ。

両展は多様性の社会的包摂を考えさせられるものである。とくに問題なのは「死刑囚表現展」であろう。「LGBTQ+展」を積極的に評価する人たちも、「死刑囚表現展」となると、なるべくなら見ないで済ませておきたい話題ではないか。

「死刑囚表現展」は2005年から催されている企画だが、今年は植松聖死刑囚の出展があってメディアが取り上げ、話題になった。初日は狭い展示室に400人ほどの来場者があったという。私も初体験だった。興味を持った直接のきっかけは、SNSで1部話題になった、円堂都司昭の報告である(https://ending.hatenadiary.org/entry/2020/10/23/194347)。

ポケモンのパロディ「死刑廃止Getだぜ!」(山田浩二)や、安楽死を積極肯定する「より多くの人が幸せに生きるための7項目」(植松聖)などの自己顕示欲の圧が強い、挑発的な作品の展示が、「死刑廃止」を訴える企画の意図に反するのではないかと円堂は戸惑いを見せる。

私が見た感想はといえば、そういった表現はほんのわずかであり、企画の意図に反する表現も排除せずに展示する主催者に好感を持った。とはいえ、被害者をはじめ、死刑廃止に関心のない人たちのことを考えると、円堂の戸惑いは共感しうるものである。

悪ふざけなのか、死への恐怖で心が不安定なのか、社会への敵対心か。そこらへんが気になるものの、出品者一人ひとりがどんな罪を犯したのか、刑務所で最近はどんな生活ぶりなのか、精神状態は、といった周辺情報はない。かといって、周辺情報に関係なく作品自体を鑑賞せよというのも違うだろう。死刑囚だからここへ出品できるという前提がまず明らかなのだから、その肩書抜きで観るのは不可能だ。

円堂は周辺情報の不足を批判する。探せばないことはないのだが、想定される戸惑いや懸念をおりこんだ説明が十分ではないことは確かである。当該表現展と長く関わってきた『創』編集長の篠田博之によるレポートへのリンクも置いておく。リンク先からは、表現展に展示された1部作品に対する、選考委員の講評動画も視聴可能である(https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20201031-00205698/)。

とはいえ、「死刑廃止Getだぜ!」のメッセージは、特に説明もなく、私たちに投げ付けられたままだ。社会の幸せのために不要なものをクレンジングすべきと提言する死刑囚の作品を、死刑廃止展に展示するという、ルネ・マグリット的(?)なメッセージ―「これはパイプではない」―を前にして、私もまた立ち止まらざるをえない。

もちろんそれは悪いことではない。問題なのは、何かを伝えることの困難さである。『創』編集長のレポートにも見られるように、関係者も今までにない反響に戸惑っているようである。

ところで、最近の文芸誌は各巻ごとに強い主題を持たせる傾向にある。作家も政治的社会的な主題を作品に導入しがちである。主題があるということは、誰かに何かを伝えたいということだろう。

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野間文芸新人賞の発表があった。主題の積極性は、芥川賞三島賞でも存在感があったが、今回のノミネート作はさらに際立っていた。5作とも権力関係が物語を推進する。内藤千珠子は最近「被傷性」「損傷性」というキーワードを用いて作品分析を展開しているが、ノミネート作の主題もこの観点から整理することができる。

三島賞にもノミネートされた宇佐見りん『かか』は、家族内の女性をめぐる「被傷性」、崔実『pray human』は女性(もしくは家族内子供)の「被傷性」の主題が見られる。両作品は、誰かに何かを伝えるという2人称スタイルである。

また、ヘイトが過激化する近未来を描いた李龍徳『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』は、在日朝鮮人・韓国人の「被傷性」、青鞜に影響を受けた女性たちの歴史を描く谷崎由依『遠の眠りの』は、女性の「被傷性」、紗倉まな『春、死なん』は、家族内の老人と妻の「被傷性」となる。

紗倉まなの単行本の帯には「現役AV女優が描く」とあり、被傷性と無縁ではない職業の肩書きを作品の周辺情報―パラテクストーに積極的に位置付けている。他も、女性や在日韓国人などの立場性が有意な情報となる作品である。

もちろんそういった周辺情報抜きにして作品を読むことも、原理的には可能だ。しかし、政治的社会的な意味付けはたえず読む行為に侵入する。

ゼロ年代は、政治的社会的な意味付けを排除して言葉そのものの動態に身を委ねることをよしとする保坂和志の小説論が一定の影響力を持った。しかしたとえば「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」(『未明の闘争』)式の破格の表現は、読者に特定の読み方を要求し、読者を選別するある種の政治性を持っている。この政治性を無視すると、普遍性の罠に陥るだろう。自分の作品を前にして戸惑う読者に、「とにかく読め」だの「嫌なら読むな」という権利は当然あるが、「あなたが間違っている」とは言えない。

言葉は、構造的・形式的に意味が決定されているわけではない。使用時にそのつど意味が決定され、場合によっては発話者と受信者に行為を促す。意味の決定と行為の促し―言語ゲームともスピーチアクトとも言い換えてよい―には使用時の文脈が深く関与するが、とくに重要なのは権力関係である。

『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』の世界観設定では、公的文書での通名使用が禁止されている。本名の使用は、社会的不利益を助長する。また日本での韓国語の使用は敵と味方の選別として機能し、最悪、性被害や暴力が発動する様が描かれる。そもそも、『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』のキャラクターたちは、最後の「テロ」にいたるまで、自分の発話や行為がどのような意味をもたらし、社会を動かすのかに意識的であり、そのブラグマティックな想像力が物語を推進するものだった。「聞こえる距離で、あえて韓国語を使ったのは最後にした挑発だ」(38)。

「あなたが私を」という書名にも示唆されている通り、言葉の使用は、そうとは明示しなくても(3人称を装っても)、私たちを当事者として1人称と2人称の関係に置く。言葉は私とあなたの関係―告発か命令か要望か勧誘か依頼か警告か約束か―を切り結ぶ。

そういう意味で周辺情報としてのパラテクストは重要な役割を持っている。『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』というスピーチアクト的なタイトルにくわえ、メッセージ性の強い帯文(在日作家のメッセージを含む)を交えたタイポグラフィカルな装丁は、主人公・太一が誘導する仕掛けのように、読者を誘い込むだろう。

『遠の眠りの』は全篇3人称による抑制された語り口だが、帯―パラテクスト―に「女たちよ、目ざめよ。」とある通り、言葉の、場合によっては政治的になるプラグマティックな側面に意識的である。主人公の絵子は家父長的な家族の在り方に疑問を持つ。その疑問を整理し、勇気を与え、自立を促す役割を果たすのが、訛りのない「書物の言葉」である。

らいてうの思想もさることながら、絵子は朝子の言葉遣いに気を取られていた。独特の話し方だった。前にも思ったが、訛りというものがない。なんだろう、これは、と考えて、本の言葉だ、と思い当たった。目の前にいるこのひとは、書物の言葉を話している。/ほうやの、と相槌を打とうとしたが、やめた。(66-7)

一方、その「書物の言葉」を自在に操ることは、教育を受けられなかった者に対する奢りにも転じる(122)。

物語は、絵子の人生を彩る「杼」と「舟」の機械的・日常的な往復運動のイメージを緯糸に、戦争がもたらす日本と大陸の行き来と、「少女歌劇団」の子供たちが強いられた男と女の入れ替わりが経糸になって織られる地図/織物として私たちの前に広げられる。

個人の意思をこえた日常の反復と歴史の推移が、抑制された叙述によって描かれる。そこから女性の痛みや諦め、静かな怒りのメッセージを私たちは受け取るだろう。受賞作『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』の、自意識全開の末に発動する壮大なアイロニーとは真逆である。私はこの2作で迷ったが、どこかで真面目になり切れない―政治的メッセージなど関係なくふいに言葉の細部・魅力にさらわれる瞬間がある―『遠の眠りの』を推していた。『遠の眠りの』がユーモラスかというと微妙だが、『あなたが私を』と比べると触知できる抜け感が刺さる。

『かか』だけではこの2作に及ばないと感じるが、2作目の『推し、燃ゆ』を読んで、この作家の比類ないセンスを知れたので―2作読まないと伝わらない周辺情報もあるのである―また別記したい。