感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

柄谷行人・遠野遥・小川洋子・百田尚樹

戦後75年目の8月も過ぎようとしている。台湾のデジタル大臣がインタビューのなかで、柄谷行人の読者であることを話し、SNSの話題になった。2000年前後までの批評界のスーパースターだった柄谷は長らく敬遠され続けた存在であったのだが。

https://toyokeizai.net/articles/-/363750
「台湾デジタル大臣「唐鳳」を育てた教えと環境」、『東洋経済』2020・7・4

最近のコロナ禍などでの台湾の「成功」事例を聞くにつけ、コミュニティーのサイズ感は台湾くらいがちょうどよいのかもしれないとは思う。ただ、億単位いると生まれる文化的多様性というのも実は魅力的なはずで、とはいえそこに生じる政治的な分断をどう考えるのかということになると、アソシエーションの発想が有効なのだろうが、柄谷はそのアソシエーションを具現化したNAMの「失敗」で不当に敬遠されている。2020年代は再評価されるだろう。その意味でも近著のアソシエーション論(仮題『ニューアソシエーショニスト宣言』)には注目している。柄谷は嫌いなままでも、アソシエーションは嫌いになりたくないものである。

SNSでは、直近の芥川賞を受賞した遠野遥の談話が衝撃をもって一部話題となった。
https://www.sankei.com/life/news/200824/lif2008240005-n1.html
「円滑なインタビューのために」、『産経新聞』2020・8・24

主題の積極性を軽くディスっているところなど一々興味深い内容だが(『破局』の主人公に似ている)、なにより注目したいのは、インタビュー形式をふくめ文壇政治の作法を批判している点である。遠野にしてみれば、蓮實重彦三島賞受賞会見(2016)を意識していたわけではなく、至極素朴な感想なのだろう。

作家が自分の陣地である文壇に対して素朴な違和感を表明することすら聞かれなくなって久しいが、こんなふうにイロニーでかわす受けごたえを見るのは村上春樹以来である。「何かを伝えたいなら、小説を書いて伝えようなんて迂遠なことはせずに、友達に話したり、SNSに書いたほうがいい」なんて最高ではないか。この令和2年の遠野談話は、文学史を記述するにあたって今後いくども振り返りそうな気がする。

平成の純文学は、悪びれもせず物語に特化した村上春樹に対して「文学は物語に依存してはならない」と批判することに何かしらの意味があった。その村上春樹は、日本の土着的な文壇政治―文芸誌体制と文学賞―をディスり続けた特異な作家だが、この2010年代は、文芸誌関係以外の仕事が目立たず、川上未映子と対談するなど、すっかり文壇の人におさまった感がある。

他方、2010年代は、普通に物語も面白い純文学作家が複数現れた時代である。純文学ゆえに特権化されていた、村上春樹の物語―村上春樹いわく物語=無意識であり、それは純文学が抑圧した無意識でもある―は今やありふれているのだ。ということは、物語批判も形骸化するほかない。主題の積極性が称揚される時代である。

8月6日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事も話題になった。小川洋子「死者の声を運ぶ小舟」
https://www.nytimes.com/ja/2020/08/06/magazine/atomic-bombings-japan-books-hiroshima-nagasaki.html

この記事は留学生相手の授業で扱った。留学生向け講義(日本語)は10年以上担当しているが、長いこと戦争を素材にしたテキストは扱わなかった。当該授業は中国人を中心にアジアからの留学生が多数を占める。私はどうしても加害側に立って話すことになり、議論をまとめるのが正直しんどい。しかし最近は厚かましくなったのか、扱うようになった。

原爆については日本の加害性を隠蔽しかねないので、そこのところも踏まえて話すのだが、学生からはやはり「アジアにとっては原爆はやむをえなかったと考える人が多い」という意見もあった。

小川洋子の話はSNSで評判がよく、特に最後は私も胸がつまるものがあった。よい文章だと思う。「忘却・喪失に抗する」という話は、小川節炸裂といったところなのだが、しかし日本人には聞き心地がよく、感動的に過ぎるという印象も受ける。『ニューヨーク・タイムズ』の読者にもこれは無害で「いい話」なのではないか。

小川が取り上げた原民喜はまだ原爆と距離が取れていないわけだが(戦後間もないから当然)、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』は複数の政治的な視点が入ってくるし、井伏鱒二の『黒い雨』はどこまで掘り下げても中心(解決)にはたどり着かないという原爆問題の不可解さ―あるいは記憶の忘却―が裏テーマになっていた。

しかし、原爆は忘却にさらされているというのは本当か? 広島と長崎は確かにそうなのだとしても、たった10年前の、2011年の福島では「私たちはその脅かされた原子力に何故依存しているのか?」という問いが顕在化したはずである(『脱原発「異論」』2011)。文学がこういった現在進行形の側面を見ないで済ませるために死者を利用するような感動装置にならなければよいのだが。

東日本大震災文学(震災後文学)を、戦争文学(戦後文学)より軽視する向きに同意できないのは、原発なるものは、自衛隊(9条)とは別の形で、戦後における「軍事・武力の平和利用」という点で天皇制と同じ根深い問題を提起しているからでもある。2011年以前から、原子力災害のモチーフはサブカルを中心に様々な作品に反復的に取り上げられてきた。原爆/原発は風化間近な記憶の底にあるものではなく、私たちの生を支配している。

現代は、倫理的な問題を市場の原理と切り離して考えることが困難になった時代である。ネット右翼を中心とした保守は市場の原理を露悪的に示す主張をしており(その典型が表現の自由としてのヘイトと自己責任論)、リベラルは正義でもってそれに対抗しようとするが、自分たちの生を支配している市場の原理をどう取り込むかが問われていない。東京オリンピック大阪万博に対する、リベラルのSNSにおける超絶いい加減な反応―オリパラなんて電通案件だからやめてしまえだの万博ロゴは維新抜きに評価するだの―を見てもわかる。むろん超絶いい加減でいいのだが、それを正義の言説で語ろうとするところに問題がある。

当然、文学もまた商品である。純文学は物語を積極的に取り入れ、「ほどよく面白くてほどよく考えさせられる」作品―横光利一「純粋小説論」(1935)の理想型―が多く見られるようになった。最近リニューアルした文芸誌は各誌程度の差こそあれマーケティングを導入し、その傾向は今後なお強まるだろう。しかし、私は、柄谷行人の「近代文学の終り」(2004)が予言したように、純文学も単なる商品になるとは考えていない。文芸誌に発表し文学賞を受賞すれば―もしくは物語批判をすれば―商品以上の文学的なアウラが宿る、というような特権がなくなったにすぎない(まだ内側にいると特権があるような錯覚があるが)。

横光利一は、文芸復興の時代(昭和8‐10年)に「純文学にして通俗小説」を提唱した。元々モダニズムの作家として登場した横光たちは、技法を研ぎ澄ませ実験的な作品を連発したが、その結果、読者を切り落とし、閉塞的な状況が生まれた。時は戦争前夜であり、自由な創作活動もかなわなくなる。そこで、活況を呈する通俗小説から物語や主題を取り入れようという理論を立てる。「純文学にして通俗小説」。おそらくこの方向性は間違っていない。彼は理論家としては優れていた。しかしイロニーやユーモアを解さない、というかそのレトリックを致命的に欠落させた作家だった。超絶自分の欲望に忠実な川端康成谷崎潤一郎と比べると、頑なに正義の人だったわけだ。その結果は『雪国』『細雪』と『旅愁』の差に現れている。横光の方が商品としての文学作品を熟知していただろうが。

百田尚樹本がいくつか出ている。『百田尚樹をぜんぶ読む』『ルポ百田尚樹現象』には勉強させてもらった。リベラルからの検証は貴重なものだと思う。ただ、「モンスター」「現象」といった形容をするあたり、百田たちの陣営を持ち上げ過ぎのように感じることもある。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/ishido20200620_jp_5ef0079dc5b60f5875985e8d?fbclid=IwAR27YsCg8K-0PnPCD_fim6XkMr0d1CJYGIH0QzKPCLyHxn2w-0oGceMLPyc
百田尚樹小林よしのり。「右派本のマーケット」をつくった2人の決定的な違い」、『HUFFPOST』2020・6・24

1990年代の小林よしのりゴーマニズム宣言』には、リベラルの「自虐史観」に対する批判があり、彼が差別的な表現(日本の侵略戦争肯定)をする時は、リベラルの良識・偽善を批判するという方法論的な意味があった。当時「てんかん」差別が話題になった筒井康隆の「ブラックユーモア」も同じだろう。批評だと、加藤典洋の保守がこれに近い立場である。『批評空間』が代表するリベラルの抽象的な理念を批判して、身体性や経験則、もしくは大衆に付くという立場。

ゼロ年代に入ると、『嫌韓流』(2005)に象徴されるヘイトはその方法意識すら脱落させて、単に差別のための差別、露悪的な差別になる。そのようなコンテンツを消費する層が一定いることが明らかになったため、そこをターゲットにして利益と承認欲求を満たすプレイヤーが登場した。

そういうノリで中国韓国叩きをしている人たちと対話をしても時間の無駄だとしか私には思えない。むろん私がやっていることも、彼らより価値があることだなどと思ってはいないが、人生はそう長くはない。リベラルは今まで通り適宜ファクトチェックをして批判をし、自分たちの楽しいことをやればよいと思う。社会の分断を背景に人民戦線的な発想が出てくることはよくあることだが、残念ながらうまくいったケースはない。

まして日本はこれから急速かつ壊滅的な人口減少が避けられない。現実と向き合うということが保守なら、いまや百田たちの方がよほど空想的―前回の言葉でいうと「おじさん」が夢見るファンタジー―ではなかろうか。いずれにせよ、ネット右翼を含むヘイト・マーケットも今後先細りをし、プレイヤーは分断・細分化したパイを取り合うことになるのだろう。ちなみに、この8年間ほど日本の政権を誰が担ったのかについては、脳内シュレッダーにかけておいたので、私の記憶には存在しない。

他方、百田たちの側に立ってみるとどうだろうか? 文芸誌体制と文学賞に守られた純文学は、彼らにとって存在自体がハラスメントな―そういえば最近芥川賞の選評がなんでこんなに偉そうなのかと思うようになったのは年を取ったからだけだろうか?―既成利益団体にほかならず、自分たちは自らの手でマーケットを刈り取ってきたという自負があるはずだ。前回の話でいえば、純文学を中心とした文学制度こそぬるい「おじさん」で、百田たちは孤独な被害意識(ルサンチマン)のもとに陣地戦を繰り広げてきたというわけである。

1990年代後半からゼロ年代に行われた純文学論争は、エンターテインメント文学(市場原理)からの攻撃に対して、文芸誌=純文学は「価値の多様性を守る」という大義名分があった。しかし今や「価値の多様性を守る」といっても、結局は自分たちの利益(文学的なアウラ)を守っているだけではないかという目で見られているのである。これは国語科改革―実用文採用による文学的教養の相対化―と同じ発想だが、この発想は空想的被害妄想的だろうか?