感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

PC批判と文化的盗用

こんにちは、文学クレーマーの中沢です。いくらイキってみても、世間的には、批評家はいまやクレーマーでしかないという眩しいツイートを目にして、これほど自分に合った属性表現はないと思った次第。元々批評家ですらないのだが、当面文学クレーマーでいきたい。

文学の現状について、私は、政治・社会的な主題を積極的に取り入れているという話を最近している。そこで、主題の積極性における批評性を考えていた。なんでもかんでも節操なく政治・社会的な主題を取り入れればよいわけではないだろうから。文学は、何でも書きうるが、何も書きえないという側面もまたある。

私は最近、「PC(ポリティカル・コレクトネス)批判」という標語に引っかかるものを感じている。「PC批判」は、リベラルの多様性肯定の偽善に対する批判としてそれなりに有意義なものがあるが、結局はリベラル批判仕草に陥っているところがあり、自分こそPCである-自分にこそ普遍性がある-という逆説に気付いていないことがままある。

ちょうどTwitterを流し読みしていると、「差別も多様性(のひとつ)」という露悪的な主張があった。これも「PC批判」として提示されており、実際にリベラルが叩かれていた。「差別も多様性」というのは、これまでも散々議論されてきた民主主義のアポリア問題のひとつにほかならない。民主主義は、民主主義を批判する声を代表しうるか? 

民主主義は必然的にその批判を内包する。しかし民主主義とその批判は、当然両立しえない。多様性とその批判(差別)も同じである。このアポリアを真として議論していても、相手を打ち負かす享楽に陥るか、シニシズムに陥るかしかない。最近のSNSがその証明を無惨な光景として示している。

ところで、このところ「文化的盗用(以下CA)」というコンセプトが目に付くようになった。Wikipediaでは、「ある文化圏の要素を他の文化圏の者が流用する行為である。少数民族など社会的少数者の文化に対して行った場合、論争の的になりやすい」という説明があるが、汎用性の高さからも注目している。CAは、自分にこそ普遍性(正義)があるというPC(反PC)的な主張ではなく、社会的な分断を前提にした、倫理的・実存的な陣地戦という様相を呈するものだからだ。「お前は俺たち(彼ら)の陣地に突貫する覚悟があるのか?」

CA的な発想は、1990年代にマイノリティーや戦争責任問題が顕在化した時の「サバルタン」に収れんする「代理不可能性」問題とも共有する部分があるが、この「代理不可能性」=「差別の前では沈黙するほかない」なる否定神学は、けっきょくPC的な普遍性に囚われており、反PC(差別も多様性)の裏バージョンだといえる。敵のコマは99、自分のコマはたった1。PCも反PCも、そんな盤上の形勢を一気に逆転する1手(革命?)を夢想する罠に陥りやすい。

今回の芥川賞の選評を読んでいて、島田雅彦は遠野遙を嫉妬しているのではないかという印象を勝手に持ったが(単なる思い込みです)、それは悪いことではない。文学の高齢化は不可避とはいえ、若い才能を読んだときの喜びは何ものにも代えがたいと感じた。しょせん中年男の感想かもしれないが。

最近、倉数茂『あがない』、村上春樹『一人称単数』、松田青子『持続可能な魂の利用』と、立て続けに「おじさん」小説を読んでいる。これらをまとめて「おじさん」小説と一括するのは誤解を招くかもしれない。倉数茂も村上春樹も、「おじさん」の挫折が描かれていて私には共感できる要素があるが、「おじさん」を排除したがっている松田青子作品はそうはいかない。

思えば、齢40代は「おじさん」化との、肉体をめぐる攻防戦だった。白髪に薄毛、代謝が悪く肥満ぎみ、さらには遠視で読書も難儀になる。抵抗はしたが、50を前にほぼあきらめた。ただ、年を取ると読書の共感範囲が狭まるのにはいささか閉口している。たとえば上田岳弘のキャラクターは苦手で、お金にも女にも困ってこなかった実業家が黄昏ている様は、2段3段と意識的に抽象度を上げないとなかなか入ってこない。IT的な事業が順調で、お金にも女にも困ってこなかったが、生きづらさを感じている中沢がいる可能世界を想像することはなかなかハードである。むろんこれは作家が悪いのではない。

いずれにせよ、前回の投稿で取り上げた山崎ナオコーラ「キラキラPMS(または、波乗り太郎)」といい、松田青子作といい、「おじさん」に期待される社会からパフォーマティヴに生成変化する様が描かれているのに対して、男性作家は過去に囚われている様が見られた。陣地を取りに行くか、それとも陣地を守るか?

ところで、芥川賞の前々回の選評では、候補作の古市憲寿作品『百の夜は跳ねて』が評者から痛烈に批判されたことで話題になった。彼に対する、盗作的なニュアンスをこめた批判は不当なものだと思うが、この批判にはCA的な文脈があったのではないか。

古市は、窓拭き清掃員の主題を木村友祐の作品から借用した。木村の作品は参考文献として明記されている。だから批判の余地はないはずだが、芥川賞選考委員の多くが感情的な批判を示した。山田詠美は、「候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」と、盗作よりも倫理的に低劣なものと難じている。

私は、古市の『平成くん、さようなら』以来、芥川賞レースでは古市推しだが(彼は純文学に陣地戦をもたらすピースになりうると考えるから)、『百の夜は跳ねて』では、妙にかしこまった彼のリベラル仕草についてTwitterで不満を述べた。実は私の不満もCAが背景にあり、首相夫人とも懇意な作家が「肉体労働者の生きづらさ」を主題とする倫理的・実存的な理由が見当たらないということにあったかもしれない。

もう少し時間を巻き戻せば、東北大震災を主題とした『美しい顔』に対する批判も、より広義なCA文脈に置き直してもよいだろう。当該作は、当初、参考文献の未記載において批判されたが、SNSを中心に批判が苛烈化するなか、被災地を取材していない非当事者性という観点から批判されることになった。この批判は、当該作を評価した評者にも及んだ(私も当該作を絶賛した)。

しょせん他人事だが、『美しい顔』の作家は、批判を受けて継続的にこの主題と向き合えばよいのにと考えている。「お前は俺たち(彼ら)の陣地に突貫する覚悟があるのか?」

この考えは実存的かもしれないが、私は、文学には倫理的・実存的な価値基準がそれほど重要だと思っていない。主題の積極性を推したいわけでもないし、技巧中心のテクスト主義でもない。ましてや物語が何より大事とも思わない。重要なのは、テクストと同じくらいパラテクストを充実させ、テクストとパラテクストを往還する作業だと思っている。パラテクストとは、テクストのメタメッセージといってもよい。ある主題と腐らず付き合えば、その作家のテクストを支えるあれやこれやの価値基準なりメタメッセージがテクストの周辺に繁茂して見えてくる。文学とはこうあるべきだという普遍的な価値などないのだから、既存の文学的価値や文芸誌体制に寄りかからずに、テクストとパラテクストを往還する様が文学の、純文学しかなしえない、あるべき動態ではないか。

今回の芥川賞でも沖縄や南米を取り上げた作品があったが、最近の純文学では、貧困・ジェンダー・被災をはじめ、他者の政治・文化を主題にする作品が増えている。しかし、果たしてこの主題はこの作家が取り上げるべきものなのか腑に落ちないものもある。『82年生まれ、キム・ジヨン』が、男性作家がすなるものだったらどうだっただろうか? いうまでもなくこの作品は、女性作家が書く以外の余地はなかった(なおかつ「理解のある」男性を話者にしたことに文学的な批評性があるのだが)。

そういえば、『82年生まれ、キム・ジヨン』を手に取ったときのことだが、帯に非男性のコメントがずらっと並んでいるのを読みながら何かしら軽い恐怖を感じたことを覚えている。このとき直観的に、#MeToo運動は意義深いと感じたのだった。これも陣地戦ではある。声に声を積み重ねていくこと。

いま文学の陣地の多くを占有しているのは明らかに女性を中心とした非男性である。これを先導しているのが文芸誌『文藝』であることに異論はあるまい。「韓国・フェミニズム・日本」に続く最新号の特集「覚醒するシスターフッド」が話題だが、これは『L文学完全読本』の斎藤美奈子が2002年に唱えていたものでもある。「21世紀 L文学宣言」。ただし、「L文学」はあくまでも文学にこだわったが、『文藝』の特集は文学が絶対というわけではない。

『男流文学論』(1992)で文学の男性支配に対する批判があり、『L文学』で女性作家の活躍を寿ぎ―「このところ女性作家の活躍が目立ちます」―、「覚醒するシスターフッド」が文学を足場に次の陣地を狙うのか、それとも?

もちろん男性は女性問題を主題に出来ないといいたいわけではない。当事者性からは自由であるべきだ(文学はなんでも書きうる)。ただし、そこには無数に分断された陣地がある。その陣地を読み取る力が試されるだろう。たとえば、2017年9月『早稲田文学増刊 女性号』を受けての2018年5月の『すばる』が組んだ特集「ぼくとフェミニズム」は陣地戦を意識していた。

前回の投稿でコロナ禍は国民の誰もが主題として共有しうると書いた。東日本大震災などの被災の主題と比べると確かにそうだが、「夜の街」をはじめ、東京と地方、学生と高齢者、経済優先派と自粛優先派など細かい分断は見て取れる。中上健次が扱った部落差別の主題にしても、当事者でさえ細かい分断があるものである。

ある作家の、震災を主題にした作品が海外で評価された時のことだが、その作品がSF的な想像力により被災を誇張したものだったところから、「東北(日本)に風評被害をもたらすのではないか」というような趣旨の批判をSNSで読んだことがある。こういう声は届いているだろうか?

純文学はいまやマイナーなジャンルであり、社会的な影響力がなく(要は無害とされている)、なおかついまだに制度的に保護されているジャンルである。だから私たちは普遍的な立場から主題を切り貼りできると信じられてしまえるところがある。

アートでは、2019年あいちトリエンナーレが可視化した「アートの公共性」問題が、社会の分断下の陣地戦を繰り広げた。これは自陣が切り崩されるケースである。当然、文学でも至る所にそういった事態は起こっている。女性の読者人口を支えてきた大学の文学部解消、そして最近では高等学校国語の実用化問題がそれだ。
https://diamond.jp/articles/-/245339
リンク先は、「文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化」という炎上しそうな対立図式―しかしSNSを見る限り文学側はこの対立図式をあまり批判していない―を立てていることからもわかる通り、文学側からの意見である。だからそれを差し引いて読む必要があるが、2022年度から始まる国語改革のもと、高等学校の「現代文」が解体され、国語科は実用文の重要性が増し、文学的教養が相対化されることになるのは事実だ。

文学は、これまで「エンタメに比すると難解すぎる(技巧偏重)」や「エンタメを取り入れるべき(主題と物語導入)」といった批判はあったが、それらはいずれもエンタメ文学との内部抗争レベルだったわけで、実用文からの牽制はなかった。おそらくこの端緒は、英語のグローバル化に対する日本語教育の意味を問うた水村美苗日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』(2008)の告発にあるが、漱石や四迷が好きな彼女自身は、日本語文学を多様性のひとつとして保護するというリベラルな考え方を持っていた。ただしこのときすでにリベラルは、ネオリベ的な世界の中で保守の立場に立つというねじれを生きているわけだが。

水村を批判する者もさすがに文学の価値までは批判しなかった。あれからわずか10年。『文学+』2号の書誌にも書いたが、ゼロ年代までの文学者による国語批判といえば国語教育のイデオロギー批判が定番だったが(石原千秋の受験シリーズが典型)、いまや文学はイデオロギー装置ですらなく、単に国のお荷物になりつつある。

実際、日本文藝家協会は、その危機を感じ取り、「駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要で文学は無駄であるという考えのようだ」と国語改革を批判している。

だが、権利者の保護のみならず、欧米に対する競争力や文学の永続的価値なるものを根拠に、著作権保護期間の延長(著者の死後50年→70年)に賛成していた協会が文学の公共性を唱えることに若干の不信感は持っている。70年前には通用しただろう文学的価値でもって70年後の文学を見通されても不安でしかない。ジャンルでいえば、端的にそれは「おじさん」が夢見るファンタジーというものだ。この10年で文学が置かれた状況がどれほど変わったのか見えているだろうか?

『持続可能な魂の利用』では、存在自体がハラスメントな「おじさん」が排除されたが(存在は許すが迷惑をかけるな)、世間的には文学への視線も似たようなものになっている。なんて書くと、リアル中年男が墓場まで文学を道連れにしようとしている魂胆が見えてあさましいか。