感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

2020年上半期芥川賞雑感(1)

2020年上半期芥川賞が、団塊ジュニアゆとり世代の対決であることをご存知でしたか? 石原燃(1972)、岡本学(1972)、高山羽根子(1975)、遠野遥(1991)、三木三奈(1991)。

1972年生の私は、1991年生の2氏の作品に多くを惹かれました。若い者の気持ちもわかる的なものではないことをとにかく祈るばかりです。
発表が2週間後に迫るなか、今回は「アキちゃん」(『文學界』2020・5)について書いてみました。

これはなかなか議論喚起的な作品です。手法と主題の関係を考えさせられました。作品の構造は、小学5年生の2人のキャラクター-ミッカーとアキちゃん-の物語を中心にして、その前後、物語の冒頭と最後に話者―成長したミッカー―が回想するシーンが置かれる。

本作は『文學界』新人賞ですが、その選評も副読本として読んでみるとよいかと思います。叙述の問題(作品の山場に置かれる叙述トリック)に引っかかっている評者と、主題の問題に引っかかっている評者とで真っ二つに割れている点がまず見所です。前回の芥川賞でも話題になった、手法と主題の関係というやつですね。

ジェンダーーもしくは第2次性徴期の子供たちの関係性ーの主題を優先して読む(川上未映子東浩紀両氏)か、主題と叙述トリックなどの手法の一致を読むか(中村文則氏)、叙述トリックなど構成や手法を優先して読むか(円城塔長嶋有両氏)。5氏の読み方の癖がとてもよく出ている。作家としてはここまで攪乱させたならそれで十分勝ちなのではないでしょうか。芥川賞選考でももめにもめてほしいところです。

個人的な読後感は、叙述トリックと、それに冒頭と最後の回想シーンに十分乗れませんでした。

叙述トリックについていえば、いくらジェンダー-あるいは第2次性徴期-の複雑な問題を真面目に取り上げるという主題があっても、叙述トリックを入れる以上、読者をはめるための工夫がノイズとして入り込みます。作者の意図がどうであっても、謎解き要素を想定しない純文学では、物語を真面目に読むなというメタメッセージを持ってしまいます。主人公の感情の揺れ動きをいくら真面目に読もうとしても、そこで逡巡が生じてしまう。選考委員の中村・円城・長嶋3氏の反応はとてもよくわかります。

冒頭と最後の回想シーンはどうか。作品のメインである物語―落書きシーンや叙述トリックが明かされた後の雑貨店のシーン―の、ミッカーとアキちゃんのやり取りの魅力的な描写に比して、その物語を前後で挟む回想シーンが雑な印象を受けたんです。

冒頭の過度な「憎しみ」発言は読者をトリックにはめるための伏線でもあるんでしょうけどねー。途中無理があると感じているのか「憎しみ」の意味を色々とパラフレーズするんだけど、このワードが効きすぎて、情動の繊細で魅力的な各シーンを打ち消しているように思います(東氏と川上氏の解釈の対立の原因はここに起因するのでは)。

最後は逆に、過度な言い落しですね。回想シーンの(成長した)主人公の立場は冒頭より最後の方が本当なのだろうけれど、文学的な余韻を残してみましたみたいな感じになっていて、あれほどアキちゃんに「憎しみ」を持った自分とのバランスを欠いている。回想時をわざわざ両端に設けているわりにこの部分がとても雑で曖昧な印象。

そう考えると、叙述トリックの主題との不一致(暴力性)も気にならざるをえない。叙述トリックとは、話者が読者の認識枠組みを一変させるほどの強い拘束力を持つ手法です。たとえば被害者を容疑者に、加害者を被害者に転回させるくらいに。ミッカーにとって加害の立場にはあったアキちゃんの「真実」を隠し暴露する暴力の権利が話者(の「憎しみ」)にあったのか。それに応答する何かが回想シーンからは得られないんです。

アキちゃんが話者だったらとか考えてみましたが、それとこれとは別の問題でしょう。いずれにせよ、「アキちゃん」は手法と主題の関係を考えさせる良作と思いました。