感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

フィクション、なぜ悪い?

 書評家の豊崎由美氏が、『週刊新潮』の書評の処遇についてツイートしていました(6月22日)。『週刊新潮』の書評欄は、今後、俳優や学者・政治家など有名人にまかせることになったと近況を説明し、プロの書評家の軽視と有名人偏重になることを批判されたんです。
 確認をしていませんが、事実だとすれば、個人的には、週刊誌はコラムで腐るほど有名人に書かせているのだから、書評欄くらい巧者の書評が読めてもよいのではないかと思いはします。
 ただし、技巧や文体を楽しむという余裕はどのジャンルでもなくなりつつあるのが現状です。
 振り返れば、文芸批評は、10年以上前にそのかったるい形式的媒介性によって文壇から放逐されました。もちろん文芸批評の退潮は、創作や文壇に対する辛口すぎる言説など複数の要因が考えられますが、その媒介性もひとつの要因でしょう。批評家が自分の関心事や社会批判を語るために、わざわざ他の作家や作品を手掛かりにするわけだから、その媒介性たるや推して知られます。文学史もそうです。過去にも似たような話があったなんて指摘は正直面倒くさい。過去の参照はキャンセルして「今を話せ!」となる。
 書評はといえば、批評に比してハイコンテクストではないぶん相対的に媒介性は薄いジャンルですが、それゆえに技術の修養のない有名人が入り込む余地があるということでしょう(書評に技術は不要と言いたいのではありません)。
 文芸批評がそのかったるい媒介性ゆえに放逐され、その代わりを埋めた書評は固有名に依存するという事態は、「ネオリベ」とか「加速主義」を持ち出すまでもなく経済原則にのっとればわかりやすい傾向ではあります。帯文も有名人の一筆の方がつい手に取ってしまいますからね。

 文芸誌が批評に力を入れ始めたという話が出ていますが、私はそうは思っていません。小説だけでは訴求力が弱いという判断でしょう。リニューアル『群像』を見ればわかりますが、作家論・作品論・文学史をじっくり読ませるというよりも、固有名に頼るか、媒介性の薄いものが前面に出ています。『群像』は2016年から新人賞も「文学」に限定しない方針を打ち出しましたが、リニューアル『群像』がキーワードを「論」としているところも意図的なんだと思います。要は「文」の媒介性を相対化するという考え方です。
 まあ文芸誌は、それだけでは商品になりにくい小説を読んでもらうためにインデックスやタグを古くから必要としてきたわけで、そのために座談会や批評・書評・時評等々があり、その主役が文芸批評だった時代があったとすれば、最近は書評が肩代わりしつつ、各誌模索しているといったところでしょう。

 私は以前、批評は「①属人性②テーマセット③作品・状況分析」の3拍子、つまり「①誰が②何について③どのように」論じるのかが重要とし、最近は②が軽んじられているというツイートをしました。
 文芸批評はしょせん山師ですから、「露骨なる描写」「純粋小説論」「文芸復興」「形式主義」「行動主義」「昭和十年前後」「転向論」「物語批判」「文学終焉」等々これまでテーマをぶち上げてきたわけです。
 テーマセッティングは要は運動論なので、鈴木貞美の「生命主義」とか、加藤典洋の「ねじれ」「テクスト論批判」とか、絓秀実の「ジャンク」「68年」とか平成に入っても仕掛け方を熟知している批評家はいました。おそらくテクスト論の精読主義が、テーマセッティングみたいなものは不純だという考えを植え付けたのだと思います。
 ただし、テクスト論だけの責任ではないでしょう。端的に、リベラル・左翼(サヨク?)はこのところ物語を語る主題をすっかり喪失しているようなのです。
 たとえば戦後文学の3大噺「天皇」「アメリカ」「転向」は、ゼロ年代の王殺し3作品―『シンセミア』『海辺のカフカ』「無限カノン」3部作―で打ち止めになったと思っています(『文学+』2号「純文学再設定+」を参照)。トランプ政権下に刊行された阿部和重『オーガ(ニ)ズム』が、話せばわかる的なオバマとの父親殺しを必死に演じているシーンを読みながら半ば確信しました笑 技巧面は面白かったですが。村上春樹騎士団長殺し』、島田雅彦スノードロップ』も同じような磨り減りを感じます。
 他にも『石原慎太郎を読んでみた』や『百田尚樹をぜんぶ読む』といった企画がリベラル側から受けるのも、保守にはなにやら物語が語られるべき主題らしきものがあるようだという羨望にもとづいているのではないでしょうか。
 とはいえ、この父親殺し・王殺しという主題の失調の問題は、「平成文学は非男性作家が主役を奪った」と見れば、別の様相を呈してくるわけですが(小谷野敦・綿野恵太両氏『週刊読書人』の天皇論壇マップは見事に男性陣だらけでした)、このへんは別記が必要です。平成後期からは「貧困」「被災」「ジェンダー」が3大噺になりつつありますね。その中で「天皇」「アメリカ」「転向(サヨク)」は別様の語り口を必要としているように思います。
 
 いずれにせよ、平成も半ばになるとテーマセッティングは(批評家ではなく)雑誌がになうことになり、「J文学」はその最初のヒット作だと思いますが、これは運動というよりもマーケティングといった方がよさそうです。昨年からのリニューアル『文藝』は書評を中心にこの路線を突っ走り、一定の成功をおさめています。
 けっきょく最近の文学は、全体的には③の媒介性を縮減しつつ、①と②(マーケティング的な意味での②)に依存しており、その傾向は止まらないんだろうと思います。

 当然、小説・創作もこの傾向をまぬかれてはいません。なぜ、生活に困ってもいない作家が貧困をテーマにした創作を書くのか? 当事者でもない作家が被災をテーマにするのか? だったら、当事者の実録やルポルタージュでよくないですか?
 実はそういう声はむしろ文壇の周辺や内部でこそあがっています。3・11をテーマにもつ『美しい顔』は、参考文献非記載問題が転じて、被災地を実検しなかったその形式的媒介性を非難され、芥川賞を虎視眈々と狙う(?)古市憲寿氏は、参考文献を丁寧に記載した結果、平成の文豪たちから、お前の魂で書けと説教されました。
 いっそのこと、安全圏で語るフィクションなんて小手先の技術はかったるいんだから、全部ノンフィクションでよいのではないですか?