感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

見たいものしか見たくない時代の文学史

1、同人誌発売の告知をかねて2週間ほどTwitter解禁してみたんですが、自分はTwitterをやっちゃいけない人間なんだなあと改めて思いました。イキリ体質なんで、140字でいかにキメてやるかをいつの間にか考えている。SNSの中でも特にTwitterは中毒性がありますね。そういうものにうまく距離が取れる人はよいけれど、私は関わっちゃいけないタイプの人間です。

2、Twitterを再開した時のこと、女子プロレスラーのいたましい一件で、SNSでは「誹謗中傷」批判が蔓延しましたが、誹謗中傷は法令の名誉毀損と関わる概念(根拠なき批判)でもあるので適切ではなく、単に罵倒語でよいのだと思う。SNSでは罵倒語を用いる敷居が低いですね。面と向かって相手にそんな言葉使わないよね?という言葉を普通に使う。ネット右翼のみならずリベラルの大学人や識者も普通に用いる。バカとか死ねとかトンチンカンとか。

3、「安倍やめろ」はどうか。私は、SNSで批評性のある文章と考えた時は敬称を略すことがあるけれど、本人が読んだ時はどうなのかというのはやはり抵抗としてある。いずれにせよ、罵倒語はレトリックの一つなので、誹謗中傷とは違い、一概に批判されるべきものではないと思っています。私もTwitterで複数の人・組織を傷付けてきたはずで、やめた動機もそれがあるのですが、開き直るわけではありません。

4、最近の文学は、いよいよ見たいものしか見なくなってきていますね。15年くらい前にある作家が「小説のことは小説家しかわからない」といって批評的な読みなどを批判して、ある批評家と論争になったことがあるのですが、それ以来「見たいものしか見ない」状況が加速しています。

5、『小説の生存戦略ライトノベル・メディア・ジェンダー』(2020)というライトノベル周辺をテーマにした研究書を読みました。Twitterにも書きましたが、この編著を出したライトノベル研究会は14年間のキャリアがあり、これまで関連書を数年おきに刊行してきました。研究会に所属する大橋崇行氏や山中智省氏はライトノベル関連の単著を出しています。

6、彼らが試みたことの重要なポイントは、単にライトノベルの評価だけではありません。ゼロ年代以降の文学市場がジェンダー・ジェネレーション・メディアなどによって細分化されたことを分析し、その中で特定ジャンルの規則が(隣接ジャンルとの関係から)どのように生成・変換・延命してきたのかを事細かに追跡したところにあります。「フロントライン」3部作では読者の目線に寄り添ったり、作家の意見も積極的に取り入れたりしている。研究会は『小説の生存戦略』で休止するそうですが、『ライトノベル研究序説』(2009)以降の彼らの残した営みは、のちに検証されるべき貴重な資料だと思っています。

7、作家は流動・細分化する読者とメディアに向けてそのつど最適解を作品として発表する。一方、純文学は最近何のためにあるのか、どこに誰に向けて書かれているのか、文芸誌を手にとってもよくわからないんです。おそらく作家たちもよくわかっていないのではないか。<文芸誌>に発表できればとりあえず文学として成立することになるシステムだから。

8、学者が小説を書くことが流行っているという記事を読みましたが、小説を書きたくて、何故ほとんど流通していない(一部の小説好きしか読まない)文芸誌を発表媒体に選んでいるのか、正直よくわかりません。自分たちで作った手製のメディア発信の方が、多様な人に届くはずなのに。

9、私は、同人誌で、最近政治的主題を書くことが文学では流行っているということを書きました。でもその政治的主題は誰かに届いているでしょうか? 例えば島田雅彦が『スノードロップ』という天皇・皇室を戯画的なテーマにした小説を発表しましたが、20年前の無限カノン3部作の頃はまだギリギリあった緊張感(『美しい魂』は批判があり刊行できない時期があったし、3部作は批評家の福田和也との論争にも発展した)がない。

多分、当の作家自身も、社会的な批判など考えもしないところで強い政治的な主題を書いているのではないか。昨今緊張を強いられている芸能人の政治的なツイートとは大違いですね。音楽では、「非政治的な歌詞も実は政治的なのだ」という話がでていますが、文学では、「いくら政治的な話をしても政治化(相手に)されない」ことが問題でしょう。

他方、文学は政治的なものではないとするフォルマリストもそれがいかに政治的なリアクションなのかは、少し文学史を学んだ方がよいです。

10、端的に純文学は文芸誌に依存しすぎているように思います。それが問題視されたのは20年前なのに。当時文芸誌批判をした批評家に対して、ある作家は孤軍奮闘しましたが、彼女は多様性を保持するために文芸誌は必要だという主張をしていました。それはその通りだと思いますが、純文学のプレイヤーは今一度、文芸誌(文学賞)とその周辺を俯瞰してみた方がよいのではないかと思っています。

11、文学の市場は細かく分断されているわけで、「小説のことは小説家しかわからない」というのは本心なのでしょう。だからそこに今一度批評が必要だなどとは全く思いません。各作家が批評的にふるまえばよい。ライトノベルのように、そうやって生存戦略を立てないとやっていけないジャンルの作家たちがいます。純文学の場合は、文芸誌体制がそれを狂わせているのではないでしょうか。まあ、それが現状最も合理的なのかもしれませんが。