感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

見たいものしか見たくない時代の文学史(2) テクストとパラテクスト

1、前回の記事「見たいものしか見たくない時代の文学史」では、純文学のメジャー文芸誌体制を批判するために、少しライトノベルやウェブ小説周辺を理想化しすぎたかなと思っていました。

2、ところが、どなたかのSNSの発言を読んだんですが、ウェブ小説の創作論は、売れるため・目立つためのSEO対策―タイトルやタグの付け方・改行の仕方等々―に終始していて、小説は読まれなくても書くことに精進すべきだみたいな話をされているのを読みました。
純文学好きがそういうならまだしも、ウェブ小説周辺を読み込んでいる方だったので、純文学信仰―小説家は小説のことだけを考えていればよい―は根強いなと思った次第で、ライトノベルやウェブ小説周辺はもっと理想化してもよいのかもと思ってしまいました。まあバランスだとは思いますが。

3、上記みたいな純文学信仰はけっきょくのところテクスト主義・作品主義を前提としたものです。要は「作品」とされる部分以外は考慮に入れないという考え方ですね。「小説は小説家のことしかわからない」という発想もこのテクスト主義・作品主義を前提としたものでしょう。

4、しかし、歴史的にみれば、こういった文学の考え方が主流になるのは明治30から40年くらいです。それ以前の文学環境はもっと雑多なものとしてありました。「作品」という外枠はそれほど明確でもなかったでしょう。例えば、新聞に発表される小説は、それ自体で完結しておらず、その紙面全体(挿絵や記事・広告)との影響関係のもとに成立していました。

5、明治文学の研究者はこのあたりは自明な事柄です。文化研究(カルスタ)が最も研究の刈り取り場としたのが明治時代ですが、それはなぜかというと、文学の言説と他の領野の言説が明確な分節化をされていない時代だからでもあります。なので、文学批判をしやすい時代でもあるのですが、逆にいえば文学の可能性を検証できる時代でもある。

6、今回の『文学+』02号の明治文学研究座談会では、このあたりを複数の観点からフォローし、見過ごされがちな文学の様相を明らかにしてくれています。書誌もあわせて読んでいただけると現在の問題としても理解していただけるかと思います。02号の書誌がフォローした時代は2005から09年で、ちょうどカルスタ(文学批判)の反省と、また違った切り口の研究が注目される時期に当たります。

7、私は『ユリイカ』(2019年02月)に吉本ばなな論を寄せましたが、これは吉本という作家に物語作家と私小説作家の2側面があると論じるもので、なおかつその私小説作家の側面はテクスト主義・作品主義にとどまらない言説・メディア操作―それこそSEO対策みたいなものも含めた―によって成立していたという話です。この2側面を「テクスト」と「パラテクスト」の概念を用いて解説しています。

8、ついでにいうと、『文学+』02号の私のエッセイ「純文学再設定+」では、文学環境を、自意識批判・叙述・社会政治的主題・物語の4相に分けて分析しましたが、これは「テクスト」に限定した話であって、「パラテクスト」的な様相を付け加える必要があると考えています。

9、以前からくり返していますが、純文学のプレイヤーたちは文芸誌にとどまらず自前のメディアを持つことなど常識な時代がずっとあったし、特に1980年代から90年代に登場した作家たちも文芸誌体制に収まらない活動をしていました。ただ、これは日本のメディア周辺にお金が潤沢にあり、例えば純文学作家をスターとして世に出したり(斎藤美奈子『文壇アイドル論』など参照)、様々な文化事業や雑誌を設けてそこに作家を積極的に関わらせることができた時代が背景にあり、作家は黙っていてもその恩恵に浴すことができたという側面はあったでしょう。

10、そういった余裕が社会全体になくなった時代が今世紀以降・ゼロ年代だとはいえ、ウェブを中心に自前のメディアを活用しやすくなったわけです。吉本ばななは「文壇アイドル」の最たるもてはやされ方をした作家のひとりですが、ゼロ年代以降も自前のメディアを駆使して読者とのコミュニティーを醸成し、文芸誌体制から一定の距離をとって活動をしている。

11、私もウェブ小説周辺はよくチェックしています。実際に、作家の一定程度は臆面もなくSEO対策的な話をしており、文芸誌などに掲載されたいという思いから傾向と対策にいそしんでいる作家もいます。しかしこういった雑多な部分―運動論など政治の問題も入ってきます―を含めてこそ文学、と考えない必要はないと考えています。要は、テクストが主で、パラテクストが従とする必要はない。実は、作品の評価基準が定まらない(市場価値に依存しない)純文学こそそう考えるべきなのに、どういうわけかパラテクスト的な側面が軽視される。そこを問わなくてもよいように何かに守られているからではないでしょうか?

12、最近の純文学作家―特に男性作家に見られます―がTwitterなどで発言しているのを読むと、みな声高なリベラルとPCを実装した発言になっています。この最たる原因は、批判の対象を自分の外(安倍政権とヘイトまみれのクソリプですね)にしか設定していないからですね。これは身もふたもない言い方をすれば、外から見ても端的に芸がないです。こういうことを言うと、文学はポジショントークではないんだと怒りだす人がいるので、これ以上言いませんが、まあ、でも、多様性ないですよね? 多様性ありゃいいわけじゃないけどさ。
むしろ、多様性だけは容認する発言をしているのに、自分の文学環境は恐ろしく多様性がないということに気付いていないのか、気付いているけど触れないようにしているのか。

13、最近は、文芸誌も批評の掲載枠を増やしているようです。批評という営為は、小林秀雄以来、作品を評価する自己の基準を見定めるというところにあります。文体(レトリック)に逃げるとそれは批評ではない。しかし、根拠のないところに評価基準を打ち立てるためには一定の文体(レトリック)を必要とせざるをえない。

14、文体(レトリック)を引き延ばせばメディア運営も含んでくるでしょう。小林秀雄がデビューした時代は、テクスト主義・作品主義がすでに確立されていましたが、作家・批評家が自前のメディアを組織したり、文芸同人誌に関与することはまだ当然だった時代です。『文藝春秋』の菊池寛と『文藝時代』の横光利一川端康成の関係を参照してもよいでしょう。テクストとパラテクストは作家や批評家にとってひとつながりにあるものでした。

15、最近文学では、政治的社会的な主題の必要性が強く求められています。しかしそれはテクストだけを見ていても解決しない問題だと思います。