感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

『ユリイカ』に貴志祐介論を寄稿

ユリイカ』に貴志祐介論を寄稿しました(青土社ユリイカ』ページにGO!→http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B5%AE%BB%D6%CD%B4%B2%F0)。

タイトルは、「ジャンル理性批判 ホラー的ハイブリッド小説 『新世界より』 を中心に」です。いうまでもなくカントの理性批判のもじりです。貴志祐介はホラー作品で小説家デビューを果たしますが、ミステリやSFも発表しています。しかもどのジャンルからも高い評価を受けている。その功績を振り返れば、キング・オブ・エンターテインメントといってもいいくらいでしょう。
本稿は、彼のキャリアを軸にしながら、1990年代から2000年以降のジャンル小説の状況を分析したものであり、逆に、その状況の中でどのように彼が各ジャンル小説を書いてきたのかを分析しています。
以前twitterで、ジャンル小説の批評は、SFはSF、ミステリはミステリの中に閉じこもりがちだということを(自戒をこめて)批判したことがありますが、それを開くきっかけになるべく書いたつもりです。
貴志祐介を評価するときは、特定のジャンル小説を評価軸にすることはできません。彼のみならず、そういったジャンル小説の作家が増えたのが2000年以降、ゼロ年代の問題でした。『このミステリーがすごい』や『SFが読みたい』で毎年行われるジャンル小説のランク付けに対して、最近富に批判が多いのも(貴志祐介の『悪の教典』が『このミス 2011』で1位になったのにも批判が多かった)、各ジャンル小説の垣根が溶解し、共通了解の評価基準が相対化されたからでしょう。以下は、twitterで呟いたものです。
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貴志祐介の『悪の教典』は壮大な失敗作だよね。『硝子のハンマー』の時もそういう評があったと思うけど。この作家はSF・ミステリ・ホラーとどんなジャンル小説も書くけど、各ジャンルのルールとリアリティにこだわる人には、アンチ貴志が多いように思う。
物語を語る上で、物語の設定と世界観をゼロベースから緻密かつ冗長に作りこんでいくので、現実味が失われる危険性に常に晒されている。最新作の『ダークゾーン』がいい例。まあSFやホラーだと現実感は二の次だからさして問題にならないんだけど、ミステリとか現実を舞台にしたものだと問題になる。
あと、貴志氏みたいに完全犯罪を壮大かつ緻密に作りこむほど、最後のオチが異様に難しくなるので、オチと過程のバランスが結構重要になる(安吾の『不連続殺人事件』もそうだった)。それが奇跡的にうまくいったのがSFの『新世界より』。他方で『硝子のハンマー』と『悪の教典』は毀誉褒貶が凄い。
いずれにせよ、『悪の教典』で久々にモダンホラーを書いたんだけど、ホラー作家・貴志祐介ゼロ年代モダンホラーの対象をどう造形するかに悩まされた10年だったのではないか。『悪の教典』『ダークゾーン』は彼なりの応答だと思うけど、貴志的世界は健在だが、ホラーとしては不満が残ります。
貴志氏が言う通り、現代はホラーが難しい時代(ロメロのゾンビと限定視点(特にハンディカメラを使った)というベタな演出がとにかく強い)。