感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

村上春樹ブックガイドの寄稿の告知

こんにチは。お久しぶりです。


雑誌『ユリイカ』の臨時増刊号「村上春樹特集」に、「ゼロ年代村上春樹作品ガイド」を寄稿しました。村上春樹の2000年以降、ゼロ年代の作品――小説・エッセイ・インターネット本・インタビュー集など――についてのガイドです。全部で21タイトル。バラつきはあるけれど、1タイトルあたり1000から2000字程度だと思います。
そのうち音楽エッセイが3タイトル出ていますが、これに関しては平山茂樹に担当していただきました。彼は、日本の近現代文学・文化専攻で、現代思想サブカルチャーにも造詣が深い、僕の信頼できる若手研究者の一人です。彼の堅実な批評は、僕のと対照的な面もあり、ガイド全体をリズミカルなものにしてくれました。
とにもかくにも、ここ一ヶ月は村上春樹三昧だったので頭はすっかりハルキ脳と化しています。どこを見ても井戸が潜んでいるように見えますし、いまなら壁抜けもできそうです。とにかく、村上春樹は、こと批評・研究の分野では、否定肯定の評価がはっきり分かれる作家です。今回のガイドにおいては、先行研究の成果を活用しながら、なるべく作品に降りて行きたいという気持ちが強くありました。むろん作品を分析するときはいつもそういう気持ちでいますが、今回は特に。村上春樹の批評の文脈は非常にハイコンテクストな森ですからね。
このブログとお付き合いくださっている方ならご存知かと思いますが、僕の村上春樹評価は、基本的に、柄谷行人の春樹理解を踏まえたものです。それは、「村上春樹の作品は物語の構造のみで作られている」というものです(『終焉をめぐって』を参照してください)。村上春樹の作品は構造のみだという解釈は、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』、それから最近では大塚英志の『物語論で読む村上春樹宮崎駿 構造しかない日本』も前提しているものでした。
また、渡部直己の「春樹の言説=黙説法」(黙説法とは沈黙によって意味ありげな文章に仕立てるレトリックです)という評価も僕にとって影響力のあった春樹理解です(『不敬文学論序説』を参照)。
彼らの成果は今でも有意義なものと思っています。しかし、彼らのいう通り村上春樹の作品が物語を前提としたものであり、それを動かすために様々な方法を研ぎ澄ませてきたのだとすれば(黙説法もその一つでしょう)、それを否定することは、単純な肯定と同様、恣意的・政治的なものだというのも今や明らかです。ということで、僕が今やるべきことは、彼らの成果をいったん技術論ベースに解体し、村上春樹ゼロ年代を語るために改めて組み直すといったことでした。彼らの批評の文脈に乗るのではなく、新しい文脈を作りたいからです。少なくとも今後の村上春樹研究の一つの参照先になれればという思いで編集しました。どうぞよろしく。

このブログ、今年はあまり記事を書けませんでした。『早稲田文学』に鹿島田真希論、『ユリイカ』に冲方丁論と村上春樹ガイドを寄稿し、『PLAYBOX』に逆セカイ系論を寄稿したので、遊んでいたわけではないのですが。今年は、ジャンル小説ラノベから純文学を考える、をテーマにやってきましたが、来年も継続させます。
最近は、とくに美学の問題(趣味の評価)が技術論とコミュニケーション論に還元されつつある傾向について整理をしています。美学を技術の範囲に限定する発想は、カントに典型的な通り、近代に特有なものですが、それに対するロマン主義的な反発もまたおりにふれ起こるし(想像力や身体性こそ美の源泉である!)、むしろこの反発の方こそ美学のメインストリームと捉えられる傾向があります。
いずれにせよ、資本主義がグローバルに浸透した今日においては、技術論的な意味での美学が蔓延し、政治や社会問題を議論する上でも(理念やイデオロギーに頼らず)美学的=技術論的なアプローチは不可避です。単一の価値体系の否定⇒複数の価値・複数の主体をどうやって切り盛りするのかという問題系ですね。その端緒はとりあえず1930年代にあるのだろうし(相対性理論とフォルマリズム)、戦後では1950年代初頭にサイバネティックス構造主義が登場したところから今日に至るといった流れがある。
日本では、1970年代に構造主義の成果が取り込まれる中で、美学的な問題を技術論ベースに還元する作業が盛んに行われました。文学においては、言語の規則性に拘泥する前衛的立場、そして物語の規則性(構造)に表現を集約させる立場がこの時期、大々的に登場します。私小説でさえ、規則性にしたがって作りこまれる時代です(内向の世代)。このあたりの話は春樹ガイドに書いているので端折りますが、前衛にせよ物語にせよ私小説にせよ、従来の文壇的約束事(リアリズム的手法や「政治と文学」という大きなテーマ)に依拠できなくなった1970年代以降の文学は、みずから規則を立てながら作品を作るという二重の作業を強いられるようになったということです。
ちなみに、そのような状況に早くから気付いていたのが、おそらく三島由紀夫であり、大江健三郎です。彼らは、自分の取扱説明書を書いた最初の作家です。架空の作家(デレク・ハートフィールド)を立ち上げ、それを基準にして作品を書くんだと宣言した村上春樹もこの文脈にあります。
この時期に批評をはじめ、影響力を持つにいたる柄谷行人は、構造主義サイバネティックスの成果(形式化の問題)を認めながら、それだけでは不十分とします。たとえばこの時期の大江のことを、自分の作品を構造主義的な物語の枠組みに還元したとして、柄谷は強烈に批判しました。彼の美学観は、規則性には還元できない実存的な手触りを最終的な評価軸にする点においてロマン主義的なものです。
ひっきょう、柄谷行人の批評は、構造主義的な世界観の広がりに対してどのように対応したのか(時期的には『日本近代文学の起源』『隠喩としての建築』『批評とポスト・モダン』)。それを確認することは、美学を技術論に限定する最近の批評の傾向を考える上で意味があると考えています(『日本近代文学の起源』については⇒http://togetter.com/li/54012)。
そしてこの柄谷的美学を逆転させたのが、データベースとレイヤー構造というきわめて技術的な問題設定を批評に導入した東浩紀でした。彼は、規則性には還元できないもの(「郵便」)を認めながら、とくに『動物化するポストモダン』以降それには禁欲的です。彼の批評活動を見ていると、ある意味東浩紀の批評活動そのものが「郵便的」であることを狙っているように見えるのですが、いずれにせよ、柄谷行人が開いたロマン主義的な美学批評を、ゼロ年代において、古典主義・合理主義的な方向に切り替えたのは彼の成果なり影響力によっている、といっていいように思います。
僕の最近の研究も技術論に重きを置いている(解釈学より詩学的アプローチをとる)のですが、それに対してはつねにチェックを働かせていたい。村上春樹が物語に対してそれを怠らないように。