感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

『崖の上のポニョ』補足――宮崎アニメを物語論とは別の水準で、いまこそ語ろう。

承前*1
ただの魚なのに、宗介という人間の男の子に恋をし、人間になろうとするポニョ。とあるきっかけで、彼女は人間にもなれるようになるが、魚のときはとくに愛らしいキャラとして形象されている。つまり彼女は、キャラと人間(キャラクター)の間――半魚人――にあるわけだけれど、それだけではない。
彼女には、幾層にもわたって動くモノ(ムービー/アニメーション)の層があるのである。スクリーンの幾層にもわたって動く、波や魚たちにまみれる層が。
だから彼女は、人間を愛してしまうという過ちを犯した結果、人魚伝説よろしく、人間でも魚キャラでもなく「泡」という単なるモノになってしまう危機を迎えるだろう。
いったんは人間になれたものの、過ちを犯し気泡化する寸前で、魚キャラに戻ってしまうポニョ。宗介もまたそれに抗いながらどうすることもできない。このとき彼が見せた怯えは、彼女が魚になってしまうこと(魚になっちゃいやだ!)にではなく、単に死んでしまう(泡になる)ことに対してであったことは重要だ。それによってポニョは、彼とともに生きるチャンスが与えられたのだから。つまり、魚のポニョも半魚人のポニョも、つまりキャラとしてのポニョも、そして人間のポニョもまるごと認められることで彼女は彼とともに生きることになるのである。
ただし、このとき、あの動くモノは彼女においてどうなったかという問いが残る。彼女が人間として承認され(魔法はもう使えない)、成長した暁にこの層は消え、ゆえにこの物語(ムービー/アニメーション)は終わったと、物語論的にいうこともできる。
しかし、この作品自体が幾層にもわたる波や魚たちの動き、泡の粒立ちによって構成されている以上、この作品の存在がその結論を裏切るだろう。泡は人間としての死だが(あるいはキャラにとっても)、それらを駆動する層ではなかったか?

*1:以下は、『ポニョ』を物語論的に解説(ネタバレ有りだけどネタを知ったらつまんなくなるようなゆるい作品ではありません)し、最終的には別の水準で分析する文章です。宮崎アニメは、その個性的で圧倒的な映像に対してはあまり分析されず(自明だから?)、物語論的な解説が多かったように思いますが、『ポニョ』は宮崎アニメの多様性を再考させてくれる作品ではないでしょうか、ということで以下どうぞ。