感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

年の瀬ホラー談義

ハリウッドのホラー映画は、90年代以降、とくに見るべきタイトルがない。80年代を通して洗練されたスプラッターもの(13金、エルム街、ハロウィンなど)が行き詰った結果であると、とりあえず言えることができるだろう。
むろん、ホラーはスプラッターばかりのものではない。ハリウッドに限ってみても、ユニバーサル系クラシックモンスター以降、ロメロ印のゾンビをはじめ、鬼才トビー・フーパーサム・ライミらが映画史に残るホラーを打ち出してきた。そこには、「ポルターガイスト」、「エクソシスト」、「オーメン」といったオカルト系のタイトルも並ぶ。錚々たる顔ぶれである。エンディングが物議をかもしたデ・パルマ「キャリー」の映像もすばらしい。
70年前後に続出したこれらは、様々な可能性に満ちていたはずだ。それが、80年代にかけて、特殊メイク・特殊効果に資本をつぎ込み、サスペンス(いつ出るか、いつ出るか)とショック効果(いきなり出る!)によってプロットを単純化したスプラッターものに駆逐されていく。パロディに次ぐパロディは、恐さというより笑うほかなかったことさえあった(それを自覚的・自虐的にやってのけたのがサム・ライミブルース・キャンベルの「死霊のはらわた」シリーズ)。
そんなふうに、ハリウッド・ホラー映画史を書くこともできるだろう。そして、90年代以降のホラーは、ハリウッドも認めた通りわれらがJホラーの時代だった、と*1
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ただし、ホラーだけを追っていると、見えなくなるものがある。ならば、どうするか。たとえば、ハリウッドにおいて、ホラーの横にサスペンスを置いてみること。そうすると、見えるものがある。ホラーの対象は、サスペンスに移行したのだと。人知外の対象よりも、人そのものに内在する恐さ・得体の知れなさを追求しはじめたのだと*2
90年に放送がスタートするデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」をはじめ、「羊たちの沈黙」のレクター・シリーズ、いちおう「セブン」、ほかに有象無象の「見立て」「心理分析官」「プロファイル」もの(日本での嚆矢はいうまでもなく黒沢清の「キュア」)。いまやこのジャンルも「CUBE」や「ソウ」に見られるように、ロジックが定式化しはじめた観があるが*3
いずれにせよ、こうしてみると、ホラーからサスペンスへの、恐いものの移動を読み取ることはできる。そしてその移動をリンクするものとしては、恐らく「エクソシスト3」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ、1990)をあげていいかと思う。オカルト系ホラーはサイコパス・サスペンスと文脈を共有してきた経緯があるが、「エクソシスト3」はおそらく90年代に入る過程での、ホラーとサスペンスとのミッシング・リンクになっている*4
そう。こいつはホラーの映画史には残らなかったが、実はどのジャンルにも収まりがたい異形の相貌をしている、映画史のホラーにほかならない。

*1:むろん、上記のような80年代ハリウッドホラー映画暗黒史は、よくきかれる80年代日本映画暗黒史論と同様、一つの評価軸にのっとった切り取り方に過ぎない。80年代から顕著になるハリウッドの大作主義に抵抗せずとも、たとえば、軽んじられてきた角川映画の、「Wの悲劇」(澤井信一郎)「セーラー服と機関銃」(相米慎二)「時をかける少女」(大林宣彦)などをみればいい。

*2:まあ人の恐さというのは、「サイコ」のヒッチコックはじめ、とくに70年代前後からの、好例としてはポランスキー(ハリウッド文脈に乗っけるのは強引だけれど)やデ・パルマなどの作品、クリント・イーストウッド恐怖のメロディ」などなど、とくにアメリカン・ニュー・シネマの文脈とからんで、古くからホラー文脈と隣接しつつ撮られてきた経緯があるのだが。

*3:Jホラーにもいえる。ただし、黒沢清「叫」や、「コワイ女」所収の「カタカタ」(雨宮慶太)など見るべきものはある。ジャンルの新奇なものに挑戦しようとすると、えてして恐さが縮減しがちだが(最近の清水崇に少しそれは感じる)、それをも乗り越えて、非常に恐い近作二編である。

*4:たとえば「エクソシスト3」「ツイン・ピークス」「羊たちの沈黙」の流れを追うこと。