感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

『監督・ばんざい!』と『大日本人』

二人の「たけし」が、どちらが夢か現実か支配権を譲らぬまま反転し続ける。北野武監督の『TAKESHIS’』をみて、デヴィッド・リンチお得意の、現実と夢(幻想)が交錯するドラマ、たとえば『マルホランド・ドライブ』や『ロスト・ハイウェイ』との相同性に思い当たることはたやすい。
しかし、リンチの描く夢と現実は、細部にわたりどんなに奇異な映像を駆使したところで、けっきょく最終的には、現実世界の構造とその構造を支配する超越的な何ものか(当然それは不可視のものだ)に関心が向けられている。
他方、北野武がこだわるのは、あくまでも見えるもの聞こえるものに限られる。だから武が仮構する夢と現実(の反復連鎖)は、まさしく見えるもの聞こえるものの運動(ずれ、反転等々*1)であり、彼が以前から一貫してこだわってきたこの運動をドラマのプロット上に還元した結果、たまたま夢と現実が交錯するドラマが生まれた、ということなのであろう。
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北野武の映画を一言で言えば、見えるもの聞こえるもの、それらの動きそのものに対する単純な喜びに満ちている。一つ一つの動きには、理由など要らない。とにかくあるものが動いていること、それが喜びなのである*2
Dolls』以降、ヨーロッパ市場を意識しすぎといった批判をしばしば受けてきた武だが、そんなことよりも、ほとんど破綻なく綺麗にまとまりすぎる、ここのところの武作品はやはり気になるところだろう。ただし、一つの完成形に達した武ワールドを、最近作の『TAKESHIS’』から『監督・ばんざい!』にかけて、みずから自己言及的に壊しにかかっているようなのだが、けっきょくその壊し方も非常に洗練されていて、観る者は十分満足させられながら、果たしてそれでいいのかという疑問がわかなくもない。
しかし、あの動きに対する喜びを基調にした作品作りは、変わるところがない。だから、上記した近作二編は、自己言及的な構成上メタフィクションの体裁を免れないが、メタフィクション的な作為性をほとんど感じさせない。それは、リンチと比べれば明らかだ*3。構造が複雑になっても、見えるもの聞こえるものに対して絶対的な信頼を置いているからである。
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同じお笑い界出身ゆえ何かと比較されることが多かった、松本人志の『大日本人』と比べても、武のこの見えるもの聞こえるもの(の動き)に対する信頼の置き方は異様である。比較の素材として、武も松本も作品上にふんだんに散りばめるギャグを見てみよう。武の平易かつベタなギャグに比べれば、松本のシュールなギャグの方が、現代日本の笑いの文脈により適応していることは間違いない。
しかし、見ていて実感することは、『大日本人』は映画である必要がないということだ。松本が駆使する数々の不条理なギャグ、それをうまく引き立てるために採用されたドキュメンタリーと特撮の枠組みは、映画という枠組みを必要としない。松本人志が組織する映像はブラウン管でやっていたことをスクリーンにそのまま持ち込んだというものなのだ。
いいかえれば、松本の作品上にある、見えるもの聞こえるものは、あまねくドラマとギャグに奉仕するものでしかない。そしてこの一連のドラマとギャグは、私たちが生きる現代社会の文脈を神経質に意識する過程の中で組織されるものである(それは最後のシーンを見れば、明らかだろう)。
このような文脈を意識した記号操作は、テレビ、そしてもちろんインターネット、ケータイなどより可動性のあるメディアでこそ活きるものだ。松本人志の作品の評価はしないが、映画を作る上で、彼の文脈に対する神経症は良くも悪くも、今後よりいっそう制約になるだろう。
他方、北野武(最近のビートたけしと言ってもいい)のギャグは、メタレベルの観点から構造化されることはない。というか、彼のギャグはボケとツッコミ、笑われるものと笑うものという単純な二元論に基づいており、構造的な深みには決してはまらない。
どう見ても、とうてい文脈を意識しているとは思えない*4、単純明快、じつにわかりやすく、平易である。見えるもの聞こえるもの、それらの動きそのものに対する単純な喜びにのみ準拠したものだからである。
これが映画だ、とは言うまい。しかし、興行収益さえよければ、自分がやりたいことができれば、どのジャンル・メディアでもかまわない、というような作品が多い中*5、映画のことを考える映画を作り続けてきた北野武は、文句なしに映画人である。
最近の彼の作品が過去の自作を自己言及的に引用していることをとってみて、映画のことを考える映画だと言いたいのではない。一編のドラマを作るために、つねに映画を構成する基本から考える姿勢が映画人なのであり、彼にとってその基本とは、見えるもの聞こえるもの、それらの動きそのものに対する単純な喜びなのである。
監督・ばんざい!』の最後で「あれ」をやれるってのは、武ワールドの閉塞感の中にあってもこの喜びにだけは駆動され続けんとする監督に向けての、映画が贈った幸せなプレゼントなのにちがいない。
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追伸
最近気付いたのですが、ある人からポイントをいただきました。ポイントなんて僕とは無縁の存在なので、いただいた日から一月以上経過してようやく気付いたしだい。けれどあなたはすでに(いつものように?)いなくなっていて、感謝の意を表わす場所がないので、この場を借りてありがとうと言わせてください。あなたとはもう何度か会ったことがあるような錯覚さえ覚えるのですが、当然そんなことはなく、しかもあなたはひょっとするとあなた方なのかも知れず、それでもあなたとはいつか会うことがあるような気もしています。そのときはせめてポイントぶんくらいは僕に奢らせてもらって、まあ一杯やりましょう。

*1:TAKESHIS’』でいえば、銃の撃ち合いが星座に変換するシーン、美輪明宏とタップダンス、ラップの競演、岸本加代子京野ことみの影と光の配役など挙げるとキリがない。[以下は、2007年12月24日注記]ところで、武の運動への注視については、阿部嘉昭の指摘が重要だろう。彼いわく、「そんな武の所業は、七〇年代このかたの「引用の喩」を解体する方向へ走っている。主眼は引用という「手つき」ではなく、膨張する「運動」を示すことに置かれている」。「矛盾を許す文法――夢の文法に、初期映画のように則っている」。「意味のない語りは、語ってゆくうちから思考を奪ってゆくだろう。しかしその語りにリズムがあるとしたら? もう一度その時点でリズムの磁力により、思考は再結集されてゆかないだろうか。饒舌が許されるのは、それが音楽に転化したときのみである」(『日本映画が存在する』)等々。

*2:当然、物語(ドラマ)批判という意識も武のこの喜びには希薄だ。物語批判をしたいからではなく、単純に見えるもの聞こえるものの動きに対する喜びに駆動されているのである。だから北野武の魅力を、理不尽な暴力云々で片付けることはできない。それは、これまでのキャリアを見通せば一目瞭然だろう。暴力もギャグも、あの見えるもの聞こえるものの動きが重要なのであり、たとえば北野武座頭市』の、ギャグと暴力がおりなすドラマが最高潮に達したときに、自然とラストの群れ踊るタップシーンに移行するのも、武ならではの必然性を持っている。

*3:リンチの映画は論理を追わなければ面白みが半減するが、武映画の面白みはいちおう筋道だってある論理を追う必要などない。というか論理を無理に追えば、むしろ面白みが半減する。そういう意味でいえば、『TAKESHIS’』の近傍に置かれるべきはおそらく黒沢清の『ドッペルゲンガー』だろう。ここで演じられる役所広司の二重体も、「たけし」の二重体と同様、決して構造的な深みを持たない。黒沢映画も、複雑な論理を駆使する側面があるが、見えるもの聞こえるもの(の動き)に対する喜びを最終的に手放さないところに、彼ならではの面白みがある。

*4:文脈を意識するというのは、ボケ役がツッコミ役に、ツッコミ役がボケ役に、ちょっとしたはずみで転じることの可能性を自覚することである。たとえば松本人志がボケをするとき、そこには「これはボケです」「わかっててボケてます」という含意・配慮がつねに付きまとう。武のボケはあからさまであり、とくに最近では、ヨーロッパ/ハリウッド映画史上を意識したギャグを、恥じらいもなくやってのける。ときに都合よくグローバルな自己意識を前面に出すかと思えば(「GLORY TO THE FILMMAKER!」)、ジャパネスク・オリエンタリズムで特殊性を見せたりする。文脈なんてなんのその、やりたい放題。良くも悪くも、北野武の強みではあろう。

*5:端的に、小説やマンガが頻繁に映画化される現状を見ればいい。