感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

現代批評の一分

araig:net氏が、現代における批評はいかにあるべきか、ということを書いている。サプリメント的に作品が生産・消費される世の中にあって、批評は可能なのか? 可能なら、どのように作品と接するべきか? というようなことだ。そのへんのことに関心のある人は、参考になるしいろいろ考えるヒントを与えてくれるので、リンクを貼らせていただきました。http://d.hatena.ne.jp/araignet/20061023/1161538490それに触発され、僕も少しコメントを書いたところです。(06.10.24)

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以下は、10月25日に追加。
上記コメントにも書かせてもらったけれど、それにつけても、文学のファンダメンタルな要素ってなんなのかわからない。エロやホラーや萌えや笑いや泣きものは、そのテーマとなる感情動員に忠実になればいいわけだし、サスペンスやSFやミステリやファンタジーは、そのジャンルのルールに乗ればいい。それらは時代ごとに変化するものなのだから、それにうまくマッチするなり、あるいは自ら先陣を切ってルール違反をしたり、既成の感情動員の仕方を裏切ったりして画期的な作品になることもできる。でも、文学は、そういう、忠実になれる感情なりルールなりがないように見える。
新城カズマは、ライトノベルは、あらゆるジャンルを取り込む「ゼロジャンル」だと言ったけれど(「ライトノベル「超」入門」)、しかし、とりあえず乗れるファンダメンタルな枠組みはある。萌え要素を組み合わせたキャラクター設定と、それに合わせた奇抜な世界設定がそれだ。そのジャンル内で、その枠組みをどれほど裏切ったりしても、枠組みの輪郭がいっきに変わるということはないし、そもそも裏切るものへの信頼がなければできないことである。ただ、ジャンルの個性を決める枠組みがあるということは、プラスの面もあれば、そうとも言えない面もある。谷川流いとうのいぢの「涼宮ハルヒ」シリーズだとか、竜騎士07の「ひぐらしのなく頃に」とかをみると、世界設定にしろ萌え要素(属性)にしろ、それらの任意の組み合わせを自覚的に遊んでいるメタレベルの視線がある。むろんこのような事態は、あらゆる要素なり方法なりが出揃い成熟したジャンルには付き物ではあるけれど、次の一手を打ち出すのは厳しい。新城カズマラノベを「ゼロジャンル」と言わざるをえなかったのも、この成熟した現状をさしてのことだろう。とはいえ、成熟というのは、一つの視線を通してそういえるだけのことであって、枠組みが限定されていても、もっといろんな視線(ジャンルとか方法とか)を介在したときには未熟・未舗装に見えたりするもので、一概には言えない。
文学はといえば*1、頼れるファンダメンタルな枠組みがないだけに、これまで様々な要素を取り入れてきた。SFやミステリやラノベも部分的に取り込んできた。作家ごと取り込む場合もある。萌えはもちろんのこと、最近では、流行に乗じて「泣きもの」ともリンクしている。とりあえず手っ取り早く泣けるもの、感動できるものを活字化した文学作品。これを、大塚英志は「サプリメント文学」と呼んでいる(「物語消滅論」とか「更新期の文学」を参照)。そのような、サプリメントに文学が消費される現状に対して――これまでの僕の話に準拠して言い換えれば、サプリメントなツボなどそもそも存在しない文学に「涙あり」とか「ビタミン入り」とかいう販促の帯なりお手製ポップを貼り付けて売り出され、それを真に受けて消費する現状に対して――、いかに抵抗するのかという問題を提起したのが、araig:net氏だった。
大塚英志は、サプリメント化する状況に対して、それは長い目で見れば不可避的ではあるが、いまは誰しも準備が整っていないのでとりあえず「近代文学」を再考するべきではないか、というような結論だった。サプリメントというのは、効能がありさえすればいいんだから、究極的には作家性をも否定するものであるわけで、だからこそ今売れている「泣きもの」は、作家性を保証する文体とか内容の構成より、ポップとか帯とか、本屋やネットでの露出具合とかいった外的な指標が重要なのだけれど*2、これまでになくネットを中心に「私」語りの欲求をいや増す現状の私たちに、いきなりサプリメント化の流れに乗れといっても無理な話で、とりあえず、作家性とともに「私」語りの歴史をはぐくんできた「近代文学」を再考しながらその「私」を脱臼なり消化させていこうじゃないか、という話なんだろう。
この話は、araig:net氏の議論とは直接関係ないけれど、とにかく大塚氏にとっては、文学のファンダメンタルな要素は、「私」(語り)にあるということを示している。それに準拠するにせよ、否定するにせよ、確かに日本文学において「私」の磁場は大きいように見える。大塚氏によれば、言語システムの構築とともに「私」という内面を育んできた近代文学にとっては、「私」という問題は切っても切れない関係にあるということなのだが、むしろ、頼れそうないかなる枠組みもなかったから、「私」をファンダメンタルな要素として取り込んだといえなくもない。
しかし、大塚氏が言うように、いまやこの「私」はネットに表現活動の場所を見出し拡散しているのだし、自分の表現だか共有すべき表現だかわからないものを著作権を盾に自分のものだと言い張るマンガ家がいるように、作家性に裏付けられた「私」語りを表現活動の軸にすえるケースは、なにも文学に限らない。
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araig:net氏の議論は、手っ取り早い効能を期待するサプリメントが横行する現状に対して、まずは、総合薬を対置する。というか、「サプリメントのふりをした総合薬」を流通させる、という戦術を紹介する。例として挙げているのは、黒澤清のホラーに見せかけてホラーじゃない映画とか、ラノベとミステリと純文学の境界で作られる舞城王太郎の小説とか。
サプリメント的な効能を期待してそれらを消費する人たちは、その意図せざる「闇討ち」的な効能に出会い、最初はたじろぐにしても、サプリメント的な効能を期待する磁場から自分を相対化するチャンスが得られるんじゃないか、ということだ。つまり総合薬というのは、自分の拠って立つ枠組みを相対化し、作品の効能に疑いを持たせる批評のことだといっていい。
総合薬の効能は特許によって守られたものであり、その権利期間が切れるとジェネリック薬としてコピーも許されるわけだけれど、サプリメントのようにどこのメーカーからも出せて、薬のみならず様々な食品にも混入されるという融通無碍さと比べたら、確かに、固有の作家性に裏付けられたものだという言い方は許されるように思う。思い起こせば、黒澤や舞城は、「サプリメント」的にもそこそこ楽しめはするもののとりわけその「総合薬」的な批評によって、個々の作品以上に作家性が注目されてきたわけだし、逆に、「いま、会いに」や「セカチュウ」といった、その作品の内容はどうあれサプリメント的に消費された作品は、作家以上にその効能で知れ渡ったのだった。
だからこそ「総合薬」の方に軍配を上げるのかというとそうではない。araig:net氏は、「総合薬」の「闇討ち」的な批評を評価しながらも、いまやそれでは不十分ではないか、と議論を進める。総合的知見から「闇討ち」をしかけても、それについてくるのはもはや一部であり、拒絶反応を起こされるのがオチ、たとえ「サプリメントのふり」をしても、ネットなどを通してすぐにばれてしまい、事前に閉め出されることになるという。確かに、舞城が、ミステリの文脈から出てきたときの反応はそういう感じだったし、黒澤だって、本人はそう思っていても、受け手にホラーとして認識されているのかというと、怪しい。けっきょく、「総合薬」を楽しむ嗜好も、総合というのは名ばかりできわめてローカルな効き目しかないのではないか、ということなのである。そこで、氏が提示する戦術が「サプリメントのふりをしたスーパーサプリメント」ということになる。

そんな「総合薬」は、広い世界のごく一部に過ぎないし、こんな風に考えると、僕は僕でどこか狭い世界に閉じ籠ってるんじゃないか、って気にもなったりする。/二村監督のAVの話に戻ると、僕はエロを求めて手を出して、そしてものすごくエロかった、ということで、そこになんのギャップも闇撃ちもない。あれはサプリメントのふりをしたスーパーサプリメントだった。/(中略)それは結局、最初に異和感というものが無く、単にすごく満足してしまったからだ。満足したんだから、それについて考えてみたり、言葉を繰り出したりする必要がない。だから批評は成立せずサプリメントはだめなんだ……という話では全然無くて、そんな時に敢えて言葉を発する人、スーパーであることを批評してくれる人こそ、僕はすごいと思う。サプリメントが実は総合薬に気付くことは誰でもできるけど、スーパーであることを冷静に把握するのは難しいし、それを言葉にするのはもっと難しい。雨宮さんの批評は正にそれだったから僕は衝撃を受けたのだ。

この議論に対しては何か言いたいことがあるのだが、いまはうまく言葉にできない。araig:netに書いた僕のコメントは筋違いのものになってしまったような気がして氏には申し訳ないのだけれど、要するに、文学のサプリメントなりファンダメンタルなものっていったいなんだろうという思いがあった*3
それに関して面白かったのが、氏が「スーパー」な例として引用するAV批評の雨宮まみ氏が、エロはエロでも突き抜けるなり際立ったエロには作家性がある、と言っているところで*4、こうなってくると、もちろんこれは単純な(エロの)「サプリメント」であるはずないのだけれど、単純な「作家性」でもなく、正直ますますわからなくなってくるとともに、得体の知れない効能を期待してしまう自分もいるのだった。
とにもかくにも、スーパーサプリメントないしサプリメントと作家性、私、批評という問題、それから文学におけるファンダメンタルなもの、サプリメント、感情という問題を考えなければならなくなった。とりわけ後者は、「感情レヴュー」を打ち立てたときに、曖昧にしてやり過ごしてきた問題でもある*5

*1:って、とりあえず純文学のことですね。作家によって、ラノベや大衆文学の一部ともリンクする場合があるわけだけど。

*2:この路線とは正反対の青木淳悟の「四十日と四十夜のメルヘン」の、誰もが「意外」だといった売れ行きも、その実数はわからないけれど、「大作家」の賛辞を並べた帯の影響力はけっこうあったと思う。

*3:『けっきょく、効能で満足できる消費の仕方と、その効能の原因を知って満足する消費の仕方と、二つあるということではないでしょうか。だから、スーパーサプリメントも、分解する以上は、総合薬に転じてしまう、というのかな。/僕のスタンスは基本的にエンターテイメントと批評(サプリメントと総合薬)は矛盾しない、というところにあるんですね。それで、たびたび学生に教える機会があるのですが、ある作品の効能の原因(泣けるとか、恐いとか、笑えるとか、萌えとか)をいちいち分解して説明するとですね、この説明の方に満足する学生と、そもそもの作品の効能がより強化されるっていう学生がいるんです。学生個人と話す機会があったり、試験で書いてくるものを見るとよくわかります。僕の説明、つまり批評の手つきに感動してくれる子と、僕の説明を聞いてもう一回読み(見)直してみたら、もっと感動できた(その説明のおかげで感動できた)、って言ってくれる子と、ですね。/けっきょく何を言いたいかというと、だから、まあ批評は、作り手にとっても当の批評家にとってもまだまだ意義のある営為だろうと(笑)。ただ、貴方のおっしゃる通り、意外性のある「闇討ち」的な視点を出すという意味での分析的な批評は、いまは苦しいと思う。「サプリメントが実は総合薬」というやつですね。僕もホラーについて書いたときに、意外性のある様々な企みはジャンルを豊穣にするけれど、細らせることにもなるわけで、けっきょくホラーはホラーを、サプリメントに、というかファンダメンタルに追及する視線が伴わなければならない、という結論に達しました。他ジャンルもおおいに参考にするけれど、それは結局自分のジャンルのファンダメンタルな要求に奉仕するものでなければならない、という意味で総合的な批評が求められてるんじゃないか、というようなことです。それが結果的に、「サプリメントを消費する人」にも「総合薬を消費する人」にも受け入れられる窓口をもたらすんじゃないかという、ちょっと都合のいい話ではあるけれど。/で、批評をこのようにまとめたときに、僕にとって問題になるのは、いわゆる「純文学」という批評の対象でして、つまりこいつのファンダメンタルなもの(サプリメントなツボ)っていったいなんなのか、ということなのです。「純文学」を批評として消費するのは容易なんだけれど、サプリメントに消費するのはむずかしい。っていうか、俺はサプリメントに消費されるような大衆文学とはわけが違うんだ、といってきた歴史が「純文学」にはあるわけですよね。/それから、そういう歴史が長らくあって、ここ20年くらい前から「純文学」はむしろ大衆文学的な要素をどんどん取り入れてきたわけだけど(高橋源一郎から舞城王太郎まで。理念としてはそれこそ小林秀雄のころからあるようですが)、それは当然サプリメント的効能を期待してというよりも批評的スタンスを確保するためであって、しかし、そういう分析的な批評は苦しいという時代が、いまややってきてしまった。だからといって、批評を放棄してよしってものでもなさそうではある。文学のエンターテイメント化(石川忠司)とか、このへんでぐちゃぐちゃやってる作家は確かに面白そうなんですけどね。ここ最近の阿部和重とか。/以上のことは、他ジャンルに比べて「純文学」こそ、カント的な趣味判断の命題(目的なき合目的性)に純化したジャンルだ、というようなことを言いたいわけではなく、文学においてエンターテイメントとは、「スーパーサプリ」とはなんぞや、ということを考えたときにいつも出てきてしまう問題だと思うし、他のジャンルにもいえることだとは思う。/と…、以上の話は批評として実に無難な話で、僕はあくまでもサプリと総合薬をいかに調合するかという発想から抜け出せないのだけれど、「スーパーサプリメント」という発想はとても気に入りました。危険な魅薬という感じで。』(2006/10/24 14:16)このコメントを見ればわかる通り、良くも悪くも、僕は既成の批評の圏内に踏みとどまろうと必死だ。

*4:「優秀なズリネタは別に語るべきものではないんじゃないか、という意見もあるでしょうが、そういう風にも思いません。優秀なズリネタを撮る監督には、面白いものを撮る監督とは違った意味での「作家性」があります。職人的な技術と言っていいかもしれませんが、エロというのは単純でありながらややこしい部分があって、単にセックス撮ってりゃエロいかというと、確かにセックス撮ってるだけでもなんとかオナニーできることはできるんですけど、やっぱりエロさの度合いというのがあるんです。ちょっと、観てるだけで息が苦しくなってくるほどエロい映像ともなれば、それは作家性だと言っていいと思う。何もわかりやすく個性的なもの、目立つものだけが「作家性」ではないと思います。作家の署名はなくても、個人のカラーは消されていても、エロが際立っていればそれはある意味で作家性があると言えるのではないでしょうか。」(「雨宮まみの「弟よ!」」06−10−19)

*5:もちろん、最終的に文学を特別視するつもりはない。文学でいえることは他のジャンルでもいえるし、他のジャンルでいえたことは文学にもいえるはずだという信念が僕にはある。手続きの仕方と程度の多寡が違うだけだ、くらいに思っている。