感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

安吾戦争小説論(1)

 2005年、今年はかの坂口安吾師匠の死後50周年記念なのですよ。安吾と言えば、「堕落論」とか「日本文化私観」とか、歯切れよくずばずば物事を裁断していく語り口が魅力なエッセイがとりわけ言及されるものだけれど、50周年を記念して彼の小説たちについていま少し再考してみようかと。しかも戦後60年ということもあって、戦争にまつわる小説たちについて少し。
 安吾には、抽象的な男女のカップルがわけもなく取っ組み合う一連の小説群があって、戦後のわずか数年間に書き溜められているそれらを、ぼくは安吾の戦争小説として一くくりにしているのだけれど、それは例えば「白痴」「外套と青空」「戦争と一人の女」「続戦争と一人の女」「私は海を抱きしめてゐたい」「櫻の森の満開の下」「青鬼の褌を洗う女」「夜長姫と耳男」などのことです。
 これらの作品から、一人の作家が小説においてどのように戦争を消化していったのかをここで少し考えてみようと思うわけです。今日は、「戦争と一人の女」とその続編をまじえて。

1.二つの版

 坂口安吾には、戦後まもない期間に相次いで書かれた一連のシリーズ、戦争を背景にし戦争をテーマにした小説群がある。私は、ここでそれらを各々分析しようと思う*1。まずは「戦争と一人の女」(46年10月)。
 出版時から、GHQ主導の検閲を派手に受けたこの作品は、長らくその被害を被ったまま衆目にさらされていたのであるが、最近、無傷のフルバージョンがようやく出版されることになった。ここでは追々腑に落ちるだろう理由により、後者を使用する。
 いずれにせよ、戦後出版された当時からよく知られたこの作品には、検閲を受けた欲求不満からだろうか、それより他の何か欠落を見出したからだろうか、「姉妹作」として「続戦争と一人の女」(46年11月)がある。「続」はよく知られていないか、かりに読んだとしても、私たちの記憶のなかで二作をいっしょくたにしているというのがほとんどだろう。
 主要な作中人物はいずれも男(野村)と女のペアであり、安吾の戦争小説にはくり返し登場する構成である。前者はもっぱら男に転移し、焦点化した語りによって物語を展開する。後者の「続」は、女が語りをつとめる一人称の語りによって物語を展開する。以下は前者を男のバージョンとし、後者を女のバージョンとする。時期はともに戦争中から終戦間際にかけてであり、語られる内容もほぼ同じ場面を指し示しながら、語る視点は逆、しかも逆から相照らしあうというわけだ。

野村は戦争中一人の女と住んでゐた。夫婦と同じ関係にあつたけれども女房ではない。なぜなら、始めからその約束で、どうせ戦争が負けに終つて全てが滅茶々々になるだらう。敗戦の滅茶々々が二人自体のつながりの姿で、家庭的な愛情などといふものは二人ながら持つてゐなかつた。(「戦争と一人の女」709、以下全集16巻頁を記す)

 戦争中、男と女は、ひとつ屋根の下に同棲していた。この証言は、二人ともに一致しているが、二人が「つながり」を始めた理由と、たがいに何かしら齟齬を感じながらも「つながり」を続ける理由は微妙に異なる。ふたり一緒になったことは変わらない事実なのだが、その事実をめぐって各自の理由(価値)付けが異なるのである。
 女はこう証言している。かつて娼婦や酒場のマダムをしていた彼女は、戦争下にあって「徴用だの何だのとうるさくなつて名目的に結婚する必要があつたので、独り者で、のんきで、物にこだはらない野村と同棲することにした」(「続戦争と一人の女」238、以下全集第4巻頁を記す)。
 確かに以前から野村という男を好きではあった彼女は、同棲するうちにだんだんと恋するようにもなっていた。だから、「野村さへその気なら生涯野村の女房でゐたいと思うふやうになつてゐた」(239)のだが、しかし男にしてみれば、戦争が日本を「滅茶々々」にし、どうせ負けるのだから、男は殺されてしまうか奴隷にされる運命を見越して、この女と付き合い始めたのだと言う。すなわち女との「つながり」は、戦争が続く期間、「戦争といふ否応のない期間」(248)に限定される。
 その理由は女も当初から聞かされたことであり、それは女のバージョンにおいて彼女の証言から確認できる。だから女は男の意にしたがうように「せめて戦争のあひだ、野村の良い女房でゐてやりたいと思つてゐた」(239、傍点引用者)のである。

 このように女は男にさしたる不満はないようだが、男のバージョンでは、女への不満や疑心に満ち溢れているのも、注意すべき相違点であろう。女との「つながり」を戦争の期間に、軽い気持ちで限定したのは自分なのに、逆にそれに拘束され、女の責任にさえする男は、次第に彼女の肉体に魅了されだすと、戦争が否応なしに強いた始まりと終わりの限定なのだから仕方がないのだと自らが自らを納得させながら、しかし戦争のせいとはいえ自らが引いたこの限定をこえて彼女との「つながり」を継続することを、ゆえに戦争の継続を、狂わんばかりに欲望する。そもそも男は、限定を欲しながら嫌悪する者として男のバージョンにしばしば表現されているわけだが、それもしょせん限定が自分の思うようにならないからなのである。
 だから女との性交もままならない。というのも、男と交わる際に女には快感が訪れず、「最後の満足」(709)が欠けていることが男にとって第一の「不満足」(709)であるのだから、この男は女との交わりに当たって、自ら確認できる限り明確な最初とほどよく「男を迷はす」(710)最後がなければ決して勃たない、すなわち自らの満足が充たされない男なのである。そんな自己の不能(による不満足)を女の責任にしているのだが、彼女に対するさらなる不満は、「快感がないくせに男から男と関係したがる」(710)その「貞操観念」のなさである。
 むしろ快感がないからこそ、一人の男に限定することができないとも言えようが、要はこれも限定にこだわる男の、限定しては逃れていく女に対する「不満足」にほかならない。「どうせ戦争で滅茶々々になるだらうから、ぢや今から滅茶々々になつて戦争の滅茶々々に連絡することにしようか、と笑つて」(709)、戦争の「滅茶々々」と、それに無邪気に連絡したかのような女との交接の「滅茶々々」を受け入れてみせる男の「滅茶々々」は、しょせん自分が満足を得るための「滅茶々々」なのであり、女が体現する「滅茶々々」を限定付ける擬似的な「滅茶々々」なのである。
 だから、終戦を告知する「ラヂオ」(718)の玉音放送も、それを聴き取れるのが男だけであるのは、彼が言う「戦争の滅茶々々」とは戦争そのものなのではなく、けっきょく戦争のもたらした結果を示しているにすぎないということなのだろう。玉音放送を代弁して男は「戦争が終つたんだぜ」と女に告げる*2
 他方、その男に対し、「さういふ意味なの?」と「ラヂオ」が聴き取れず、理解をしようとしない(718)女は、男女のバージョンともに周知の通り戦争が大好きで、継続中の戦争、わけても夜の空襲体験に魅了されており(239‐)、彼女にとっての「戦争の滅茶々々」さとはだから、結果も成果も関係なく、始まりにも終わりにも徹底して無縁である。
 女のバージョンでは、物語の冒頭から、二人の親父、通称カマキリとデブと一緒に、戦争中「サイレンの合間々々に集つてバクチをしてゐた」(236)場面を置いていた。さらにカマキリに猥画を見せられたり、カマキリに誘われて被災地へ死体を見に行ったり、彼ら親父の老いながらも戦争下にあって衰えず生と性とに執着をいだく肉慾的というほかない、彼女との「滅茶々々」な関係を長々と描写する。
 ようやく三頁目*3に入って野村との関係に話が移っていくのだが(後もおりにふれカマキリとの挿話が出て来る)、それまでカマキリやデブと遊んでいる間も野村が存在するはずなのに、そこ(の描写中)に彼の名が出るのはたった一度きりで、男のバージョンでは一緒に乗っていたはずの自転車遊びのシーンも女一人、そして二人が同棲していただろう男の所有する家は、彼の家でも私達の家でもなくただ「私の家」(237)と断言されもするのだから、親父らと遊ぶ彼女にとって男の存在はないも同然である。
 男のバージョンでは「女の淫蕩の血が空襲警報にまぎれてゐた」(723)とあり、それはどういうことかというと、女の節操のない性交は色や光が戯れる空襲のスペクタクルによって満足(=限定)しているようなので、少なくとも空襲の合間は彼女は自分のもとにとどまってくれていることに男は安心することができたという意味の証言なのであるが、しかし女のバージョンで「私達はサイレンの合間々々に集つてバクチをしてゐた」との証言があり、しかもその描写が性的隠喩に富んでいるのを見れば――「カマキリは負けて亢奮してくると、私を姐さんとよんで、厭らしい目付をした。時々よだれが垂れさうな露骨な顔付をした。カマキリは極度に吝嗇であつた。負けた金を払ふとき札をとりだして一枚一枚皺をのばして手放しかねてゐるのであつた。唾をつけて汚いぢやないの、はやくお出しなさい、と言ふと泣きさうなクシャクシャな顔をする」(236)――、サイレンが鳴ると安心することができた野村は、それがやんだ「合間」、「合間」になされる「バクチ」の集会は不安で仕方なかっただろうと察することができる。
 というのも、男のバージョンにあっては、カマキリとデブは一度たりと登場せず、冒頭から女と野村との関係で始まり、それに終始しているからである。くり返せば、女のバージョンはカマキリらとの交際から始まっているわけで、ゆえに野村がその始まりから(終わりまで)徹底して彼らを抹殺したところの不安をあずかり知ることができるのである。
 のちに男は、「君と僕との始まりが軽率で、良くなかつた」、「僕たちは夫婦にならうとしてゐなかつた。それが二人の心の型をきめてゐるのではないか」(722)と彼女に解消しえぬ不満をぶつけているけれど、この「始まり」とは、彼らの関係の「始まり」であると見なすだけでは恐らく不十分だ。かくも二人の証言がその冒頭から齟齬を来しているところを考慮するなら、ここでいう「始まり」とは、そもそも男と女の証言=バージョン(つまり二つの「戦争と一人の女」!)の「始まり」を指し示すものでもあり、以上に見た両バージョンの「始まり」が示す齟齬が「二人の心の型」、それらがおりなす二人の関係を正確にかたどっており、また「きめてゐるのではないか」という男の不安としてもここは読めるわけだ。
 サイレン(空襲警報)の合間に男の不安を読み取ることができたのも、前述した通り、二人のバージョン=証言における齟齬が決定的な要因であった。性に抑圧(=限定)的な男の不安は、二つの証言をつきあわせることによって、つまり、彼のバージョンに安堵とともに短く記された「女の淫蕩の血が空襲警報にまぎれてゐた」という証言を、女のバージョンにある「サイレンの合間々々」の性的な証言とつきあわせることによって、浮かび上がるものだった。それこそサイレン(空襲警報)の合間々々から、二人のバージョンの合間々々から。

 ここまでの作業は、女のバージョンに比して男に欠損や限定を見出すものであった。そうであれば、男のバージョンに比して女の証言には過剰を、女の価値付けとして見出さねばならない。ただしその作業は、私たちにいくつか困惑を誘うものになるだろう。戦争と女の「滅茶々々」を受け入れているように見せながら、不安の余り限定を各所でしかけた男に対する困惑と同じように。
 女は、自分のバージョンにおいて、「野村は私が一人の男に満足できない女で、男から男へ転々する女だと思つてゐるのだけれども、遊ぶことと愛すこととは違ふのだ」(239)と言っている。こう言う女は、野村に「精神的なもの」を付加し、カマキリやデブを「肉慾のみ」執着する者と位置付け、自分も後者の方に近付けながら、野村と「精神的な」関係を築くことができるとしている。だから彼女のバージョンは、野村との関係だけに限定せず、カマキリらとの肉慾的な関係をも描出することができるのだろう。
 しかしカマキリらと余りにも親近性があるゆえ、かえって憎悪しもする女は、憎しみに突き動かされるままカマキリを苛め抜き、殺してやろうとさえ思うと告白するのを読むとき、彼女の過剰な「精神的なもの」に困惑するほかないのである。「彼等の執着はもはや肉慾のみであるから、憎しみによつて執着は変らず、むしろかきたてられる場合の方が多いのだ」(238)と言ってカマキリに対して憎しみの数々を披露する彼女は、「男から男へ転々する」肉慾を体現する者ではなく、カマキリに自分への執着(限定!)をかきたてるようつとめ、ゆえに自分こそカマキリに執着していることを暗に告げている。自分と同族の「彼等は恋などといふ甘い考へは持つてゐない。打算と、そして肉体の取引を考へてゐる」と彼女は言うが、「肉慾のみ」の打算と取引がむしろ思うようにならない彼らの関係を見るとき、男のバージョンで野村が様々な執着(=限定)に自家撞着する「恋」と、彼らの打算と取引がどれほど違っているのか、怪しくなるだろう。けっきょく、野村との関係だけに限定せずになされる女の証言もまた、その無限定ゆえに、何か知れぬ不安の現れが感じ取れると言わねばならない。
 また、女の不感症に不満を抱き、不感症によって自分(=男)ひとりに満足しない女に不安を抱く男は、自分のバージョンにおいて、不感症ゆえに男に対し罪悪感を抱き、何度も謝罪する女を描いているが(「私のからだ、どうして、だめなのでせう」、「私、あなたにすまないのよ」等々)、女のバージョンはそういった場面は一切出てこないし、そもそも自分が不感症であることを告げる証言じたい存在しない。彼女の口から聴けるのは、だから、「男から男へ転々する」節操のなさだけであり、快感だの最後の満足がないわけではなく、それらの否定性によって引け目を感じたことさえない。気が引けるとすれば、「男から男へ転々する」ことを野村が気にしているからであって、それが理由で別れたって仕方がないと、あっけらかんとしてなんの執着も見せない女なのである。彼女は証言する、「私は淫奔だから、浮気をせずにゐられない女であつた。私みたいな女は肉体の貞操などは考へてゐない。私の身体は私のオモチャで、私は私のオモチャで生涯遊ばずにゐられない女であつた」(239)。
 こうしてみると、男の不満が不当なまでに過剰なのは明らかであり、女の節操のなさに対する不安や、自分の何事にも限定しなければ満足しない不満やらを隠蔽するために責任転嫁する弁明の羅列ではないかと疑われる。しかし、女の不感症にたえず不満足を表明し、それについて涙を流して男に謝罪したり一転して男に恨み言をぶつけたりする女を描写する男のバージョンの側に立てば、不感症について意にせず一切口にしない女のバージョンに、ある欠落を見出し、彼女の不安を感じてしまうことも事実である。抑圧したいほど不感症に対する不安があったのかもしれない。次から次へとキリなく男を乗り換える貞操観念のなさに対する不安があったのかもしれない…。

――
 とにもかくにも、二人の証言がおりなす物語は進行し、満足と安心を得られないまま男は女に魅了されていく。というのも、男は、彼女に対する疑心に揺られながらも、なんの感動もない女の肢体を「オモチャ」のように動かしてはもてあそぶうちに「その不具な女体が不具ながら一つの魅力になりだしてゐる」という証言が男のバージョンにはあるのだ。「野村は女の肢体を様々に動かしてむさぼることに憑かれはじめてゐたのである」(716)と。 
 そもそも、「戦争により全てが破壊されるといふハッキリした限界があるので、愛着にもその限定が内々働き」(716)、その限定内で女と関係しているまでで、もしも「戦争の破壊を受けずに生き残ることができれば、もつと完全な女を探すまでだ。この不具な女体に逃げられるぐらゐ平気ぢやないかと思ふ」(716)精神的な余裕が彼にはあるのに、女体に対し不具ながら、不具であるがゆえに、次第に魅了されていく男なのである。
 この女体を「オモチャ」のようにもてあそぶうちに、ふいに見せる彼女のあらゆる感覚や情感を突き抜けた「無表情の白々とした女の顔」(717)を「忘れかね」て、「その顔に対する愛着は、女の不具な感覚自体を愛することを意味してゐ」ることを覚る男。このときの男が欲望して思う「戦争がいつまでも続いてくれ」という台詞にある「戦争」の「滅茶々々」さは、ひょっとするとあの女のような、始まりにも終わりにも無縁なものを蔵しているのではないだろうか?

彼は女を突き放したり、ころがしたり、抱きすくめたりした。女は抵抗しなかつた。呻き、疲れ、もだえ、然し、むしろ満足してゐる様子でもあつた。けれでも女の快感はやつぱりなかつた。そして情慾の果に、野村を見やる女の目には憎しみがあつた。そして情慾とは無関係な何かを思ふ由々しい無表情があつた。/野村はその無表情の白々とした女の顔を変に心に絡みつくやうに考へふけるやうになつた。一言にして言へば、その顔が忘れかねた。その顔に対する愛着は、女の不具な感覚自体を愛することを意味してゐた。(717)

 このときの男は、「女の可愛いい肢体から、ふいに戦争を考へ」(724)ている。「戦争なんてオモチャぢやないか」。それまで自分の不満や不安を投射していた彼女の「白々とした」肉体と表情に、あらためて満足するべく見直したのは「完全な女」の側面ではなく、むしろその「不具ながら」満足すること。それゆえに終わりのない交わりによって自分の満足をそのつど確認すること。
 そもそも、「妙に食慾をそそる肉体(中略)だから、女がもし正規の愛情のよろこびを感じるなら、多くの男が迷つた筈だが、一人も深入りした男がない」(710)と指摘する男なのだから、「男を迷はす最後のものが欠けてゐた」女の不具こそ「男から男と関係」する要因であることを知らないはずはない。それなのに、それに気付こうとしない野村は、「女は快感がないくせに男から男と関係したがる」(強調引用者)と言うだけで、肉体の「不具」と「淫奔」な関係を因果関係(ゆえに)で結び付けることをしないのだが、しかし暗に気付いているのか、それともまったく気付いていないからなのか、彼だけは他の男とは別に、「不具ながら」女の肉体に「深入りした」男なのである。
 思えば、彼女が「遊び」とは別に野村を「好き」になる理由も、虚しい自分の体をたとえ「オモチャ」のようにされてでも彼と交わり続けることによって、自分の満足を確認することにあった。「野村は私のからだだけを愛してゐた。私はそれでよかつた」(241)、そんな「私の心は火の広さよりも荒涼として虚しかつたが、私のいのちが、いつぱいつまつてゐるやうな気がした。もつと強くよ、もつと、もつと、もつと強く抱きしめて、私は叫んだ。野村は私のからだを愛した。鼻も、口も、目も、耳も、頬も、喉も。変なふうに可愛がりすぎて、私を笑はせたり、怒らせたり、悩ましたりしたが、私は満足であつた。彼が私のからだに夢中になり喜ぶことをたしかめるのは私のよろこびでもあつた。私は何も考へてゐなかつた」(243)、「そして私は、ともかく野村が私のからだに酔ひ、愛し溺れることに満足した」(243)。だから「私は一人であつた」が、「ただ野村だけ、私と一しよにゐて欲しかつた」(241)。
 いずれにせよ二人とも、自分を確かめたいために、相手と交わっているようである。しかしこの関係は、「精神的」な男が「肉体的」な女によって自己を確認し、「肉体的」な女が「精神的」な男によって自己を確認するという、限定的な図式ではない。以下、少しずつ核心に迫ろう。

――
 男と女のバージョンは同じ時期を描写し、類似した場面を相互にかかえていると前に指摘したが、とりわけそれが顕著な挿話がある。その挿話は両バージョンにおいてまったく同じ場面、同じ状況を、双方逆側から照らし出されたものである。それは二人の同棲する街が、二人の家に迫りくるほどの「火の海」に見まわれたときの話。
 女はその日まで、そしてその後日も変わらず「火の海」に我もろとも包み込まれることを願っていた。そして夜の空襲にあって上から下から飛行機や爆弾、照空燈が放つ光や色のまうスペクタクルにうっとりし、「みんな燃えてくれ」(240)と願わずにいられなかった。
 そう願っていた矢先のこと、「いつもはよその街の火の海の上を通つてゐた鈍い銀色の飛行機が、その夜は光芒の矢のまんなかに浮き上つて私達の頭上を傾いたり、ゆれたり、駆けぬけて行き、私達の四方がだんだん火の海になり、やがて空が赤い煙にかくされて見えなくなり、音々々、爆弾の落下音、爆発音、高射砲、そして四方に火のはぜる音が近づき、がうがういふ唸りが起つてきた」(241)のである。
 それまで夜の暗闇を背景にした空襲の何より視覚的な効果に酔い痴れていた女は、次第に近付いて来る空襲を音としてばかり捉えるほかない状況にさしせまられる、この時、野村の方から「僕たちも逃げよう」(241、=「僕らも逃げるとするかね」712)と女に訴えかけるところから、この挿話のクライマックスが始まる。
 野村の訴えに対し、当然女は躊躇うだろう、「ええ、でも」(712、=「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」241)と。ここにとどまっていさえすれば、火の海に包まれる願望がようやく叶うのである。おそらく野村も女にそれを読み取ったのだろう、男のバージョンでは男の「逃げるとするかね」から、女の「ええ、でも」までの会話には地の文を介すことなく直接連絡している。女の躊躇いはすでにおり込み済みだというわけだ。戦争をこよなく愛する女が、戦争から逃げるのを躊躇うのもじゅうぶん理解できる。
 しかし女のバージョンでは、男の「僕たちも逃げよう」から女の「もうすこし、待ちませうよ」までに数行にわたる女の心内描写が蟠るように挟み入れられている。二人の周りは、被災から非難する人々の行列が群れをなして流れているのが見えるのだが、それを見た女は「その知らない別な人たちの無礼な無遠慮な盲目的な流れの中に、今日といふ今日だけは死んでもはいつてやらないのだと不意に思」(241)うのである。
 そしてこう思うのだ、「私は一人であつた。ただ野村だけ、私と一しよにゐて欲しかつた」と。ただ我が身を生かすためにのみ戦火から逃げる「無礼な無遠慮な」、そしてそれがゆえに「盲目的な流れ」から離脱し、火の海にとどまる女はここであらためて「ひとりであつた」ことを確認する。しかしそれは同時に、ただ「一しょにゐて欲し」い野村を確認することでもある。

町も野も木も空も、そして鳥も燃えて空に焼け、水も燃え、海も燃え、私は胸がつまり、泣き迸しらうとして思はず手に顔を掩ふほどになるのであつた。/私は憎しみも燃えてくれればよいと思つた。私は火をみつめ、人を憎んでゐることに気付くと、せつなかつた。そして私は野村に愛されてゐることを無理にたしかめたくなるのであつた。野村は私のからだだけを愛してゐた。わたしはそれでよかつた。私は愛されてゐるのだ。そして私は野村の激しい愛撫の中で、色々の悲しいことを考へてゐた。野村の愛撫が衰へると、私は叫んだ。もつとよ、もつと、もつとよ。そして私はわけの分らぬ私ひとりを抱きしめて泣きたいやうな気持であつた。(240-1)

 そして女は「何かに耳を傾け」ながら、「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」と逃げようとする男に躊躇いを示し、死を覚悟した待機への同意を求める。このとき「さつきから何かに耳を傾けていた」女は、「何を捉へることもできな」いでいるが、ここで男(のバージョン)は「女の顔には考へ迷ふ翳があつた」(712)と、女から何かを捉えるのであり、続いてさらに、「消せるだけ、消してちやうだい。あなた、死ぬの、こはい?」(712)と言う女の声を男は捉えるのである。
 ここで注意すべきは、女のバージョンにおける女の躊躇いの言は、「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」とあって、躊躇いの部分と、続く「あなた、死ぬの、こはい?」の部分が一つのカギ括弧にまとめられていることであり、逆に男のバージョンでは二つの部分が切り分けられ、その間に地の文が挿入されていることである。「「ええ、でも」/女の顔には考へ迷ふ翳があつた。/「消せるだけ、消してちやうだい。あなた、死ぬの、こはい?」」と。ここはこう考え解釈する必要=余地がある。「さつきから何かに耳を傾け」ながら、「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」と声をかける最中にある女の顔に、男は「考へ迷ふ翳」を「捉へる」のである。
 この後、男と女は交互に会話を交わすが(女のバージョン「「死ぬのは厭だね。さつきから、爆弾がガラガラ落ちてくるたびに、心臓がとまりさうだね」/「私もさう。私は、もつと、ひどいのよ。でもよ、私、人と一しよに逃げたくないのよ」」、=男のバージョン「「死にたくないよ。例のガラガラ落ちてくるとき、心臓がとまりさうだね」/「私もさうなのよ。でも、あなた」」)、そこは両バージョンともに踵を合わせており、とくに注意すべきところはない。そしてこの会話の後、男(のバージョン)はあらためて「女の顔に必死のものが流れた」(712)のを確認する。それを裏付けるように女(のバージョン)は、「思ひがけない決意がわいてきた」とあり、ここでようやく女は自分が「何を捉え」たかったのかを、我が意に決して知るのである。

それは一途な、なつかしさであつた。自分がいとしかつた。可愛かつた。泣きたかつた。人が死に、人々の家が亡びても、私たちだけが生き、そして家も焼いてはいけないのだと思つた。最後の最後の時までこの家をまもつて、私はそしてそのほかの何ごとも考へられなくなつてゐた。/「火を消してちやうだい」と私は野村に縋るやうに叫んだ。「このおうちを焼かないでちやうだい。このあなたのおうち、私のうちよ。このうちを焼きたくないのよ」(241-2)

 男のバージョンでのこの部分は、「私、このうち家を焼きたくないのよ。このあなたのお家、私の家なのよ。この家を焼かないでちやうだい。私、焼けるまで、逃げないわ」(712)と記されており、女の証言を裏付けているが、よく注意しよう。女(のバージョン)においてはこの後、「信じ難い驚きの色が野村の顔にあらはれ、感動といとしさで一ぱいになつた」とあって、とうとつな女の生きることへの翻意に対し野村が只々驚いたかのように描写されているが――それは確かに嘘ではないだろう、しかし…――、女に「思ひがけない決意」を促したのは、他の誰でもなく、それはまた女自身でさえなく、野村であったことに注意しよう。おそらくそれは当の野村さえまともに気が付いていない促しである。なにしろその促しは、女の証言として男の(バージョン=証言の)もとにいわば先行的な予言のように留めているものなのだから。
 再度確認すれば、女が捉えようとした何かを、先に捉えることができたのは男であった。それはまず、「女の顔」のもとにあった「考へ迷ふ翳」として漠然と捉えられたわけだが、さらにより明確な形で「消せるだけ、消してちやうだい」という女の言として捉えられていたはずである。注意しよう、女が逃げるのを躊躇う「ええ、でも」と、死を促す「あなた、死ぬの、こはい?」との合間を。そしてここにおいて、女の躊躇いに続く死への促しは、死一色に染められたものではなくなるだろう。それは、生きることを望むために覚悟される死の色に彩られた促しである。誤りかも知れぬが、男はそのように読み取ったのだ。
 くり返せば、女のバージョンではこの合間は、何をも捉ええない「無表情の白々とした」空白で埋められていた。「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」、と。さらに付け加えるなら、「思ひがけない決意」がわくにいたるまで、「劫火の海につつまれる火を(中略)内心待ち構えてゐた」彼女(のバージョン)は、生きねばならぬこと、二人の関係を生かしてくれる「おうち」を焼いてはならぬこと、「おうち」を包み込もうとする火の海は消さねばならぬことを、口にしてはいない。だから女がいくら「耳を傾けてゐた」ところで何をも捉えることはなかったのだ。このときまだ女は火の海に包まれ、死の海に向かっている。戦火の「音々々」に包まれ「何を捉へることもできな」いでいる。それを、女の「白々とした」顔に「考へ迷ふ翳」として、そして女の述言としてしっかりと捉え、投げ返していたのが男(のバージョン)であったのである。
 もしも女の言を聴き違えることなく、男(のバージョン)が自分の言として、「盲目的な流れ」となんら変わるところなく生き残りたいのを一心に自分の言として「消せるだけ、消して」と言っていれば、そう記しているならば、女は「思ひがけない決意」をしなかったにちがいない。
 ひたすら生に向かう「盲目的な流れ」からの離脱を男に促した女は、あらためて男から生に向かう流れに乗ることを促される。それは私が生きるためにあなたを死なせないことであり、何よりあなたもまたあなたが生きるために私を死なせないと思っているのだから、私はあなたの顔にそれを「翳」として読み取り、そう思っているあなたの言葉を聴くのである。
 こうして生への「盲目的な流れ」からひとたび堕ちるだけ堕ちた二人の生への執着、そのエゴイズムは、「盲目的な流れ」のそれとは徹して別である。彼らの生と死をめぐる駆け引きは、二つのバージョン(証言)を組み合わさなければ、たんに「無礼な無遠慮な盲目的な」エゴイズムに流されかねず、逆に言えば、組み合わせたときにこそもろくも崩れ去るエゴイズムなのだから。しかしその崩れ堕ちる地点こそ生への「思ひがけない決意がわいてきた」、いわばエゴイズムを生み出す戦場であることにも思い至らねばならない。それはここにおいて交接した二人のエゴイズムが、相容れない別々のものであることを示す地点でもある。
 たとえば「火を消してちやうだい」と、今度は女が自分の言葉として、「あなたのおうち」を「私のうち」として男に生きることを命じるとき、女のエゴが男のエゴを支配しようとしていることが知られる。それは男のバージョンでも同意していることである。このとき、「肉体」に対して「精神的な」側にいるのはどちらだろうか? 
 男のバージョンではこの後すぐさま、焼夷弾の「ガラガラ音がする」のを聴き取るや、「女は野村の腕をひつぱつて防空壕の中へもぐつた」(712)とある。しかし女のバージョンではこうなっている。「私はもう野村にからだをまかせておけばよかつた。私の心も、私のからだも、私の全部をうつとりと野村にやればよかつた」(242)と。
 どちらが後先なのか、それとも同じ事象をめぐる解釈の相違なのか。とにもかくにも女の方が男をして自覚的に――そう、先に促したのは男の方であっても、あのときそれを彼が自覚していたとは思えないから、ここではじめて自覚的に――火に立ち向かわしめ、生きるべく消させる意向に向かわせていることは確かである。男(のバージョン)の方では、「抱きしめた女の心臓」が「恐怖のために大きな動悸を打つてゐ」るのを耳にして「なんといふ可愛い、正直な女だらう」と感じ入り、火に立ち向かう「意外な勇気がわきでたことに気がついた」(713)と証言するのだし、女(のバージョン)の方では、「火の色にほの白く見える」(242)自分の肌を「手放しかねて愛撫を重ねる」野村を促すべく「思ひきつて、蓋をするやうに着物をかぶせて肌を隠した」と証言するのである。すると男は、自分の身体を死に賭して火に立ち向かう。
 以上の展開を図式的に、命じる女と命じられる男だとすれば、前者が「精神的」なのかもしれないが、ここの男のバージョンを読む限り、男は命じられることを女に促し(命じ)ているようでもあり、ならば後者が「精神的」とも言える。確かに、女は男を命じるために肉体を露出し(たり閉じたりし)ているのであり、男はその肉体に命じられているのであれば、「肉体的」なのは女の方である。とはいえ、その命令によって男は全身を露出して火の海に立ち向かうのだから、男の方こそ「肉体的」だと言わねばならない…。
 どうしたって無理である。そもそも二人の「結びつき」を限定的に定着することなど、無理なのだ。男の証言(722)の通り「君と僕との結びつき」はその「始まり」から「軽率で、良くなかつたのだ」から。
 しかしその「始まり」の「軽率」さは、女の「過去」に原因があるのではない。男は、「私の過去を軽蔑してゐる」と言う女の指摘に対して、二人の関係が「良く」ならないのは「結びつきの始まり」が「軽率で、良くなかつた」からであり、「君の過去を軽蔑して」いるわけではないと弁明する。しかし女には「あからさまには言へないが」、「女の過去の淫奔無頼な生活ぶりが頭の芯にからみついてゐる」男は、二人の関係が「良く」ならないのはその実「毒の血の自然がさせる振舞で、理知などの抑へる手段となり得ぬものだと見てゐる」(722)のである。
 男のバージョンは、女に「あなたは私を汚いものと決めてゐます。私の過去を軽蔑してゐるのです」と言わせ、その「過去」を、娼婦時代の「淫奔無頼な生活」に、さらには持って生まれたものとして「毒の血の自然」にまでさかのぼって接続している。
 他方、女のバージョンでもおりにふれ「過去」が振り返られる。しかし、女の過去は確かに「滅茶々々」なものだが、男の言う「滅茶々々」さとは違う。彼女は、「私はむかし女郎であつた。格子にぶらさがつて、ちよつと、ちよつと、ねえ、お兄さん、と、よんでゐた女である。私はある男に落籍[ひか]されて妾になり酒場のマダムになつたが、私は淫蕩で、殆どあらゆる常連と関係した」(238)と過去を振り返って、確かに男と口裏を合わせているかに見えるが、彼女の「過去」は淫蕩な生活環境とか「毒の血の自然」にあるのではない。「過去」とは「関係」するところにのみあり、それが「自然」であると女は言っているのだ。
 火の海に包まれることを夢想しながら、たとえば彼女はこう言っている。「そこには郷愁があつた。父や母に捨てられてぜげん女衒につれられて出た東北の町、小さな山にとりかこまれ、その山々にまだ雪のあつた汚らしいハゲチョロのふるさとの景色が劫火の奥にいつも燃えつづけてゐるやうな気がした。みんな燃えてくれ、私はいつも心に叫んだ」(240)。
 彼女は、「ふるさとの景色」を、「劫火の奥」に見出している。それは「父や母」とともに生きたところではなく、「父や母に捨てられて女衒につれられて出た」ところであり、「ある男に落籍され」たところであり、「野村もその中の一人であつた」あらゆる常連と「関係した」ところであり、ひっきょうそのところとは「関係」すること、すなわち「結びつき」であり、「つながり」にほかならない。そしてここが劫火の発火点なのであれば、劫火が劫火を燃やし切ることなど不可能である以上、この地点を消し去ることもできはしない。
 もちろん二人の「軽率」さは、「淫蕩」な「結びつき」に甘んじて「夫婦にならうとしてゐなかつた」こと、夫と婦の役割を定着させなかったこと、精神的なものと肉体的なものとを男女に振り分けることをしなかったことにあるのでもない。そんなことに一々「軽率」さを感じ、「夫婦にならうとして」いれば「良く」なっていたなどと思うから、男はその「軽率」さの原因を「過去」や「自然」に求めてひとり安心しようとするのである。これが「結びつき」の始まりと終わりを限定付けねば燃えない思考であることは言うまでもない。
 確認してきた通り、男はのちに女の「滅茶々々」な「結びつき」に魅了されてこの限定する思考を自ら裏切ることになる。他方、「結びつき」ばかりに取り憑かれて火の海に包み込まれてしまえば願ったり叶ったりだとする女もまた、自己を限定すること(生きること)を強いられ、自らを裏切ることになったのである。「軽率」を嫌った男も、「軽率」に過ぎた女も、二人を結びつける宿命、「戦争といふ宿命」(246)の軽率さを軽んじていたと言わねばならない。
 しかし、あのときは違った。戦火の海にとどまったあのときの二人の底知れぬ軽率さを、ここで再び想起しよう。まずは女のバージョンから、続いて男のバージョンを引用する。

私たち二人のまはりをとつぷりつつんだ火の海は、今までに見たどの火よりも切なさと激しさにいつぱいだつた。私はとめどなく涙が流れた。涙のために息がつまり、私はむせび、それがきれぎれの私の嬉しさの叫びであつた。/私の肌が火の色にほの白く見える明るさになつてゐた。野村はその肌を手放しかねて愛撫を重ねるのであつたが、思ひきつて、蓋をするやうに着物をかぶせて肌を隠した。彼は立ち上つてバケツを握つて走つて行つた。私もバケツを握つた。そしてそれからは夢中であつた。(中略)火が隣家へ移るまでが苦難の時で、殆ど夢中で水を運び水をかけてゐたのだ。(242)

諸方の水槽に水をみたし、家の四方に水をかけた。女もそれに手伝つた。二人はすでに水だらけだつた。火はすでに近づいてゐる。前後左右全部である。大きすぎる火であつたが、いよいよ隣家へ燃えうつると、案外小さな、隣家だけのものであり、火の海の全部を怖れる必要がないといふ確信がわいた。/野村はそれほど活躍したといふ自覚をもたないうちに、燐火の火勢は衰へ、そして二人の家は焼け残つた。一町四方ほどを残して火の海であるが、その火の海はもはや近づいてこなかつた。(中略)「疲れたね」/女はかすかに首を動かすだけだつた。疲労困憊の中では、せつかくの感動も一向に力がこもらない。けれども、ふと、涙が流れさうな気持になつた。それで、ふと、女の顔を見たい気持になつたのだが、のぞきこむやうに女の顔を見ると、/「あなた」/女は口を動かした。死んだやうに疲れてゐた。野村もいつしよに土肌にねて、女に口づけをすると、/「もつと、抱いて。あなた。もつと、強く。もつと、もつとよ」(713)

 彼らは終始まだ見ぬ「敵」の存在を意識している。「それが二人の心の型[バージョン]をきめてゐるのではないか」(722、[ルビ]引用者)とさえ思われるのであるが、それはどういうことか。
 近いうちに「敵に上陸され」(715)ると考え、日本の男はその大半が殺されるか、「幸運に生き残つても比島とかどこかへ連れて行かれて一生奴隷の暮しでもすることになるのだらう」、逆に大半が生き残る女は、強姦されたり一緒になったりしていずれ日本は「アイノコ」だらけになるのだろうと男は頑なに信じ、女もまたそれに憐れみながらも共感している。「だから、戦後の設計などは何もない。その日、その日があるだけだ」と悲観的な男は、自分をおいて生き残るだろう女を羨んで、「冷やかす」(715)。「英語でも今から覚えて酒場でもやつて大いに可愛がつて貰ふことだな」と。
 そんな会話を追々交わしながら、しかし彼らの「空想」(715)がすべて考え違いだったかのように、戦争は終わる。「私は戦争がすんだとき、こんな風な終り方を考へてゐなかつたので、約束が違つたやうに戸惑ひした」(248)。生き残ってしまった男もそうである。
 だがしかし、「空想」し続けた「敵」との「約束」は違えど、それは「二人の心の型をきめて」いたのである。それを変えようにも、いまさら変えることなどできようか。始まりも終わりも裏切られたことに途方にくれる彼らであるが、その約束違反が各々の「心の型」を決めていたことにこそ、戦争の終わったいま、二人は途方にくれるのである。
 「二人の心の型をきめ」た決定的な事件はと言えば言うまでもなく火の海に包まれた一件にあったが、それは「敵」が「敵」として――というのはすなわち、誰よりも彼らから遠くにいて、彼らの生を「オモチャ」のように翻弄し裏切る悪意を持ちながら、誰よりも彼らを魅了してその生き型を決める親密な「敵」として――最も彼らに近付いたときでもある。
 「二人の心の型をきめ」たこの一件を解くカギが「敵」の側からも見出せる所以である。あのとき、男と女が生死を挟んで敵対しつつ交接しあったまさにあのとき、かかる水平に展開する敵対と交接を、夜の空襲によっていわば垂直に変換して、もう一方からかけられたカギを見出せる所以である。
 したがって「二人の心の型」を解き明かすためには、二人のバージョンに限定せず、彼らの「敵」にも目を見張る必要がある。そのためには、どうすればよいか。「戦争と一人の女」を、なかでも例の一件を、「敵」の側から読むのである。こてんぱんに敗れた日本の彼らが、空想し望みもした全焼を寸前で免れ、生きることに自らを向け返した理由は、「敵」が使用する「英語」をもって篩にかけてみれば、理解できるのである。日本語で記された二つの「戦争と一人の女」を、英語バージョンとして思い思いに解錠すること。

 戦争下の二人は、火の海に抱き締められながら、寸前で生き残った。その場面として、先ほど二人のバージョンから長々引用した証言が挙げられる。この箇所だけではなく、二つの「戦争と一人の女」には火と水、それに涙が随所に書き込まれており、それらが個々に特異点をなして「結びつき」、ひとつのメッセージを作り出している様を読むことができるよう、交互に組み合わさりながら二人の証言は促し続けている。ここに「英語」をかけながら、再度引用を確認しよう。
 魅惑された戦争の火(war)のなかに包み込まれる女は寸前で涙(tear)を流し、火の海を引き裂く(tear)ように、そうして男を自分から引き裂いて水(water)を二人で撒き散らしている、そんな様が見えて来ないだろうか。涙が水を喚起するのではない。warがtearを呼び出したから、waterが喚起されたのだ。そして消し終えた後には、男の方から涙が流れる。こうして涙は二人の間をさ迷う。
 男のバージョンのラスト、戦争が終わってもなお戦争の話を続けて女を傷付ける男に、ようやく泣きやんだ女は「もう、戦争の話はやしませうよ」(724)と言う。そう言って仰向けに寝転んだ女の「水々しい小さな身体」から男は「ふいに戦争を考へた」。

戦争なんて、オモチャぢやないか、と考へた。俺ばかりぢやないんだ、どの人間だつて、戦争をオモチャにしてゐたのさ、と考へた。その考へは変に真実がこもつて感じられた。/もつと戦争をしやぶつてやればよかつたな。もつとへとへとになるまで戦争にからみついてやればよかつたな。血へどを吐いて、くたばつてもよかつたんだ。もつと、しやぶつて、からみついて――すると、もう、戦争は、可愛いい小さな肢体になつてゐた。/戦争は終ったのか、と、野村は女の肢体をむさぼり眺めながら、ますますつめたく冴えわたるやうに考へつづけた。(724)

 けっきょくは、カギの解錠に私たちはすんでのところで失敗したのである。しかし、それがゆえに、warにtearをかけ合わせて、たとえwaterが喚起されようとも、残ったarが火種のようにくすぶり漂っていることを忘れることはできない。warにはwaterの萌芽が欠落として、waterにはwarの萌芽が余剰として蟠っていることを、tearを介したときに喚起されることを忘れることはできない。水をも焼き切ってしまわんとする火も、火を消し切ってしまわんとする水も、私とあなたを包み込んでしまうその寸前の合間に、ふと流れる涙――「考へ迷ふ翳」…――に引き裂かれる、そんなときがあったことを、私たちは忘れることができない。
 男の「戦争の話」を涙でもって押しとどめ、口を閉ざした男の目に水々しく映じる女の「白々とした」肢体が新たに戦争を喚起してしまうのは、この後ただちに「続戦争と一人の女」が新たな「戦争の話」として書き継がれてしまうのを眺めるとき、躊躇いをともないながらもおのずと理解されるだろう。戦争は終わったのか? 何をもって終わりとすればよいのか? 今はただ、「白々とした」肢体を向こうにじっと男は闇に立ち留まり、耳を傾けるほかないのである。
(続く)

*1:これもまた戦争小説と見なしうる「櫻の森の満開の下」は、「安吾戦争/後小説論」なるタイトルのもと、すでに別の場所で発表済みであるので、ここでは省く

*2:戦争の最初と最後を告げる「ラヂオ」の向こう側から聴こえる声に男が「つながり」うるのは、男のバージョンが一人称ではなく、作中を三人称で語る非人称の語りを持つことと関係しているだろう。むろん非人称の声に保証された彼は、自ら一人称で語ることもできる。「続戦争と一人の女」の後さらに書き継がれる「私は海を抱きしめてゐたい」(47年1月)は、野村と目される男――安吾はどんな作品でも男なるものを書きたいのであって、野村はその具象化された一人にすぎないのかもしれない男――が女との関係をもう一度、今度は自ら一人称によって語り直す、男の新バージョンである。こうして男は、女のバージョンを先後で挟撃するわけだが、それはここではさしたる問題ではない。この新バージョンで男は女の証言を学習し、旧バージョンでもその傾向があった女の「滅茶々々」さを積極的に摂り入れている。「あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつた」(「私は海を−」、全集第4巻328)男は、あらゆる物がキリのないものだということを体現してしまった女の肉体をも考慮するのである。しかしそのように考慮し、自分にも女の肉体的な面が供わっていることを覚りはする彼であるが、それが「どういふ意味だらう?」と問わずにいられない。彼にとってそれはとうてい理解できないし、意味として理解しようとすること自体が彼の限界でもあるだろう。だがしかし彼自身がこの限界をよく理解している。「私自身の精神が、女の肉体に相応して、不具であり、畸形であり病気ではないかと思つた。私は然し(中略)物その物が物その物であるやうな、動物的な真実の世界を信ずることができないのである」と。くり返せば、男が女のバージョンを先後で挟撃すること自体はここではさしたる問題ではない。いずれ彼もまた女のバージョンによって挟撃されることになるのだろうから。したがって問題なのは、非人称を媒介(「ラヂオ」)にして「つながり」うる一人称(戦争を布告する男と聴き取る男の「つながり」)から、女が、自主的にか強いられてか離脱している有様である。そしてその問題に関連するかもしれない新バージョンでの問題は、女の「滅茶々々」さを積極的に肯定すればするほど「肉体が透明にな」る女を「滅茶々々」なままに押しとどめ、女を必要としなくても「孤独」にやっていけるとする男の一人称語りの逆説的な、非人称的全能ぶりである。

*3:全集版。