感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

最近僕が継続的に試みている、単線的な見取り図から文学を論じること、歴史的な視点から個々の作家なり作品を論じることがほとんどバカげたことじゃないかと思い知らされる映画二作

ずぼらと金欠が結果してDVD鑑賞になってしまったが(443分にも及ぶ!ドキュメンタリー映画『AA』は運良く映画館で観れたけど)、青山真治監督の『サッドヴァケイション』が格好よすぎてしようがない。
そういえば、このブログの第一回目のときに、青山氏の映画は良くも悪くも「一言多い」と述べたのだったが(たとえば『ユリイカ』なら、役所広司宮崎将を乗せてちゃりんこをぐるぐる回し乗りするシーンの饒舌さ)、やはり今作もラストで、作品全体を総括するような「一言」を中村嘉葎雄にちゃっかり語らせてしまうところは、この作家の、理論先行になりがちな資質を感じさせる部分ではある。ああもったいない。画だけで十分じゃないかと。
でも、中村嘉葎雄がここでぽつりと語るのはあの斉藤陽一郎に向けてであったことは重要で、つまり青山作品には欠かせない常連俳優の斉藤陽一郎にこの作品の総括が語られるということは、このシーンが物語を俯瞰するメタレベルにあることを示しているということだ(このときBGMも、緊張感あふれる物語の展開とは離れて滑稽なものになる)。どういうことか。
斉藤陽一郎は、主役級を張るわけではないものの、青山作品にはつねに狂言回しのような配役をまかされており(一人標準語で北九州の方言を口にせず、北九州の柄の悪さにしばしば愚痴をこぼしたりする)、ポジション的には物語からややはずれながらかき回し、線条の展開にアクセントを置き複雑にしたり、冷めた批評的視点を加えたりする存在で、今作もいかんなくそれを発揮してみせる彼に向けて語られる「一言」は、いつものように「多い」とは感じさせず、この作品のまとめとして自然に観れたわけだ。むろんその「一言」は青山氏の「北九州サーガ」(『Helpless』『ユリイカ』)のとりあえずのまとめでもあったろう。
サーガ化よる、時間の経過と厚みも、この作品の制約としては感じられず、物語を作りこむための、より自由度のあるものにしているように感じた。フラッシュバックによる時間の多重化しかり。それに、馴染みのあるキャラクターであるがゆえに、キャラクターを軸に悲劇要素(逸脱しながらくり返すファミリーロマンスなど)なり喜劇要素(斉藤と光石研のデコボコ・コンビなど)を配分しやすくなっているのも、サーガ化ゆえの特典のはずだ。荒めの画質、手ぶれのカメラワークと、頻繁にモンタージュ的なカット割りが施される画面は、一連のサーガに立ち会い続け記憶が堆積した僕たちの視線の隠喩でもある。
風景も変化した。僻地の『Helpless』、モノクロで覆われた道路を循環し続ける『ユリイカ』はいずれも箱庭の内側のような印象を与えたが(『ユリイカ』のラストはもちろんそこから一歩踏み出すことの希望であり宣言だったわけだが)、ついにそこから抜け出た今作は北九州の乾いた「全貌」がうかがえる。歴史の厚みと地理上の広さを抱えた、サーガの遺産。
ラストのお茶の濁し方も、最近の青山真治には恒例の手法の一つとなった観があるが、物語の展開にとってなんだか急な印象があって、僕にとってはきわめて恣意的で観念的に映ったものだが(たとえば『レイクサイドマーダーケース』のあのラスト!)、今回のは物語とのつきがよく(シャボン玉の伏線など)、物語の展開から、サーガの歴史から、北九州のなんやかやから、斉藤陽一郎的なメタレベルのポジションから、多くて重たい「一言」から、なにからなにまで一切合財(いろんなしがらみは)「はい、これまでよ」的に清算してみせる潔さが感じられて清々しく、笑えた。これは、最後に健次(浅野忠信)が母(が担う得体の知れない歴史の繋がり)を前にしてつぶやく「もうどうでもいい」の暗さ重さと一対の関係にあるだろう。
以前にこの小説版を読んだときも、処女作『ユリイカ』などとは違って青山氏固有の文体と物語構成を掴んだなあと感じたものだけれど、あらためて映画化になると知ったときは、この作品のシンボリックな存在である、健次の母役はけっこう負担が大きいだろうなあなどと思ったりしたものだが、石田えりのしたたかな凄みには一々圧倒されてしまった。男たちの感傷的な言葉遊びに動じない母。やっぱり画は画なりに凄いものを撮ってしまうんだと。意外にこじんまりまとまった印象を一見受けるが、言葉と画が効果的に配分された快作だった。
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転校生 さよなら あなた 特別版 [DVD]

転校生 さよなら あなた 特別版 [DVD]

大林宣彦監督『転校生―さよなら あなた―』(2007)。最近僕が継続的に試みている、単線的な見取り図から文学を論じること、歴史的な視点から個々の作家なり作品を論じることがほとんどバカげたことだじゃないかと思い知らされる。
大林自身による『転校生』(1982)のリニューアル版だが*1尾道三部作・新三部作の計6作の端緒を飾った『転校生』のリニューアル版は、監督の希望によって尾道が避けられ、長野の門前街で撮られた。ロケの一つの中心となった善光寺周辺は後背に山地がひかえている土地柄、傾斜地・坂道によって構成された尾道に重なる部分が多い。
僕はこのあたりに長く住んでいたことがあり、何度も歩き倒し、自転車で走り回ったところだから、学校―善光寺―市民病院とつらなる場面がどこで撮られたかが事細かにほとんど分かる。
しかしそれほど知っている場所なのに、ここはこういう角度から撮ればこんなふうに見えてしまうのか、ここにはこんな抜け道があるのかという驚きの連続だった。まるで子供が市街化する馴染みの土地に、大人の知らない抜け道や遊び場を目敏く見つけ出すような発見の連続に、大林の映画は僕を誘うのである。
僕はちょうどこの物語の主人公である一夫と一美くらいの思春期迫る年頃に長野に転校し(一夫もまた尾道から長野に転校してくるが、僕も潮風吹く瀬戸内海の小都市から同じ路線でこの山間部に転校してきたので、そんなところから共感する部分もあった)、大人に成長する過程(中学高校時代)の長野しか体験したことがないので(つまり子供の時期に長野を体験しきっていない)、この驚きの発見を長野においては見出していなくて、長野にはとりたてていい思い出がないのはそんな理由があるのかなあなどと思った。子供の頃から長野を遊びなれた一美のようなパートナーがいてくれてたらね。
まあ映画を通してこのような体験をすることは、日常の風景を映像メディアかなんかであらためて見ることのリアルとかなんとか、今風な言い方もできなくはない。
そもそも、本作での画面の切り取り方が、たえず斜角を入れて縦長に伸ばした風景のシーンが続くので、これが子供が見るいささか奇妙な夢物語の世界であることは全編を通して指示されているといっていい。大林ワールド全開。
実際ここで大林監督は、尾道シリーズのインデックスを幾シーンにも散りばめており、大林ファンにとっては泣き所満載なのだが、とくにシリーズ最終作となった『あの、夏の日〜とんでろ じいちゃん〜』(1999)の色が濃く、先生役の石田ひかり(『ふたり』(1991)以来常連)にくわえ、主人公のじいちゃん(小林桂樹)と孫のカップリングが実にニクい演出で登場したりする。
しかしむろん長野は尾道の代わりにはならない。物語設定は同級生の男女の身体が入れ替わるという点で同じだが、尾道『転校生』は思春期特有のアイデンティティー・クラッシュがテーマになっていた*2。そこには、思春期を終えれば大人の退屈な日常(自己同一性を確保した上で社会的なロールプレイをこなし、キャラを振りまく日々)に移行せざるをえないという郷愁がたえずつきまとうだろう。しかし善光寺『転校生』では、アイデンティティー・クラッシュが自明な(家族崩壊にも性的身体転換にもそれほど驚かずそれなりに安定している)なかで、アイデンティティーならぬ生きる座標軸なり方向性を新たに調達することを模索している。
このテーマを顕在化させるために、大林監督は、ここで死を導入する。男女入れ替わった身体のどちらかが死に至る病におかされたらどうするか、ということだ。他人の身体を引き受けて死ぬこと。他人の身体を引き受けて生きながらえること。男女の入れ替わりはこのテーマの前座にすぎない。すなわち生死の入れ替わりだ。
自分のクラッシュはやりすごせても、他人のクラッシュを自分のものとして巻き込まれた場合、あなたはどうするか。その答えが、二人の関係性において両義的に響く「さよなら あなた」(この「あなた」は入れ替わった二人においては「わたし」に向けられた呼称でもある)であり、尾道『転校生』の、自分に向けたメッセージ「さよなら わたし」(男女ともに過去の「わたし」を振り切って大人の「わたし」になる)とは決定的に異なる点だ。
もし、死ぬべき他人の身体を負わされた側が健康な元の身体を取り戻しえたとしても、自分が別の世界(死への道)を生きてしまったかもしれない境遇にあったことを、消せないしこりとして想起せざるをえない。何故自分がそうならなかったのか、そうしなかったのかという思いとともに。
結末部には、どちらかが尾道にあらためて行く決意をすることになるのだが、大林監督において長野と尾道の関係はまさにこの生死を挟んだ一夫と一美の関係に重なるのである。さらに重ねて言うなら、作品に何度かその旨のメッセージが挿入されている通り、この作品が大林監督によってこれから生まれてくる子供たちに向けられていることも重要だろう*3
むろん、大林尾道シリーズにあっても、死の審級は不可欠な要素として取り入れられていた。主人公の子供たちが大人になる通過点として生きる思春期は異世界に隣接し、肉薄する時間として描かれていたわけだが、その異世界はもっとも死と親和性が高かったはずである(『時をかける少女』の未来人、『さびしんぼう』の母幽霊、『ふたり』の姉幽霊、『あした』の幽霊船とその乗客たち、『あの、夏の日』の死につつあるじいちゃん)。
しかし、その臨死体験は子供の成長過程において不可避なものとして訪れ、子供にとって疑われるべきものではなかったし、ゆえにそれは惜しまれつつ失われていくものだった。
他方、善光寺『転校生』の死は、自分の身に偶発的に降りかかったものでありながら、「あなた」を巻き込む形で「わたし」が積極的にかかわった体験として記入されざるをえない。だから、成長を暗示させる物語の結末にいたっても、子供はその臨死体験を自分の消せないしこりとして引き受けていくことを望むだろう。
尾道シリーズの、死を体現した幽霊や特殊能力は結末部において消えていく対象だったが、善光寺『転校生』では、濃厚なイメージとして画面に焼き付けられ続けるのも、このことを示しているといっていい(一夫と一美の重なりを、とくに『ふたり』のあの有名なラストの「後姿」と対比すること)。
とはいえ、ここまで書いておいてなんだが、大林監督が変わったとはとうてい思えない。けっきょく彼は、僕たちがやり過ごしている日常世界からこぼれ落ちるものを、時空にわたってとらえようとする意思に貫かれているのであり――生の中の死と死の中の生、こちらの中のあちらとあちらの中のこちら、大人の中の子供と子供の中の大人――、この点では尾道も長野も変わらないのだ。だから長野への移動も自然である。思えば、『時をかける少女』のラストの後日談シーンだって、思春期の異様な体験を消せないしこりとして原田知世に担わせていたはずなのである。
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サッドヴァケイション』の青山真治監督は、圧倒的に非対称的な関係、無力な個人に降りかかる圧倒的な暴力に貫かれている。中国からの密航の冒頭からそれは示されており、『ユリイカ』でのバスジャック事件の記憶、間宮で働く人々、『Helpless』からの健次と康男の関係、健次と母の関係等々に表わされている。
とくに、家の論理から逃れようとする健次と、そんな彼を圧倒的な姿勢で飲み込んでいく母の、家をも踏み越えた怪物性との関係に表わされた非対称的な関係が、この作品の大きなテーマとなっている。その非対称性が遺憾なく発揮されるのは、物語ラストのクライマックスに二人の間で演出される視線の切り返しであろう。光で照った母の堂々とした正面向きのバストアップ映像は、虫けらのごとくうつむき加減で後背の影に溶け込む健次と交互に切り返され、この映画で監督が何に準拠しているのかが示される。
そう。『Helpless』、『ユリイカ』、『サッドヴァケイション』と堆積していく映像と音の記憶は監督個人ではもう自由に編集できる許容範囲を超えたものになっていて、自律したサーガの空間を形成しつつあり、ならばそれに身をゆだねてみようという意思が、この母に向き合う健次との関係に表わされているのだと(前述したいくつかの技法もこの意思に準拠したものだ)、シネフィル的にいっていいし、ここではそういうべきだろう。
大林監督の描く関係性はそれよりも圧倒的に弱く儚いものだ。あなたとわたしが向き合えば、ただちにその関係からこぼれ落ちていく無数の何ものかがあるのであり、そこを起点にして関係が紡がれている。それは前述した通りであり、とくに善光寺『転校生』では、やはりこの作品の一つのクライマックスとなっている、中盤の、母と(一美に入れ替わった)息子・一夫の間で視線の切り返しが執拗にくり返されるところに顕著である。
サッドヴァケイション』とは違い、二人の顔は微妙に居心地の悪い斜めの角度から切り取られ、切り返しのテンポは落ち着きなく速い。母は、視線に写るものが一美だと思ってまなざしを返すが、それは一美ではなく、一夫である。一夫は一夫で、息子であることに気付いてほしいと思い、自分の母への視線を向けるが、一美としてふるまわざるをえないところで引き裂かれている。この間で視線が切り返されるのだから、速いテンポで切り替わるたびに観る者は不安になる。母にも重なれず、息子にも重なれない。その運動の間に浮かび上がるのは、何ものだろうか。そんな問いに、大林監督は尾道から貫かれたままだ。
ここにあるのは圧倒的な非対称性の関係ではなく、対称的な関係に潜む圧倒的で弱く儚い断絶といったものではないか*4。だから彼の仕事は、尾道シリーズを作り続け、一つの地域の時空をめぐってどんなに映像と音を積み重ねても、作品を越えた歴史のある物語空間を形成せず、サーガにはならない。そんな欲望もない。
いま、この瞬間の(滅び行く)尾道を彼はいつくしみ撮るのであり、子供に向けられる視線もそれである。そこでは、過去の作品から引用されるイメージや音、役者たちは皆そのために呼び出され、子供たちと子供たちが遊ぶ町並みの支援者となるだろう。もちろん、善光寺『転校生』も時空を越えて――とんでろ じいちゃん経由で!――それにつらなる。
しかし、それらの間には無数の断絶があることを彼は知っており、それでもなおその断絶を無理を承知で越えて儚く繋がる音やイメージで、作品の各シーンを埋め、繋いでいき、作品と作品を繋いでいくだろう。子供たちの間に、理由もなく連鎖感染する「ピアノの指」*5はその様を美しく表わしたものであり、だから、善光寺を含む尾道シリーズを、サーガには結実しない「ピアノの指」たちと僕は呼びたい。

*1:同じ尾道シリーズの『時をかける少女』のレヴューはhttp://d.hatena.ne.jp/sz9/20060921。大林監督全般については、http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060420

*2:このテーマは、シリーズ化が進むごとに、尾道という土地が市街化・都市化する過程において土地固有のアイデンティティーを失うという形で、シリーズそのもののテーマとなっていった経緯がある。だから大林氏は尾道をいったん離脱したといえる。

*3:深作晩年の『バトル・ロワイアル』を想起させる。

*4:サッドヴァケイション』のシンボリックな顔が石田えりにあるとすれば、『転校生』は、しだいに衰弱していく一夫/一美の顔に少年少女の逆説的な色気が宿り、美しく見せる。

*5:エアー・ギターならぬエアー・ピアノ。