感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「児童書」から「一般書」に成長すること

削除ボーイズ0326

削除ボーイズ0326

受賞者に2000万円というふれこみで話題になった第一回「ポプラ社小説大賞」で、みごとに大賞を受賞した方波見大志の「削除ボーイズ0326」。
ポプラ社といえば、「ズッコケ三人組」シリーズとか児童文学を出版する書店というイメージがあるけれど、数年前から一般書にも力を入れているらしく、同小説大賞はその部門の才能を発掘すべく設けられたものだ。2000万円というのは、宣伝としてだんぜん効果的なわけだけれど、「作品を制作するコストはもちろんのこと、生活費を含めて作家が3、4年は食っていける基盤を提供したかった」というポプラ社の、パトロンに徹する発想は実にうれしい話である。作家になりたいやつは無数にいるんだから、受賞者には名誉だけでも与えておけば、文学はなんとかなると勘違いしている権威的な出版社が大手を振っているなかで、よくぞやってくれたといいたい。こういう、作家の下部構造(経済的基盤)を見据えたシステムを提供することは、なにより他のジャンルに才能が流れる趨勢にも歯止めがかかるはずだ。
***
今回受賞した作品の出来栄えは、そのポプラ社の意気込みに見合うものだと思うし、1400円でもじゅうぶん元が取れるものになっている。ただし、これを読んでいるあいだ終始頭から離れなかった思いがあって、それというのは、この作品は「一般書」ではなく「児童書」(あるいはジュヴナイル)だ、ということに尽きる。同小説大賞は、出版社の、おそらくマーケット本位の意向を指針にしたいがために、選考は作家によるものではなく、出版社が中心になって行われている。メフィスト賞なんかが以前からやっている方法だけれど、これはこれで、パトロンとして作家を発掘し面倒を見るという発想に見合うもので、理解できるのだけれど、「児童書」出版の書店が「児童書」の発想から踏み出るのにはこんなにも難しいものかと考えさせられた。
本書の要約をポプラ社から引用する。「12歳の直都が手に入れたのは、3分26秒間の出来事を削除することができる奇妙な装置。半信半疑だった直都だが、試しているうち次第に能力を実感し、仲間たちとともに不都合な事件を次々削除していく。次第に直都は装置に頼り始めるが、装置には深刻な副作用があった。装置が引き起こした混乱はついに、少年を衝撃的な事件に巻き込んでいく」。
自分にとって不都合な過去を消去してやり直すこと。しかし、やり直しは必ずしも都合のよい幸せに結びつかない。やり直しを可能にする装置を手にした主人公は、何度もやり直しを繰り返すのだが、それはしだいに周囲を巻き込んで意図せざる試練に立ち合わせることになる。
この要約を読んだだけで、ピンとくる人は結構いるだろう。そう、この作品の中核となる設定は、削除装置がもたらす自己再帰的な時間の循環運動であって、これを物語の中核に採用して今夏のアニメシーンをさらったのが「時をかける少女」だった*1
宮台真司氏がこのアニメ版「時かけ」を、自己再帰性をモチーフにした点を高く買って「傑作」と言ったことについて、僕はちょっとした違和感を語ったのだけれど(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060921)、「削除ボーイズ」を読んでいてその違和感が裏付けられたような気がした。大森望氏はこの作品の帯で「時間ものにまだこんなすごい奥の手があったなんて…」という、宣伝としてはなかなか気のきいた評を付したが、アニメ版「時かけ」を先に見た者からすれば、「削除ボーイズ」を読んだ感想は、「ああまたこの手できたか」にすぎない。むろん様々な読み方があってしかるべきなのだけれど、物語の設定を作品の評価軸にする以上は、新奇なものをより先に打ち出したものの勝ちになるのは当たり前だ。この帯を付けたポプラ社は、今夏話題になった「時かけ」を見なかったのだろうか?
***
「削除ボーイズ」の興味深いところは、アニメ版や大林版にはあった、SF的な超能力によって加工された時間から踏み出ようとする主人公の倫理的な決断とその実行、それによってもたらされた結果を主人公はどのように受け止めるか、という事後説明を語らずに済ましている点だろう。確かに、削除装置を失うかもしれない決断を主人公が心にするところまではいちおう語られているのだが、語られるのはそこまでなので、宙吊りにされた決断は、結末を叙情的なものにし、青春の淡い香りで染まったエンディング・プロットに還元される。それは倫理ではない。
時かけ」においては、アニメ版にしろ大林版にしろ、SF的な超能力は、主人公が自分の身の周りの世界をどのように受け止めるか、その成長なり変化をもたらすプロットとして機能したのであり、それは思春期の誰もが通過する成長なり変化の隠喩として設定されていた。私たちは、その過程を自分なりに受け止めることになる。しかし、「削除ボーイズ」においては、主人公が世界認識を変えることはない。削除装置の乱用の過程で、周囲にどのような影響なり弊害がもたらされるのかを経験したり、恋愛じみた挿話があったりするのだけれど、主人公の世界観はかたくなに死守される。
思うに、方波見氏は、自己再起する時間という物語設定に命をかけたのだろう。だから削除装置を軸にした物語の構造は、きわめてシンプルな構造をもったアニメ版「時かけ」よりも数段複雑なものに仕上がっていて、それだけでも十分楽しめるものなのだが、作家はそれだけで満足してしまったというか、それとともに心中してしまったのだ。だから、自己再起する時間という物語設定は、主人公が周囲の世界の成員としていかに変化するのかという物語の枠組みから乖離しているのであり、後者はSF的な物語設定を引き立てる背景でしかない。だから、出来事を削除しても記憶として現在に滞留するというスリリングな設定は、後者にこそ関わってしかるべきなのに、SF的な物語設定にしか奉仕しない。
まあそれはそれでいいんだけれど、そこから一歩踏み出ないと、作品は「児童書」のままであり、「児童書」のふりをした「一般書」にも、SFのふりをした「一般書」にも成長・変化することはできないだろう。
たとえば、この主人公は、なぜ自分の家族だけはどんなことがあっても、周囲の世界がどんなに不幸になったとしても(自分のことを好きだという女の子がクラスでいじめられようとも、唯一無二の親友が身体障害者になろうとも)、死守しなければならないという信念だけは揺るがないのか。家族愛は自明なことなのか? 
主人公の独りよがりの家族愛(を軸にした揺るぎない世界観)は、SF的な物語設定を優先させた結果なのだけれど、それに問いを投げる伏線を引いたとき――それはもちろん削除装置を軸にした物語設定とは別のところから生じさせる必要はなくて、むしろ削除装置の主人公たちに及ぼす能力・効能・副産物を考え尽くすところから生じるだろう――、そのときはじめて倫理が生じ、主人公の成長とともに、作品は「児童書」から「一般書」に成長・変化することになる。

*1:「削除ボーイズ」の方は、タイムリープするわけではないが、時間を再帰的に加工するという、「時間もの」の物語設定としては同じである。