感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

蔓延するコロナ小説

1、最近どういうわけか、コロナ関係の小説を集中的に読んでいる。各誌時評などで取り上げられているので気になって文芸誌を漁って読み始めたのだが、想像以上に多数あって驚いた。創作だけではなく、エッセイや日記、評論を加えれば1冊まるごとコロナ本?という号(たとえば『文學界』7月)すらある。しかもコロナ禍は渦中にあるわけで、対応の速度が非常に速くもある(各誌6月号から)。

かほどのコロナ流行りにはいくつか理由が考えられる。東日本大震災などの被災と比べると、コロナ禍は当事者性の偏りがないため(全員等しく被害者でありうる)、フィクションにする敷居が低い、というような趣旨の発言を、『美しい顔』を例示しつつ栗原裕一郎Twitterでしていたが、それもあるんだろう。コロナは誰もが語る資格があるというわけだ。

一方、最近の文学は、社会的・政治的な主題を積極的に取り入れる傾向が高まっているという側面も見逃せない。この傾向は、2000年代後半のロスジェネ文脈での「プロレタリア文学」再興から東北大震災を経て10年代に強まっている。

前世紀末から00年代はといえば、主題や物語の影響力は弱く、もっぱら手法(叙述)の時代だった。文学の形式的な側面が重要視されたのである。90年代に影響力を持った『批評空間』も、00年代にそれに取って代わった保坂和志高橋源一郎の文学観も、立場は違えども、物語批判(形式優位)という文脈は共有していたわけである。00年代は特に勢いのあったライトノベルなどのエンターテインメント系文学との差異化を図るためにも、物語批判には重要な意味があったといえる。

2、話題を変えます。最近のTwitterの時事ネタを。ある研究者が出した著書について、読まずに書かれた書評が批判的に告発されていた。批判は当然ありうべきものだが、リプライに「書評は読みたくなるように書かれるべきだ」といった意見が複数あった。書評は役に立つべきものだという発想は、書評にとっても幸福なように思えないけれど、大きなお世話だろうか?

他に、アートに関してだけれども、最近の若者は、議論喚起型・問題提起型の作品を好まず、施策・回答もパッケージされた作品を求めているといった趣旨のツイートも注目されていた。文学に関していえば、前者は手法(叙述)重視型で、後者は政治・社会的主題(+物語)重視型となる。ただし、文学の場合、若者が前者側なのかは判断を留保したい。今回の芥川賞は、ノミネート作が団塊ジュニアゆとり世代に割れたけれど、上の世代が比較的、主題の積極性を打ち出しているのに対し、若い2作家の方が手法が議論喚起的だった。

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3、文学の中でも純文学は、叙述・自意識・主題・物語と全方位に配慮するジャンルである。ただし、文学史を振り返ると、手法を洗練させる時代と、通常はエンターテインメント系文学に委譲している物語までフォローしにいく時代との間で揺れ動きがある。コロナ禍を取り上げて社会に役立とうという使命が顕在化している最近の文学は、政治・社会的主題を物語にしてパッケージするという発想が積極的に受け入れられているといえる。00年代だと想像しにくい状況である。

純文学は、物語を強めると、それならエンタメで十分じゃないかと批判され、叙述を強めると、意味不明なので不要だと批判されるわけだが。特にこういう交通事故が起こるのは芥川賞受賞作だろう。芥川賞だから読んでみようとなると、純文学に免疫のない読者は上記のような拒絶反応を起こしがち。遠野遙『破局』のAmazonレビューを眺めてみたが、さっそく評価が二分している。

4、文芸誌が8月号まで出ている現時点では、コロナ小説は、まだ物語の背景にのみ採用する作品が多く、物語の主題として機能している作品は少ない(作品としてどちらが優れているというわけではない)。主題は大きく分けて「感染」にフォーカスしたものと、「ソーシャル・ディスタンス(人間関係の組み換え)」にフォーカスしたものがある。前者は、小林エリカの「脱皮」(『群像』6月)、後者は金原ひとみの「アンソーシャル ディスタンス」(『新潮』6月)、「#コロナウ」(『小説トリッパー』夏季号)など。

上田岳弘「悪口」(『群像』8月)は、コロナを上田らしいメタ視点に取り込んで特異な切り口を示しているのに、そのメタ視点とミクロな個人の内面の揺れ動きがばちっとはまってこない感じ。

コロナを自作の創作哲学にまで取り込んで貪欲に消化しているのは、山崎ナオコーラの近未来SF(?)「キラキラPMS(または、波乗り太郎)」(『すばる』8月)だった。最近の山崎の(ジェンダーを軸にした)手法がコロナの主題を呼び込み、コロナの主題が手法を活かしている。「コロナ禍に読む『源氏物語』」(『文學界』7月)も山崎の創作哲学を知る上で必読。

物語は、主人公の太郎が、女性に理解を示す―PMSにイライラする女性に同情する―男性として登場し、女性のパートナーとの対話を通して自身に生理+PMSが感染り、ソーシャル・ディスタンスが容認=拡張されたポストコロナを家族と共生するまでを描く。

私は以前、芥川賞ノミネート作・三木三奈「アキちゃん」の、ジェンダーの主題をめぐる叙述トリックの暴力性を少し批判的に取り上げたが(7月1日)、「キラキラPMS」のジェンダーの主題をめぐる叙述トリックは、その暴力性をむしろ解除するように働き、作家のジェンダー観を知らしめるために巧妙に仕掛けられている。

あなたは男か女か? 山崎にとってたぶんその問いは重要ではない。男と女を分けてそれぞれが社会に役立たんとする主語的世界ではなく、股から血が出たところから動きだす述語的世界を夢見ること*1。そんな世界を夢見る山崎は、コロナがもたらしたソーシャル・ディスタンスを容認する世界に述語的世界を重ねる。

文法的にはせいぜい気分や様態を示す付属語でしかない畳語や重語の波で溢れかえる「キラキラPMS」を読むことは、そのような世界の片鱗に触れる幸福な(?)体験でもある。

【追記】韓国の文学研究者から、発表があるということで日本の文学におけるコロナの影響について聴き取り調査を受けた。それなりに注目されているみたい。筒井康隆ジャックポット」(『新潮』8月)を紹介するのには抵抗があったな。彼にいわせれば「ブラックユーモア」ということなんだろうが。韓国の文壇では、現時点でコロナの目立った動きはないようである。

*1:主語と述語の関係は「コロナ禍に読む『源氏物語』」を参照。