感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

2020年上半期芥川賞雑感(3)

最後に遠野遙氏の「破局」(『文藝』2020・夏)についてお話ししたいです。本作は文学史に置いてみると際立った特異性が見えてきます。

まず遠野のキャラクターにおいて指摘できる点は自閉症的な主体ということです。自閉症的な主体といえば、ゼロ年代の文学を席巻したモードですね。病名で文学の仕組みを説明するのは問題がありますが、少しの間お許しください。

たとえばファウスト系は、自己中心的な話法やドライヴ感のある話法として自閉症的な主体を活用しました。純文学だと、中原昌也阿部和重でしょう。彼らのキャラクターは総じて他者への共感能力が弱く、根拠のないマイルール―天皇=鴇、妹キャラ…―に従って行動し、発話するという特徴を持っていました。

遠野が特異なのは、マイルールを外在化・可視化・多数化している点にありますが、それを純文学伝統の自己言及・自問自答的な回路において機能させています。言い換えれば、純文学伝統の自己言及・自問自答的な回路を設けた上で、マイルールを外在化・可視化・多数化している点に特異性があります。

根拠のない自問自答を日本の小説において最初に大掛かりにやってのけたのは、「意識の流れ」を導入した横光利一の「機械」(1930)です。叙述としては、語られる私(物語)と語る私(叙述)の分裂を演出することになります。通常のリアリズム(私小説)の場合、語る私は語られる私との同一性を死守します。他方、語る私が過剰だと、その分裂が明確になり、リアリズムとしては破綻したということになりますが、そこにユーモアやイロニーが生じる。もちろん横光はリアリズム(私小説的な内面)批判を意図しているわけです。「誰かもう私に代って私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから」(「機械」)。

この自己言及・自問自答的な回路を後藤明生が継承したとするのにさして異論はなかろうと思います。横光‐後藤の自問自答。「あの外套はいったいどこに消え失せたのだろう? いったい、いつわたしの目の前から姿を消したのだろうか? このとつぜんの疑問が、その日わたしを早起きさせたのだった。/このとつぜんの早起きについて、何かもっともらしい理由を考える必要があるだろうか? 例えば、私の職業を露文和訳者だとする。わたしは目下、新しいゴーゴリ全集のために『外套』を翻訳中だ。(後略)」(『挟み撃ち』1973)。

そもそもこの「わたし」は露文翻訳者でないのだからもうこの設定の時点で読者はニヤニヤしながら読み進めるしかないわけですが、この自問自答―ノリツッコミ―が後藤作品の全編を覆い、根拠がないゆえに次々と論点がずれる様を私たちは楽しむ。

しかし、「破局」を読んでいてふと感じたんです。横光‐後藤の自己言及・自問自答の回路は、語られる私と語る私の同一性を分断しましたが、コギト―自問自答する私―自体は否定されていないのではないかと。後藤の語りが、他律的なようでいてどこか独善的な響きがあると長らく引っかかっていた疑問(「アミダクジ式弁証法」で書きましたが)が氷解した気分です。

破局」の「私」はマッチョな男で一見独善的ですが、一貫して他律的です。自己愛・自己保身のかけらもない。トレーニングのルーティンを日々繰り返し、社会的マナーや「父の口癖(女性には優しくしろ)」(28)、関係を持つ彼女たちの一々の反応(26)など、これら外在的指標によって「私」の認知と行動は支えられています。「服の上から大胸筋を触らせてやると、灯は嬉しそうに笑い、それを見た私は嬉しかったか?」(28)「灯の中に指を入れたまま、一瞬だけ眠った。セックスの最中に眠るのはマナーに反することだ、助手席で眠るのと同様に」(65)。

外在的指標によって認知と行動をそのつど確定すること。「私」にとっては自分の行動や生理(尿意)すら外在的な指標です。「尿意を催し、私はトイレに行った。(中略)尿意はもうなかった。だから当初の目的は果たせたような気もした」「考えるより先に謝罪の言葉が出てくるのは、私が善良な人間である証拠かもしれない」(35)

実は、後藤の自問自答も外部を必要としています。「とつぜん」の転調ですね。自問自答が停滞すると「とつぜん」の事件(偶然性)が外部から注入されます。しかし遠野の外在的な指標は、「とつぜん」外から現れる不可知なものではありません。有縁的・有契的なものとして自分の身の回りにある。だからつねに相手(彼女)を必要とします。

灯は今日も、インクの染みのような柄が入ったトレーナーを着ていた。この変な服が灯のお気に入りなのかと思うと、おかしくて笑いそうになった。どうして笑っているのかと灯が聞くから、どうやらこらえきれずに笑ってしまったらしい。昨日読んだ漫画を思い出したと説明すると、灯は笑い出し、私もそれを真似て笑った。(34)

作中最も美しい場面のひとつです。この「笑い」は誰のものか? 「私」のものでも、彼女の「灯」のものでもない。「私」と「灯」が作り出したものです。横光‐後藤なら、「私の笑いだろうか? 灯の笑いだろうか? 確かに灯を見て私は笑いそうになったが、最初から笑われていたのは私ではなかったか」などと問いを宙吊りにし、自己に閉じがちなところでしょう。

むろん「破局」の「私」が参照する外在的指標には根拠がない。だから彼女との関係は(「機械」のような「破局」に向けて)ずれていきます。

ところで、遠野作は、主要キャラクターが4人います。男が主人公の陽介と友人の膝、女が元カノと彼女の灯ですが、それぞれ作中の機能が明確で、計算されています。そういう意味でも、横光「機械」の実験空間―私と軽部と屋敷と主人―を思わせます。

男性陣は、世界(女性との関係)を確定する自意識の側にあり(ただし陽介や膝の自意識は「女性」がゾンビや幽霊であることが見えず空回りする)、女性陣は、欲望する/される身体として彼らとの関係性を求めます(男性陣は捕食される対象でしかない)。

女性サイドから見たら、金原ひとみの初期がこだわった、彼依存型のアミービックな「私」に相当するかと思いますhttps://sz9.hatenadiary.org/entry/20080317/1205741693