感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

文学史・書評・文学業界

1、矢野利裕氏が『文学+』の感想をツイートしてくれました。とてもありがたいです。私の文学史論「純文学再設定+」にもコメントをもらいました。

文学史は、文学の一般規則のようなものを前提し、そこに各作品・作家をマッピングする作業ではなく(そういう国語便覧的な文学史があるのも事実ですが)、各作品・作家が規則の網の目の中でどのように規則を生成・改変・更新しているのかをウォッチする作業です。むろん、当の文学史記述もその規則の網の目の一部であり、おのずと論争的―場合によっては共同的―な性格を持ちます。その意味で、私の文学史が起点とする横光利一の「純粋小説論」(1935)は優れた文学史でもありました。

そんな文学史もいまや現在進行形で記述するプレイヤーは絶滅危惧種なのですが、その数少ない貴重な作業を矢野氏は試みています。その一部を「純文学再設定+」(『文学+』2020・3)では紹介しました。矢野氏の文学史記述は、『すばる』(2017・2)の「新感覚系とプロレタリア文学の現代―平成文学史序説」です。

そこで矢野氏は、ゼロ年代後半の文学史を記述するさいに、手法と主題との「だらしない結びつき」の傾向があるとして批判的に取り上げていました。今回いただいたツイートにもその言及があります。

一点、中沢さんは『想像ラジオ』が、手法と主題との「だらしない結びつき」批判の射程にあると指摘していますが、僕自身はいとうせいこう論で、『想像ラジオ』は主題回帰した(だから失語から立ち直れた)と論じており、ここは立場異なるか。というか、僕の立場問われているか。

「純文学再設定」シリーズは、他のプレイヤーの文学観を観測するだけで、自分の文学観を積極的に示していないのですが、私はそのだらしなさが嫌いじゃないんです。まあ私のことはどうでもよいですが。

ラッパーでもある矢野氏の「無数のざわめきとともに騒げ!―いとうせいこう論」(『群像』2019・4)は、JPOP批評を数多くこなす彼しか書けないラップ論/文学論ですが、ラップの共同性から発話(呼びかける)ー聴取(応答、耳を澄ませる)という物語が成立する環境を引き出して『想像ラジオ』(2013)の可能性を分析するところは、作家論―作家はこれ読んでうれしかっただろうなあ―のみならず物語論としても意義のある批評だと思いました。

ちなみに物語論といえば、とくに文芸批評の世界ではグレマスやトドロフらの構造分析で理解が止まってしまっていますが(物語の構造分析を用いて純文学批判をした大塚英志レヴィ=ストロースを再利用した福嶋亮大の神話分析以降の進展が皆無)、文学研究では西田谷洋らの仕事があります。

構造分析を批判的に検証し、物語論の更新を目指した認知物語論を展開する彼らの仕事を紹介したいがために、『文学+』では1・2号にわたり西田谷氏に寄稿をお願いしました。まあ理論分析は難解なので敬遠されがちなんですけどねー。認知物語論がなければ、私は柴崎友香-乗代雄介で描写論を自分なりにアップデート(ファミリーリセンブランス的な描写)できなかったと思っています。

物語や神話の構造分析はゼロ年代に勢いのあったライトノベル・エンタメ系文学との親和性が高く、純文学批判に都合がよかった視点ですが、認知物語論は自意識批判と政治的主題、叙述のトライアングルで回していく純文学の分析にこそ親和性の高い物語分析の方法です。

物語論・物語分析が厄介なのは叙述と物語の2相をカバーするからですが、ゼロ年代まで流行った構造分析が物語にフォーカスしていたとすれば(構造主義的な物語論は発話者等のクラスも抽象的な存在)、文脈や有契性等に重きを置く認知物語論は叙述にフォーカスしているのかなとは思います。叙述と物語を強引に分ければの話ですが。

戻ります。矢野氏は従来の物語批判を牽制しつつ主題の積極性に最近の文学の可能性を見出しているのですが、彼のいとうせいこう論は、物語論を再利用して主題の積極性を押し出すひとつの解法を指し示すものです。彼の文学史を裏付けています。矢野氏はツイートで「『想像ラジオ』は主題回帰した(だから失語から立ち直れた)」と書いていて、これだけだと思いっきり反動的に見えますが、そうならない伏線をしっかり張り巡らせているので、関心ある方は読んでみることをおすすめします。

2、最近はすっかりTwitterウォッチャーになりさがっていますが、Twitterはトレンドに上がってもすぐに忘れ去られますね。まあそれも良い面と悪い面があると思いますが。私は個人的には♯抗議デモみたいなのには肯定的です。少なくとも冷笑する気にはなれない。というか刹那的・一面的に見える現象も何にどんな影響を及ぼしているのかなんてわかりませんからね。刹那的な盛り上がりに対しては、ブログや出版やサロンが補完していけばよいのではないでしょうか。

詩集の編集者が、当該詩集を書評した評論家を批判し、アンチ内田樹を中心にTwitter界隈で盛り上がっていたのもいまや過去のこと。批判の内容は、詩集についてほとんど触れず、権威に甘えた自分語りばかりしており、書評の内容も著書・編集の意図から逸脱しているとのこと。
http://asanotakao.hatenablog.com/entry/2020/05/10/121620?fbclid=IwAR2Qm0qyvYfeFYWuDKj4ROR4uf7s_HH8zmEdlTiNXowaeTlPKSIEHV6pam8

私はどちらの立場にも与しませんが、結論としては、こういう議論はあってしかるべきと思います。

内田氏にとっては沢山ある仕事のうちのひとつで、書評にみあった俺の芸でも見せてやろうくらいのノリだったんだろうけど(それはそれで間違っているとは思いません)、詩集を出すまでに何年もかけてきた編集者にとってはあまりにも軽い言葉に感じられた。これはこれでひとつの驕りと感じられる部分はあるけれど(人がどう書くかは根本的に自由)、だからといって黙っている必要はないとも思います。とくに新聞の書評の影響力となると、関係性が非対称になりがちですからね。

評者の解釈を批判するのではなく、書き方・書くスタンス(詩集の内容に触れないなど)を批判することは、下手をすればトーン・ポリシングにも通じる暴力性を内包してはいますが、そうまでもしないといけなかった非対称性を私は読み取りました。

いずれにせよ、こういう副次的な言説の積み重ねがその作品の読み方を深く多様にしていくし、分断があったり権威で固定しかねない文壇を動揺させるきっかけにもなりうるのではないでしょうか。

3、川上未映子氏がTwitterで、「文壇界隈では稿料が明示化されないという慣習があり、それに抵抗してきた」という話も瞬間風速的に盛り上がりました。

これはとても重要なツイートで、文学という場所はいまだに属人的なり信頼関係なりで成り立っている業界だいうことを暴露したものです。むろん信頼関係はどの業界でも必要な要素でしょうが、それでもって懐事情も曖昧にする慣習はいかがなものかと。

川上氏のツイートには、「そんなこと信じられない」といった異分野からのコメントが散見されましたが、まあ文学の世界ではそれが不思議ではないわけです。

ただ、他方で、文学の世界は、同人の分野や研究の分野など含め全体をみると、費用明細に明示化されないクローズドな領域が膨大にあって、それらによって支えられているという側面も指摘しておきたい。

私は同人誌などの雑誌を作る側にも、依頼を受ける側にも身を置いたことがありますが、信頼関係などで懐事情などをフォローせざるをえない局面がある。

まだ若く研究をしていた頃には、ある教員が関わったテープ起こしの依頼があり有耶無耶になったこともあるし(あれは結局ちゃんと払われたのだったか忘れてしまった)、「業績になるからいいよね?」的なスタンスから文学事典や論文寄稿の依頼があったりもしました。論文は出したもののボツになって、修行の一環なので金銭面の話は当然ない。そんな経験をしている人は多いのではないか。

ややネガティブに話をしましたが、ただこういった側面は単に否定すればよいものだとは思っていません。川上発言を受けてだと思いますが、「専門知を安売りするな」というツイートも見ました。なかなか突き刺さりますねー。それを言われると言葉も出ないんだけれども、それほど簡単に割り切れる話だとも思えないんです。

まず、文学という業界が根本的にデフレ性向で成り立っているということを確認しておく必要があります。最近は文芸誌が活況という話をSNSで聞きますが、ほぼ改善の余地ないデフレ産業であることに変わりありません。川上氏のような強い発言が可能なプレイヤーはごく限られています(だから無意味な発言だと言いたいのではありません)。そして残酷なことに(身から出た錆ではありますが笑)、私はそのような場所の底辺にいながら―安売りすらできない―、少なからず恩恵を受けてきた受益者でもあります。文学しかできることもないですしね。

信頼関係に寄りかかれば―あるいは「文学」とか何かのためにやっているという口実を作れば―稿料を曖昧にするといった慣習にも繋がるわけだけれど、とはいえ曖昧にならざるをえないところもあり、そこはもう居直らずに言葉を尽くしていくしかないと考えています。