感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

3・11以後の小説――新たな政治と文学に向けて

2011年。わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あれ以来去りません。むろんこの怒りは、最終的に自分自身に向かってくる怒りです。(「神様2011 あとがき」川上弘美

3・11以後、何人かの小説家が震災(地震原発被害)に関連した創作を発表している。これに私はいささか驚いている。感情を伝えやすい詩の場合は、比較的早く3・11以後の惨事に反応する作品が出るという予想はついた。
じっさい、原発被害の直接的な被害を受けている福島に身を置く和合亮一が、誰よりも早く、感情を揺さぶる言葉をtwitterから発信し、詩集としてまとめた。他にも、詩のボクシング第3代チャンピオンの平田俊子(「ゆれるな」http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/a8581ecb9143253a1f760b77a1222307)や詩界のスーザン・ボイル柴田トヨ(「被災者の皆様に」http://sankei.jp.msn.com/life/news/110317/trd11031714340007-n1.htm)らが「震災詩」を発表したし、評論も小説も詩もこなす松浦寿輝は3・11に言及するさい何より詩を選んだ(「afterward」http://www.2pc.jp/2011/04/08/10/55/24)。AR技術を応用したni_kaのAR詩も詩形式の可能性を存分に発揮しながらそれに応接している(「2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京」http://yaplog.jp/tipotipo/archive/255)。
また、関東大震災の詩を同時代に書いたことがある金子みすずの「こだまでせうか」が3・11以後頻繁に流れたテレビCMでいち早く注目を集め、岩手の詩人・宮沢賢治の再評価があり、詩の朗読会やパフォーマンスが盛んに行われているのが現状だ。
これら一連の詩の動向は、私には不思議ではなかった。詩は散文と比べたら意味(物語)よりも知覚に訴え、感情を伝えやすいジャンルだからだ。詩は散文よりも機動性の面で長けているのである。だから小説が詩と同程度に早く事態に応接するとは信じがたかったのだ*1
大江健三郎村上春樹が震災(とくに原発被害)に関連したコメントを発表し、島田雅彦が「復興書店」(http://fukkoshoten.com/)を立ち上げたばかりではない。それらは文化人の政治的メッセージとしてみれば十分に理解できるわけだが、何より驚いたのは、3・11以後に影響を受けた創作が矢継ぎ早に発表されたことである。
これは、1995年の阪神淡路大震災(あるいは地下鉄サリン事件)のさいに小説家がきわめて慎重になった時と比べて異例である。この時期は、カルチュラル・スタディーズ現代思想の影響から、言葉が現実を表象することの不可能性なり暴力性といったテーマが流行した時期であり、フィクションを現実と切り離したメタフィクショナルな創作が増えた時期である。そしてその中で村上春樹ばかりが地震サリン事件に積極的に応接したのが嘲笑されもした時期だった。
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今回は、3・11以後発表された小説を調査しながら、現代小説における現実とフィクションの関係、すなわち「現代小説は3・11を受けて現実にフィクション(物語)をどのように関連させているのか」を明らかにしたい。戦後の日本文学は「政治と文学」というテーマが大きな影響力を持っていたが、1970年代以来撤退を余儀なくされた。その一つの要因は、文学が現実との接点を断ち切り、フィクション(物語)の自律した構造に依拠するようになったからである。3・11以後の小説から、その40年来の傾向を転回する契機が見られるかもしれない。
まずは「子供の行方」(「群像」2011年8月)の古井由吉。古井の現実とフィクションの関係の処理の仕方は比較的オーソドックスである。3・11以後に言及するさいに古井は過去の記憶、太平洋戦争の東京大空襲(3月10日)以後を記憶の底から掘り起こし、震災と戦災をアナロジカル(比喩的)に結び付ける。古井の叙述は、3・11以後の余震に及ぶたびに3・10以後の戦時体験に遡行するだろう。ここでは現在進行形の現実は記憶に繋ぎ留められ、安定しているといっていい。

暮れなずむ道をたったひとり、リヤカーのうしろにのせられて行く子供の姿が見える。昼間の引っ越しは機銃掃射をおそれて避けたのだろうが、それにしてもこんな時刻に、なぜひとりきり先へやられたのか、どう言い聞かされてきたのか、覚えはない。棍棒を取る見知らぬ男の背が物も言わず、地下足袋の脚をひたひたと運ぶにつれて、道はいよいよ暗くなる。子供も物を言わない。何を考えていたのか。これで安穏なところへ越せると思っていたのか。何処へ行くのか、知っていたのだろうか。/西の在所の農家に身を寄せてほどなく、ある夜、城下町が全体に炎上するのを、畑の間から眺めた。赤く焼けた空へ、白熱した火炎がつぎからつぎに押し上がる。(72−73ページ)

語り手は自分の体験でありながら、その当時の記憶をときおり突き放しつつ三人称(「子供」)で語ることにより、古井独特の離人症的な物語空間を演出する。しかしそれは、現実を前にした危機的な対応の結果というよりも、事後からの諦念の印象を強く物語に与えるだろう。
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次は高橋源一郎だ。3・11以後に最も精力的に言葉を費やしているのは彼である。ここ3回の「日本文学盛衰史 戦後文学篇」(「群像」5・6・7月)は全てそれに当てられているし、「小説トリッパー」(2011年夏号)の「ぼくらの文章教室」もそうだった。創作では『「悪」と戦う』(2010年5月)の世界観を踏まえた「お伽草子」(「新潮」2011年6月)と「アトム」(「新潮」2011年7月)がある。さらには『恋する原発』なるタイトルの書き下ろし作品も現在執筆中ということだ。
ちなみに「お伽草子」というタイトルは、陣野俊史「「3・11」と「その後」の小説」(「すばる」2011年8月)が指摘する通り、元々は太宰治が戦時中に執筆していた作品名であり、太宰はその作品を空襲下の防空壕で子供に読み聞かせるための物語という設定で書いたのだった。
それでは、高橋のフィクション(物語)における現実把握とはいかなるものか。それは「崇高」という概念に尽きるだろう。

ここしばらく、タカハシさんは、黙りこむことが多くなった。テレビをつけ、被災地の悲惨な情景や襲いかかる巨大な津波に人が呑まれる瞬間を見ては、目をそむけ、呆然とする。雑誌に掲載された震災や原発の記事を読んでは、いずこともなく、視線をさまよわせる。そうやって、視線をさまよわせながら、いつしか、タカハシさんは、その視線が外側から内側へ、注がれてゆくような気がした。あくまで、「気がした」だけなのだが。(「日本文学盛衰史 戦後文学篇(18)」、「群像」2011年6月、255ページ)

認識が及ばない、表象不可能な現実――崇高な対象――に対して、高橋は沈黙し、熟考することを私たちに要求する。高橋も震災を戦災の記憶とアナロジカルに結び付けるが、それは崇高という性質においてのみである。
ここで高橋のフィクションの特徴を挙げておこう。まず「お伽草子」は、戦時下を生きるパパとぼくの話と、『鉄腕アトム』のキャラクター・アトムとトビオの善悪をめぐる話とが、交互に語られている。ここでは後者が前者の話中話(オブジェクト・レベル)の関係にあったが、二作目「アトム」では平行的な関係に置かれ、さらに物語世界は分岐し複数化する様が見られた。また、両作品ともに平仮名が多用されている点は、現実把握に対する無力さと慎み深さの現われ(これは子供の視点という性質も関わっている)が垣間見られるといっていい。
言語学者ロマーン・ヤコブソンはかつて、失語症を二つのタイプに分けた。文章を結合する能力(統辞)を失った失語症と、文章中の単語の選択(置き換え)が出来ない失語症との、二つである。
これを踏まえれば、3・11以後の圧倒的な現実を前に高橋が選んだ失語状態は、統合する能力の異常において現れている、ということが分かるだろう。高橋の表現は統合する能力の支えを奪われ、選択・置換の能力によってのみ支えられることになる。だから高橋の物語空間はひたすら時間が滞留(=統辞機能の失調)する中で、表象不可能な現実をめぐり過剰な隠喩(相似)的連鎖が発動し、複数の可能世界を物語のうちに取り込むことになるのである。
阿部和重の「RIDE ON TIME」(「早稲田文学2011」東北関東大震災チャリティ・コンテンツ、http://www.bungaku.net/wasebun/info/charity.html)を読んだ時も、高橋と似た感想を得た。阿部はここで、3・11以後の震災には決して言及しない。その代わりに、50メートル級の超グランド・スウェルを怯えつつ待ち続けるサーファーの物語を代補(置換)するのである。
いずれにせよ、現実を圧倒的な対象としてとらえる者の歴史記述は、シンボルよりも多義的な解釈を可能とするアレゴリーに可能性を見出すものである。
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平野啓一郎は、4月30日から被災地に足を運んで見聞した記録をエッセイとしてまとめている。そこで平野は、実際にその場を体験してみれば崇高という抽象的な概念は受け入れられなくなるという趣旨の発言をしている。

「崇高」という言葉は思い浮かんだものの、そう感じられるほど、自然の威力は抽象的ではなかった。たった二日間とはいえ、被災地を具に見て回ることで、震災の被害者は、私の中でもっとずっと具体的になった。自然が、名前を持った個人に対して残酷な恐怖である時、人間はそれを「力学的に崇高」(カント)とは、感じなそうである。(「被災地までの距離」、「新潮」2011年7月、198ページ)

平野が言っていることは、実際に現場を体験せよという現場主義的なものではない。それは抽象的な崇高主義の裏返しでしかないだろう。平野はここで、特定の関与性(「名前を持った個人」)を起点にすると風景が違って見えたと言っているのである。そこで注目したい3・11以後の小説を挙げるとすれば、川上弘美古川日出男だろう。
まずは川上である。川上は1992年に発表した短篇「神様」を、3・11以後を受けて改編を施し、「神様2011」(「群像」2011年6月)を発表した。そのさい川上は「神様2011」の後にオリジナルの「神様」を併載し、改編するにいたった理由を「あとがき」に付している。
改編のポイントは、オリジナルの物語に原発被害−放射能汚染後の世界観を所々に埋め込むという点である。

くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。(104ページ)
「抱擁を交わしていただけますか」/くまは言った。/「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」/わたしは承諾した。くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。/くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。(108ページ)*2

くまとわたしが散歩するという、川上独特のシュールなファンタジー色が強かった「神様」は、「神様2011」において現実から別の要素を――それまで地に隠れていたものを図として浮かび上がらせるように――取り入れることで物語を改編したのである。
この改編に作家をして着手させたのは、あれ以来胸中を離れないという「静かな怒り」のはずだが、ここではそれについては深入りしない。重要なのは、川上には、3・11以後の現実を対象化して深く認識・把握したり、色々と解釈(現実から抽象的な理念を引き出し)したりする発想はまったくないということだ。彼女は現実から関心のある(その関心は「静かな怒り」に基づいているだろう)主題と情報のクラスタを抽出し、それをフィクション(物語)に組み込むことに、作家による現実との応接の可能性を限定しているのである。
そしてこの現実は、認識の対象ではなく(認識の対象にすれば究極的には認識の無力感に打ちのめされるほかないわけだが)、情報――あるいは知覚感覚のデータ――の束として成り立っており、限定的な関心にしたがってそれらを抽出し、フィクションに組み込んで現実との関わりを再設定する(そのアウトプットが「神様2011」)のである*3
だからこの語り手は、現実とフィクションの関係(表象するものと表象されるものの対応関係)に苦慮することはない。現実はフィクション(物語)と位相の異なる対象ではなく、情報としてフィクションの一部を構成するものだからだ。ただしその現実は、「神様2011」の改編をもたらしたように、フィクションのメタデータ(単なる一情報ではなく主題)としても機能している。
これは崇高的フィクションとまったく逆である。崇高的フィクションの場合は、現実を圧倒的な畏敬の対象として否認することにより、結果的にフィクション(を支える語り手)をメタレベルに繰り上げるものだった。それに対して、川上においては、現実はフィクションの一部に埋め込まれるが、メタデータとしてフィクションを規定することになるのである。
川上は、文学表現におけるフィクションとその語り手の脆弱性を、とくにその脆弱性を露わにする現実を前にして、特定の関心・関与性(「静かな怒り」)を起点にした現実を受け入れることにより補填・活性化するという方法を選んだのである。
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いずれにせよ、川上の「神様2011」は、現実とフィクションの境界・重なりにあって、ファンタジックな物語でもあり、現実に対する政治的なレスポンスとしても機能していることに注意したい。
ところで私は、最近の、歴史を素材にした小説が、以前と変わってきていることに少し前から注目していた。古くから歴史的素材をシンボリックなものとして導入するタイプの小説は枚挙にいとまなくあるが、1980年代以降、シンボリックに大文字の歴史を導入しえなくなった時代に、変化の兆しを見せはじめる。具体的にいうと、歴史を小文字化(多元化)する試みが注目を集める一方で、とりわけサブカルチャー偽史的想像力の影響を受けた歴史修正主義的作品(ifとしての歴史物語)が増える傾向があった(『5分後の世界』『ニッポニアニッポン』『グランド・ミステリー』など)。
核・原子力の問題に限定するなら、まず1948年の「夏の花」(原民喜)や「屍の街」(大田洋子)といった直接の被爆体験者によるシンボリックな作品があるとすれば、1965年の『黒い雨』(井伏鱒二)が核のシンボリックな表象の不可能性を露呈させた。さらに、核の問題が抑止力理論により崇高な対象として肥大化する時代、1981年の『HIROSHIMA』(小田実)が核の歴史を小文字化して表象することに成功する一方で、1990年の『治療島』1991年の『治療島惑星』(大江健三郎)が偽史的想像力のパッケージを核に施したのであり、かくして2005年の『六〇〇〇度の愛』(鹿島田真希)に行き着くという系譜がある。
『六〇〇〇度の愛』の注目すべき点は、核に対して緻密な認識をしようという意図も、新たな解釈を施そうという意図もなく、(これまでの核のイメージに対して)いたって素朴かつ忠実に物語の素材として導入しながら、物語の主題としても機能させているという点であった。
いわばここでは、核という歴史的素材がフィクション(物語)を支持・駆動する背景として取り込まれ、逆に、フィクション(物語)の中に取り込まれることで政治的な主題として生き直させられている、という関係が見られるのではないか。歴史的素材をフィクション(物語)に奉仕する程度に切り縮め、それが逆に歴史的素材の政治的主題性を賦活させる(=フィクションが歴史に奉仕する)ということ。
先ほど、歴史を素材にした小説の変容に言及したが、それは『六〇〇〇度の愛』に見られるこのような事態である。そしてこれは、他にも、古川日出男の『聖家族』(2008年)にいたるいくつかの歴史に取材した作品群をはじめ、桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』(2006年)や村上春樹の『1Q84』(2009‐2010年)、阿部和重の『ピストルズ』(2010年)などにも散見されるのである。
彼らは歴史をシンボリックに立ち上げないし、偽史的に改編するダイナミズムも期待しない。むしろ日本の戦後史を忠実になぞっている。言い換えれば、歴史をハッキング(寄生)の対象として設定し、物語を上書きするのである。その試みは正史とは別の歴史(物語)を作るのではなく、歴史に対する新たな関わり方・視点を提供する欲望に支えられているだろう。彼らの作品にあっては、物語と歴史は相互に必要とする関係にあるのである。
私がこのようなことを考えたのは、ポール・グリーングラスの一連の、事実に即した「戦争映画」を見てからである。彼の『ユナイテッド93』(2006年)と『グリーン・ゾーン』(2010年)は、『ハート・ロッカー』(2008年)はいうまでもなく、『プライベート・ライアン』(1998年)や『シン・レッド・ライン』(1998年)にいたる戦争映画(戦争を政治的主題にしたものから娯楽として活用したものまで含む)と決定的に様相を異にしている。
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それでは、最後に古川である。作品は「馬たちよ、それでも光は無垢で」(「新潮」2011年7月、以下「馬たちよ」)。何にでも染まりやすい彼もまた3・11以後の震災を、戦災と重ね合わせたり、崇高な対象(「時間の消滅」「神隠しの時間」…)としてとらえたりする。しかしそれ以上に、古川の試みは、川上弘美との接点の方が有力に機能している。くしくも川上とNYで出会ったエピソードが「馬たちよ」で語られているのだが。
「馬たちよ」は、福島出身である古川の、東北を舞台にした長篇小説『聖家族』の補遺として位置付けられた作品だ。ここで古川は、3・11以後を、あくまでも現実としてとどめたいドキュメンタリーの欲望と、それを物語の時間に流し込みたいフィクションの欲望との間で葛藤している。

書け。私はこれを書け。そこに狗塚牛一郎がいたのだと書け。五人めが。私たちの五人めが。イヌにしてウシである『聖家族』の長男が同乗していたのだと書け。しかしそんなことを書いてしまったら小説だ。この文章が小説になってしまう。私には矜持がある、私はここまで一切嘘を交えなかった。私には逡巡はあっても嘘はなかった。この文章を決定的な″本物″にすることで私は何かの、やはり決定的な救済を望んだのだ。いまも望んでいる。それを鎮魂とパラフレーズする覚悟もある。これらは極限である。これら、原稿用紙にして九十枚余に達した″ある集積″は私の極限である。それでも。それでも? 書け。(115ページ)

しかし、この葛藤はリアリズムをとるかフィクションをとるかというような従来からある議論とは無縁である。古川にとっては、現実とフィクションは合わせ鏡のように相互を照らし合わす関係にあるのであり、そこで現実はすでにフィクション(物語)であり、フィクション(物語)もまた現実なのである。物語の話者・牛一郎とドキュメンタリーの話者・古川は重なり合っているのだ。相互を必要とするように。
古川の小説は、物語が現実から様々な情報(身辺雑記・地名・歴史的記録など)を抽出して自己の動因にし、現実は物語(の語り)によって賦活される、という構造を持っている。
この現実と物語の合わせ鏡の乱反射によってこそ、3・11の震災は3・10の戦災へと垂直に遡行して物語の深度を深めることなく、古川自身が福島へ北上したりNYに飛んだりする中で(この感情赴くままの古川/牛一郎の動線が「馬たちよ」の現実に対する関与性である)、ときに9・11のNYへと横滑りし、あるいは福島・相馬の歴史を語るべく原発を戦国時代以来の最新の城郭ととらえたり、人類史はじまって以来の馬の歴史へと分岐しもするのである。

*1:私は、3月の下旬に書いたエッセイで、この震災を受けて書かれる小説は「まだもう少し、いやずいぶん先のことだろう」と述べた。「リズム タイミング インプロビゼーションhttp://p.booklog.jp/book/17391/page/306127

*2:オリジナルの「神様」は以下の通り。「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。」「「抱擁を交わしていただけますか」/くまは言った。/「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」/わたしは承諾した。/くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。」

*3:人間を認識し考える特別な生き物ではなく、環境の中で情報を受け取り処理する機械的な生き物としての側面に注目し、その可能性を見出したのはサイバネティックスの理論家・ノーバート・ウィーナーである。「人間は、自己の感覚器官を通じて知覚する環境のなかにひたされている。人間が受け取る情報は、脳と神経系を通じてコオーディネート(整合)され、貯蔵や照合や選択からなる適当な過程をへてのち、行動器官――ふつうは筋肉――を通じて外へでてゆく。これらの行動器官は外界に作用を及ぼし、さらにまた自己運動感覚をもつ末端器官のような感覚器を通じて中枢神経系へ反作用を及ぼす。そして、これらの自己運動感覚器官(および他の感覚器官)が受け取った情報が、当人のすでに蓄積された貯蔵情報と組み合わされて、将来の行動を左右する。/情報とは、われわれが外界に対して自己を調節し、かつその調節行動によって外界に影響を及ぼしてゆくさいに、外界との間で交換されるものの内容を指す言葉である。情報を受け取り利用してゆくことによってこそ、われわれは環境の予知しえぬ変転に対して自己を調節してゆき、そういう環境のなかで効果的に生きてゆくのである。」(『人間機械論 第2版』1954年、みすず書房版1979年、11ページ)