感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

著作権保護期間延長の動きについて、文学は何をしてるの?(3)

12月11日開催の「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」第1回シンポジウムに行ってきた。僕は基本的に反対派*1だから、反対派の代表・福井建策氏の著書と変わらない滑らかなロジックを堪能し、「青空文庫」の呼びかけ人・富田倫生氏の、「青空文庫」という画期的なシステムを構築・維持しているという誇るべきキャリアを絶対に後ろ盾にすることなく、表現とその利用の媒介者に徹しようとする態度にいたく感激し、平田オリザ氏の「演劇は本質的に二次利用という側面を持つ」という実作者の立場からの、公益性と私益を比較考量した説得的なお話と「欧米の圧力で延長になったら癪なので、かりに延長ということになったら、延長分の20年は諸々の表現活動の公共財として活用するのも手じゃないか」という意表を突く提案などなど、反対派の意見を素直に聴くことができたけれど、こんなところでやっちゃいけないのに思わずミーハー意識全快で、賛成派の三田誠広氏や松本零士氏のオーラに負けそうになってしまった。
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けっきょくのところ、私益を死後にわたっても守りたいという賛成派の家族思いの気持ちも分かったし、公益を擁護することこそ個々人の私益に繋がるのだという反対派の意見もなるほどと思わせるものだった。賛成・反対の論点はもう出揃っているので(参考ページ)、ここではくり返さない。
当該問題は、持てる者と持たざる者、表現者と消費者・利用者との対立として思い描かれがちだけれど、必ずしもそうとは言えないという山形浩生氏の論点の引き直しは、今後の著作権問題全般を考える上で重要だと思った。この一点について、少し話を広げてみようと思う(途中いい加減に聴いていたので、細部の誤りはお許しを。指摘してくだされば幸いです)。
山形氏の引き直しとは具体的に何か。まず反対派の代表として福井建策氏は、私たちの文化は過去の遺産の翻案・引用・加工によって豊かになったのだと述べ、その例として、著名な作家や古典を複数挙げた。山形氏は同じ反対派の立場でありながら、視点をさらに拡張し、いまや著作物は少数のアーティストの間で行われる需要と再生産の過程としてのみとらえるべきではなく、デジタル・メディアの環境下にある私たち皆がその過程に参与していること(いわゆる総表現社会)をまず確認すべきだ、と述べたのである*2
表現の消費者・受益者(だと自ら思っている者)が、いつの間にか(あるいは死後になってから)表現者になっているのかもしれず、その逆もあるということ。もっといえば、常にすでに一個人は表現者でありながら消費者でもある、ということを確認すべきであり、ついでにいえば、僕が最近「ロングテール」に可能性を見出しているのもその点に尽きる(テキスト1)(テキスト2)
たとえば、「単なる消費者が表現者になる」という事態は、運よく価値創出の権利者に転じるという側面ばかりではなく、運悪く(聞きかじったことの、何気ないブログへの書き込み・引用・転載が)権利侵害として訴えられることもある、ということにほかならない。「ロングテール」云々の話は、これまで省みられなかった不特定多数無限大の人々にとって単なるおいしい話なのではないし、無視できる話でもないのである。
この前提から考えてみると、会場で曖昧になってしまった議論も少なからず明確になるのではないか。まず、一人の賛成派(質問者)が示した提案について考えてみよう。彼が言うには、「基本的に70年に引き上げておいて、それに反対だったら、自ら50年にするなり自己申告すればいいのではないか」という提案をした(自主的な権利放棄はもちろん今でもできる)。そのためには、著作権関係者は生前に、遺書などにその表明をしておくべきだという話だったが、少数の作家に対してなら可能に見えなくもないこのシステムを、「総表現社会」という前提から眺め直したら、およそ実現不可能だということが分かる。
青空文庫」の呼びかけ人・富田倫生氏も述べた通り、社会的に価値のある作品は、作家の存命中に(価値あるものとして)見出されるものばかりではない。昔からゴッホ宮沢賢治のように死後発掘されたり見直されたりする作家は少なからずいるが、表現がデジタル化される現状においては、もっと極端なケース、たとえばブログで適当に描きなぐった落書きなんかが価値あるものとして見出されるようなケースが出てくると考えられる。落書きとまでは言わなくとも、著作者の思いも寄らない利用のされ方はじゅうぶん現実的な話である(個人の表現とはいえないし、いくつか問題を残したとはいえ、モナーのまネコおよび「恋のマイアヒ」の例など)。
これは、ローレンス・レッシグらが指摘する「権利の所在が不明な著作物(Orphaned Works)」の問題とも論点が重なる問題であるが、期間延長を考える場合、少数の作家の権利はもとより、デジタルの海に眠る(もちろんデジタル化されたものばかりではない)これら膨大な表現に着目することが不可欠となるはずだ。
もう一点は三田誠広氏の提案に関してだが、三田氏が言うには、著作権の許諾システムを構築し(たぶん音楽業界ですすめられているネット配信の有料ダウンロードシステムのようなものをイメージすればいいか)、作家存命中から作品のデジタルアーカイヴ化を充実させておくというもので、このシステムが機能すると、絶版されたものであれ、著作権が切れても死蔵からは免れる、ということになる。
しかし、これもまた、著作権の問題は少数の作家が占有しているものだという前提から把握されたものにすぎなくないか。福井氏は、上記三田氏の提案を受けて、そのようなシステムは可能なら整備されることが望ましいが、海外のものも含めたシステムの統一は現実的に困難であり、延長論議はこの許諾システムが実現したのちになされるべきだ、とした(延長したまま、システム構築がけっきょく果たされなかったり、延び延びになったりした場合を考えてみよ。ひとたび延ばせば戻すことは困難なのだ)。いずれにせよ、許諾システムが網羅できる表現・著作物は、大手出版社から刊行される、総表現中ごくわずかなものに限られるだろう*3
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付け加えておくと、視覚障害者や本のページをめくるのに支障をきたす障害者にも「青空文庫」は役立っているという富田氏の発言(視覚障害者にとってデジタルベースのテキストは、モニター上で拡大したり点字化・音声化したりすることが容易になるのだという)に対して、三田氏は、私たちもまた権利を主張しているばかりではなく、政府に対して視覚障害者のためにデジタル化した作品(のネット配信)をフリーで享受できる環境構築支援を提案し、このほど実現することになった、つまり視覚障害者には私たちは権利を放棄したのだ、ということを述べた。
僕は、文学に携わる者によるこの提案を素晴らしいものだと思うし、三田氏がこの問題に関して著作権者と福祉関係者との折り合いをつけるべく尽力されてきたこと(テキスト1)(テキスト2)はもっと評価されるべきだと思うけれど、ただ、障害者に対して権利を放棄なり譲渡したという側面(著作権の権利制限という側面、つまり表現者著作権と障害者の読書権の対立という側面)ばかりではなく、いままで読めなかった、読むことが困難だった人たちに対しても(読まれる)「権利」が拡大したんだ、という作家にとってはラッキーな側面もあることを忘れてほしくはないな、と思った。要は、総表現・総消費社会なのだ。
既成の作家がどれほど自分たちは偉いと言ったって、文学研究をしている僕でさえ、いまや、お金を取らないブログや同人誌やらと、それ以外のものとの情報摂取量の割合は、半分半分なのである。

*1:ただし延長したらしたでかまわないという立場。

*2:この点に関しては、参考サイトとしてCopy&Copyright Diary

*3:ネット上の表現をはじめ、新聞・雑誌媒体、同人誌や地方・マイナー誌をふくめれば総表現量は尋常ではない。むろん、人に見られたくない表現も山ほどあるわけだ。ただし、テキストレベルの総表現デジタル化の問題は、プライバシーや著作権の問題によって現状は後退したものの、グーグルの「ブックサーチ」とかアマゾンの「フルテキストサーチ・サービス」「なか身!検索」のようなシステムが直接間接の引き金になって、ひょんなことでいっきに解決・実現してしまうというような、頼もしいというかおぞましい気が今からしないでもないのだが。