感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ミニマムな歌声を聴く――阿部和重『ミステリアスセッティング』

ミステリアスセッティング

ミステリアスセッティング


「少女の悲痛な歌声が、奇跡を起こす」という帯に巻かれた阿部和重の『ミステリアスセッティング』は、吟遊詩人になることを夢見、歌とともに生き続けたいと望む少女を主人公に置き、その彼女にクライマックスで「小さな歌声を上げ続け」させるに至るまで一貫して「唄うこと」にまつわる話をくりひろげるその印象から、一読「唄うこと」が主題だと言ってしまいたくなるし、それはそれで確かにその通りなのだけれど、より厳密に言えば、歌を「聴くこと」が主題なのではなかったかと考えてみると、いろいろ腑に落ちるところがあるのではないか。
というのは、主人公の少女・シオリが実は音痴で、その結果ひとを苦しめたり、可愛がっていたインコを死に追いやったりしたのだと考えはじめる彼女は、それ以降唄うことを自ら禁じ、むしろ聴く側にまわるから、という理由ばかりではない。そもそも同書の語り手は、シオリの話の聴き手であり(厳密に言えば、シオリの話の聴き手が語った話の、さらなる聴き手が同書の語り手、という聴き語りの反復構造を同書は持つ。以下は、最初の聴き手、つまりシオリから直接話を受けた聴き手を聴き手1とし、その次の聴き手を聴き手2、とする)、その語り手1は、ケータイでしか彼女とやり取りをしたことがなく、物語の最後において、シオリの歌を「幻聴」として聴くことで語りを終えるのであり、聴き手2(をふくむ複数の聴き手)がこの聴き手1の話に引き寄せられるのも、シオリの唄う歌が磁力のように引き付けるからだ、と語られるのである。
さらに言えば、シオリ以外の人物は比較的、直接話法で台詞が引用されているのに対して、シオリの台詞は間接話法で地の文に埋め込まれており、その意味でも、徹底的に(直接的な)声が封じられていると言うことができるだろう。
要するに、同書は、主人公が唄う歌に直接重きを置いているというよりも、その歌(をはじめとする泣き声や台詞)を聴くこと、聴く側のほうに要点があるのである。
だから、同書は間違っても、人々や運命によって虐げられ続けた女(の受苦的な歌声)こそが世界を救う、というようなありがちな感動悲話ではなく、したがって、帯にある「2011年の『マッチ売りの少女』」という謳い文句を鵜呑みにするべきではない。この点、同書は聴き手(読み手)のモラルを試しているといっていい。与えられた何ものかに対して、シオリをふくむ様々な作中人物(もちろん語り手も含まれる)がどのように反応し、聴き届けたのか、を私たちは読みとるべきだし、結論から言えば、同書の作中人物は総じて聴き誤り続けるのである。というより、それが誤りなのかどうかさえわからないまま、その堆積がシオリにまつわる物語を形作っていくのであり、けっきょくここでもまた、私たちは実に阿部的な物語の相貌に出くわし*1、絶句するのであった。


阿部和重は、同書を発表する媒体として(字数・文字面積が制限される)ケータイを選んだ。その理由について、これまで培ってきた文章表現や文体の癖なり余計な部分を極力排除し、ミニマムなものにしたかった、という発言をしている(http://clubaa.asahi.com/services/ms/interview.html)。
「鳥」繋がりやら、「革命」繋がりやらで、『ミステリアスセッティング』は『ニッポニアニッポン』なんかと類似点が見出せるだろうが、それより、表現をミニマムなものにした結果、これまでの作品の、阿部的なものが最も見やすい形になったものが同書だといえるかもしれない(しかしこれも一つの「幻聴」に回収されるのだろうか)。
東京タワーや国会議事堂の下方に、スーツケース型核爆弾(らしきもの)を持ち込む、という阿部ファンならそれだけで不遜な意図を読み込みたくなる欲望は(それは幻聴だ!*2)、ここではとりあえず省こう。確認すべきは反復構造だ。ミニマムテキストと言うにふさわしく同書は、呆れるほどの反復構造によって構成されている*3。物語は大きく分けて二部構成をとっているが、最初のパートは、インコの群れの死が枢要なプロットを占める。そこでは、インコたちはその大量死を狙う「テロ」に巻き込まれた、ということが示唆される(もちろんこれも真偽が定かでない「幻聴」の一つだ)。これは、次のパートにおいて、シオリの死となって反復される。彼女もまた、大量死を狙うテロだか革命だかなにやらわけのわからぬ動きに巻き込まれた、ということが示唆されるのだった。
また、シオリの死は、インコの死に対する彼女なりの罪意識によって間接的に(要するに、いくつもの「聴き間違い」「幻聴」めいた伏線を通して)駆動されたものである。インコに対する無理解と、その結果もたらされるインコの大量死に対する罪意識、である。この物語内容の反復は、語りのレベルを呼び寄せる。つまり、シオリに対する無理解と、その結果もたらされるシオリの死に対する罪意識が、聴き手1の語りを駆動するわけだ。語りによる免罪である。
そしてさらに、物語の形式においても反復が律儀に描かれることになる。前述した通り、聴き手1はさらなる聴き手を呼び寄せ、この聴き手2の語りによって、とりあえず同書の物語の体裁がとられるのである*4
ここまで見てみると、少女の「愛くるしい小鳥たちの可憐な鳴き声にも似た、甘く切ない涙の歌声」(245頁)が、時代を超えて聴き語りを呼び寄せている、というよりもむしろ、ミニマムな聴き語りのたえざる反復の、一断面を切り取ってみた或る部分が『ミステリアスセッティング』なのだろうと言いたくなる。他の断面を切り取ってみたら、『ニッポニアニッポン』になったり、『ABC戦争』になったりするんじゃないか。
ケータイというメディアに魅了されながら、なるべく左右されないようにすると嘯く阿部和重なのだけれど、かほどにミニマムなテキストを体現することにおいて、メディアに忠実というか染まりやすい特異な感性を持ち合わせているところを、改めて再確認できたと思う。
ちなみに、同書のタイトル「ミステリアスセッティング」は宝飾技術の一つで、つまり、「通常の宝石では、プラチナや金の爪で上から押さえて留められているところを、宝石の有する美しさを地金によって制約されることなく、その輝きを存分に生かすことのできる高度な石留め法である」と、同書でも説明されている。「ミステリアスセッティング」と名指されたスーツケース型核爆弾の影のない光線によって包み込まれたシオリが死んだのかどうかは定かではないし、シオリの話がどこまで現実なのかどうかも問題ではない。この余分なものを一切取り除いたミニマムな「ミステリアスセッティング」なるものを聴き語りの中心に置いてそれが爆破によってただちに粉々になるその音――のなかから「少女の悲痛な歌声」――を聴き届ける/誤ること。『ミステリアスセッティング』はその「奇跡」の一つの形なのである。

*1:ディスコミュニケーションと幻覚・妄想癖!!

*2:むろん、文中に「Waterloo Sunset」を引用しているからといって、さすがに阿部は文学の外やサブカルに強いとかなんとか、いい加減な説明をして納得したがる声も幻聴だ。ロックバンドのファン兼マネージャーになるシオリは、阿部が愛読する『NANA』のハチ役だとかいうのも同様。同書は読み手自身の欲望を極力抑えるエクササイズでもある。この本を読んでいると、聴き手に徹するということがいかに難しいかを知らされるだろう。

*3:反復と言っても、「聴き間違い」「幻聴」をはらんでいる以上、当然たえずずれるわけで、たとえば阿部和重特有の、事の結論・結果を段落の最初に打ち出しながら、事の真相をゆっくり明らかにしていく反復的な倒叙法もまた同書に健在で、各所に不調和を差し込みながらとんでもないラストに駆け抜けていくのだった。ミニマムな図式としてみれば、たえざる「聴き間違い」「幻聴」がむしろ反復を呼び込むのである。

*4:聴き手2は、「ミニマムたれ」という作家の期待通り、きょくりょく余計なものを省くべくミニマムに聴くことで、聴き手1との懸隔を合せ鏡のように縮めようとしているようだが、無論その差を埋める保証はどこにもない。そういえば、ナナとハチも、二人の物語が終わった時点から、すでに共有できない物語をめぐって各々が聴き手を仮構しつつ回顧するという体裁をとっていたのだった。「ねえナナ」「あのさハチ」…。