感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

2人称の活用法

批評をやっていると―私は文学クレーマーだが―、作品評価というものについて考えることがある。文芸批評は、根拠のない誹謗中傷や、たとえ根拠があっても行き過ぎた罵倒を行いがちであり、それが文化的営為として(?)なんとなく放免されてきた―作家にとってはたまったものではないだろうが―という歴史がある。

それらは現在検証してみればハラスメントやクレームでしかないものも多々あるだろう。評価をする作品は著作物であり商品なわけで、この側面を忘れて行われる批評は、文化的営為という口実に甘えていると言われても仕方がない。Amazonの低評価レビューが信用毀損罪で罰則を受けた事例は文学クレーマーとして他人事ではないわけだ。文学と比べると軽音楽のような、商品的な価値が自明な業界では批評が成立しにくいのも、むろん良し悪しあるだろうが、参考にすべきところがある。

文学史を振り返ってみると、文芸批評が誰にも相手にされなくなったゼロ年代には、書評―もしくは書評的な批評―が業界では重宝されることになるのだが、批評のクレーマー体質を批判し、場合によっては「絶対に作品を否定しない」と口にする評者も登場する。ただしそれがまた、何かしら徳のあるような倫理的意味合いを持ってしまうことにも注意すべきである。端的に言ってそのような評価は、別の業界ではステマと蔑まれる行為であり、下手をすれば消費者に対する詐欺になりかねない。

そもそも絶賛したくなる作品などそう多いはずはないわけで、時評などでいつも褒めている人を見ると疑いしかない。私は『ファミ通』のクロスレビュー世代だから、評者4名全員が8点以上を出すゲームがどれほど希少なのか、まして40点満点はほぼ神の域に達するものであることを知っている。神が出る回はほどほどにしてほしいものである。

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先日、三島由紀夫賞の発表があった。受賞は宇佐見りんの『かか』だった。私が唯一否定的に言及した作品である。そこで当該作の何が評価されたのかを考えた。このところ気になっていたのは、2人称の活用である。三島賞のノミネート作の中では、当該作に加え、崔実の「pray human」も2人称を活用していた。最近刊行された早助よう子の作品集『恋する少年十字軍』の表題作も2人称だった。

2人称の活用例はそれほど多くはないので、やはり目立つ。何故2人称なのかが問われやすいわけだ。まず『かか』は2人称を利用する意味を見出せなかったというのが、私の中で評価が上がらなかった理由である。

小説において2人称を用いる場合、大きく分けて2つの機能がある。まず1つめは、1人称が2人称に呼びかける・報告するスタイルであり(1人称的2人称スタイルとする)、『かか』と「pray human」はこれに属する。いわゆる書簡形式で、他にも色々な作品の中で部分的に用いられることはままある(超絶有名なのは漱石『こころ』の遺書)。

もう1つは、3人称が2人称を呼称するスタイルである(3人称的2人称スタイルとする)。ただし3人称というと正確さに欠ける。要は、作中人物ではない話者が特定の作中人物に対して2人称を呼称する方法。有名なのはビュトールの『心変わり』(1957)だが、「恋する少年十字軍」もこれ当たる。Twitterでもすでに言及があったが、倉橋由美子スタイルといってもいい。

1人称的2人称スタイルと3人称的2人称スタイルは様々な変奏がある。倉橋の『パルタイ』(1960)は、3人称的2人称スタイル的だが、1人称が存在するので、折衷といったところか(1人称的2人称寄りの3人称的2人称スタイルとするが、もはやなんのことか不明)。「ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた。わたしはあなたがそれまでにも何回となくこの話を切りだそうとしていたのを知っていた」。

文壇で2人称が話題になった直近の事例は、2013年上半期の芥川賞を受賞した藤野可織の『爪と目』である。当該作の2人称活用は基本『パルタイ』に近く、1人称的2人称寄りの3人称的2人称スタイルだが、渡部直己が「移人称小説」の1例として紹介・評価したことでも知られる。

「移人称小説」とは、ゼロ年代から10年代前半にかけて流行った、複雑な人称操作を試みる叙述が際立った作品の総称である。言い換えれば、「移人称」をはじめとするトリッキーな叙述の文脈において2人称活用も注目されたわけだ。

3人称的2人称スタイルは、2人称活用本来の呼びかけ機能(私はあなたに伝える)がペンディングされる。読者の視点から見ると、「あなた」と呼びかけられているにもかかわらず、誰が何を報告しているのか不安な状況に置かれる。結果的に、物語や主題に対して、叙述が際立つことになる。

1人称的2人称スタイルは、2人称活用本来の呼びかけ機能に依拠しており、手法としてはオーソドックスなものである。呼びかけは必然的に主題を強く招き入れる。私はあなたに伝えたいことがある。

まとめると、3人称的2人称スタイルは叙述に特化し、1人称的2人称スタイルは主題に特化する、ということになるだろう。

3人称的2人称スタイルをふくむ「移人称小説」は「保坂スクール」に多く見られると言及した佐々木敦の発言がある(『小説技術論』渡部直己)。偶然の符号だが、『爪と目』が芥川賞を受賞した回にノミネートされていた作品に、いとうせいこうの『想像ラジオ』がある。当該作は1人称的2人称スタイルの典型である。2人称呼びかけのスタイルによるものであり、なおかつ東北大震災という強烈な主題を持っていた。いとうせいこうが主題と呼びかけという発話スタイルを併せ持って10年代に復活したことを分析したのは、主題の積極性を提唱する矢野利裕(「無数のざわめきとともに騒げ!―いとうせいこう論」『群像』2019・4)である。

むろん、1人称的2人称スタイルが、こと10年代に増えたということはないだろう。しかし、2人称に限らず呼びかけ・報告のスタイルが乗代雄介をはじめ―九州芸術祭文学賞出の小山内恵美子「あなたの声わたしの声」(2018)も思い出す―、独特な叙述をともなって登場している点に注目しておきたい。

呼びかけも様々な方法がある。これまた偶然の符号だが、宇佐見りんが受賞した時の『文藝』2019年冬号には、いとうせいこうが「うた・ラップ・小説」と題して町田康と対談をしている*1。その『文藝』の、村田沙耶香との受賞記念対談で、宇佐見が『かか』の叙述について「日記の他者化」と自説しているところは興味深い。抽象的な1人称でも3人称でもうまくいかず、「うーちゃん」というプライベートな1人称呼称が弟の「みっくん」に呼びかけるスタイルによって「日記の他者化」が可能になったという。

自分にとって親密な他者を立ててそのつど呼びかけること。その呼びかけは、抽象的な他者に向けて明確な主題を伝えるシンボリックな呼びかけではない。シンボリックな呼びかけの場合、呼びかける主体の輪郭は明確である。では『想像ラジオ』の呼びかけはどうか? 呼びかけの主体・DJアークは、死者というその決定的な輪郭のなさ・不在性ゆえに強固なシンボルを逆説的に招き寄せていたのではないか。

一方、「うーちゃん」の呼びかけは、何かを伝えるというよりも、いまにも溶解する自分(と世界の関係)を繋ぎとめるために必要とされているようである。当初私が期待していた2人称とは別の機能を、作家は2人称・呼びかけに与えていたのかもしれない。こう解釈すると、乗代雄介の「私」と「ゆき江ちゃん」とのファミリーリセンブランスな関係にも重なってくるし、文脈しだいでは遠野遥にも重なる。

そういえば、SNSでは、宇佐見りんは神ならぬ「天才」「奇蹟」という称号が早速与えられつつある。おそらく独特の叙述によるものだろうが、『かか』の叙述はその風変りさよりもむしろ、使用する語彙を限定するなど統制・調整されているところが重要で、要はこれは「家族語」なのである。良くも悪くも読者を選別するだろう。

*1:『群像』10月号では、いとうは崔実と「pray human」談義をしている。1人称的2人称スタイルの守護神のようですらある。

第33回三島由紀夫賞雑感

誤解を恐れずに言えば、文学が哲学などの営為と決定的に異なるのは、読者がいることである。いくら手法を研ぎ澄ませ、思弁的になっても、読者が付いてこなければ意味がない。読者層をどのレベルに想定するのかはその次の話だ。

平成文学は、女性・非男性作家の進出が目立ったが、他にライトノベルケータイ小説など中間小説的なジャンルの生成が際立った。見方を変えれば、読者が細分化し―それが可視化され―た時代である。

9月17日は、第33回三島由紀夫賞の選考がある。対象作品は純文学から選ばれる。純文学は市場の影響を直接受けないジャンルなので、各文芸誌が設けた新人賞と文学賞が作品評価の1つの指針となる。文学賞は文壇ギルド(大宅壮一)の徒弟制度的な側面を持つが、世間に向けて「これがよい作品です」というアナウンス効果の側面も持つ。

そういう意味では、文学賞は、インフレにならない程度に色々あった方が楽しいとは思う。短篇小説を対象とした川端康成賞は、1974年から続いていたが、財政上の問題などから昨年休止が発表された。有志が集まり、クラウドファンディングの活用を含めどういった形態であれ存続できなくはないと思うのだが。川端は修士論文でお世話になっているので、私がやりたいくらいである。

三島由紀夫が没後50年なので、三島賞はもっと盛り上がってよいはずだが、そうでもないらしい。三島賞(新潮社)は1988年開始でそう古くもない文学賞だが、芥川賞文藝春秋)・野間文芸新人賞講談社)とあわせてメジャー文芸誌による「三賞」の一角を占める。

三島賞が注目を集め始めたのは、2000年に島田雅彦福田和也(当時39歳と40歳)を選考委員に招き入れ、平均年齢をいっきに下げる体制を敷いた時である。その島田+福田を加えた新体制の初年に星野智幸が受賞、翌年には青山真治中原昌也がW受賞、02年に舞城王太郎が受賞した頃は、保守本流芥川賞に対抗する三島賞の存在感が際立っていた*1

ただし、芥川賞が、小川洋子川上弘美を選考委員に加えた07年あたりから急激に若返りを進めた(というよりも80年代以降にデビューした作家が順当に選考委員に組み込まれた)こともあり、芥川賞ばかり注目されるようになった半面、三島賞の独自性はなくなった。

そんななかで、今回の三島賞には注目している。河崎秋子の存在である。彼女はこれまでエンターテインメント文学の文脈で評価されてきた。またメジャー文芸誌の出自ではなく、地元の北海道でキャリアを重ねてきた作家(元羊飼い)だ。いわば純文学=文芸誌体制とは別の生態系にいるわけである。

今回ノミネートされた5作品はほぼ横並びでどれも面白く読んだが(ただ『かか』は分量が少ないぶん印象が薄いのは否めない)、私の感想は、河崎秋子『土に贖う』と千葉雅也『デッドライン』が若干抜けているように感じた。

5作品の主題をタグ付けすると、『土に贖う』が「#北海道」「#労働文学」、『デッドライン』が「#ジェンダー」「#院生」、宇佐見りん『かか』が「#家族」「#精神疾患」、崔実「pray human」が「#性暴力」「#精神疾患」、高山羽根子首里の馬』が「#沖縄」「#歴史の記録」となる。

どの作品も主題が明確。なおかつ『土に贖う』以外は、物語よりも手法優先型である。言い換えれば、『土に贖う』以外の4作品は、手法優先型だが、いずれも主題が見えやすい。これらは、主題と手法の「だらしない結びつき」―主題を利用した手法の「ごまかし」―があるだろうか? 矢野利裕に聞いてみたいところである。

『土に贖う』は、2016年から4年間かけて発表された短篇7作を、「北海道」「労働文学」を一貫する主題としてまとめたオムニバス作品である。時代背景は明治から現代(とくに昭和)までの日本の近代であり、北海道を舞台に、それぞれの時代をそれぞれの農民・労働者たち―札幌の蚕業、茨散沼のミンク業、石狩のハッカ栽培、放浪する海鳥狩り、札幌近郊の蹄鉄業、野幌のレンガ工場と陶芸―が営む生を物語る。彼らの生は時の経済や政治(戦争)によって翻弄される。

文学史的には、農民・労働者にフォーカスしたプロレタリア文学はエンターテインメント文学と親和性が高い。疎外論は物語の定型と馴染みやすいし、読者もまた物語を求めている。木村友祐の作品がエンタメ的と指摘されるのは必然的なところがある。

『土に贖う』もまた物語を積極採用している。エンターテインメントの作家による作品らしく、手法よりも物語が前景化する。ただし、河崎秋子が特異なのは、物語を手法として活用しているところにほかならない。むろん物語も手法の1つである。河崎は、単に労働者たちを物語の定型に落とし込んだのではなく、物語の定型を生きざるをえない労働者たちを描いたのだ。「ああ、こういうものかと状況を存外冷静に受け止めている自分がいた。為されるべきことが為されているのだ。皆が認めていることだ。そう思うと体が弛んで、男の汗ばんだ体の重みを受け入れていた」(89-90)。「戦争が始まると、上の兄から順々に兵隊に取られ、家族は食い扶持が減るからとむしろ喜んで送り出した」(202)。私たちの生は、散文的なものだが、物語の定型を生きさせられる側面があることもまた事実だ。彼らの生を描くために物語が手法として必要だったのである。

『土に贖う』は、5作品の中でいわゆる手法から最も遠いように見える。しかしそこには、手法―物語を採用するという手法―に対する冷徹な自己言及が裏書きされている。

純文学は、市場で売れるよりも文芸誌に掲載されることが重要視される。だから、エンターテインメント文学の物語よりも手法―文体や叙述ともいわれる―に存在意義を見出しがちである。物語と手法。物語はグローバル化しやすいが、何かを抑圧することによって成立する。手法は抑圧を批判するが、その洗練はしかしガラパゴス化しやすい。

ところで、円堂都司昭が、高橋源一郎の発言を引いて、平成文学は「主題が東京から地方へ移った」と解説している。

https://realsound.jp/book/2020/09/post-615756.html
IT革命、ケータイ小説ライトノベル……“ゼロ年代”に文学はどう変化した? 文学批評の衰萎と女性作家の台頭

ただし、主題は多様化したとはいえ、実態は東京1極集中、というのが平成文学以降のポストコロニアルな現状ではあろう。東京に住んで長い私が地方文学の件について雄弁に語る資格はない。同人誌の通販に関わってみて実感したのは、地方からの購入者が絶望的に少ないことである(東京近県で7割程度を占め、東京・神奈川・千葉・埼玉・大阪・兵庫・愛知以外は1割程度ではないか)。

北海道は高等教育機関が比較的多いので、購入していただいた方は地方の中でも多い方である。昨年12月に『現代北海道文学論―来るべき『惑星思考』に向けて』が刊行されている。そこには河崎論があり、また河崎自身の評論もある。14年刊行の『北の想像力―《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅』もふくめ、編著者の岡和田晃の仕事は貴重である。

これからは東京の体力もなくなっていくので、現状を批判しても意味がない。私にできることは何もないが、お世話になった姫路市長野市の高校に『文学+』を自腹で寄贈させていただくことくらいならできます。すでに1校寄贈させてもらいましたが、興味のある教員・司書の方は、注文フォームの「創刊号(定価1,200円)もお買い求めの方は、こちらに部数をご記入ください」欄にその旨を記載して送ってください。
注文フォーム↓
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*1:ちなみに、2000年前後といえば、文芸誌における文芸批評に地殻変動があった時代でもある。福田は1997年から『新潮』新人賞の選考委員だったが、その新人賞に99年から評論部門(07年まで)が追加される。03年から04年に島田の「無限カノン3部作」をめぐって島田と福田の(自作自演的な?)論争が『新潮』誌上で展開されもした。伝統的に批評に熱心ではなかった『新潮』が福田のもとで批評に寄り添った時代がゼロ年代の前半である。一方、『群像』は、99年に新人賞の選考委員を柄谷行人が降り、翌年から加藤典洋がその座を占めることになる。福田に限っていえば、03年の『en₋taxi』創刊あたりから文芸誌周辺で何かを仕掛けることに飽きたのではないか。

柄谷行人・遠野遥・小川洋子・百田尚樹

戦後75年目の8月も過ぎようとしている。台湾のデジタル大臣がインタビューのなかで、柄谷行人の読者であることを話し、SNSの話題になった。2000年前後までの批評界のスーパースターだった柄谷は長らく敬遠され続けた存在であったのだが。

https://toyokeizai.net/articles/-/363750
「台湾デジタル大臣「唐鳳」を育てた教えと環境」、『東洋経済』2020・7・4

最近のコロナ禍などでの台湾の「成功」事例を聞くにつけ、コミュニティーのサイズ感は台湾くらいがちょうどよいのかもしれないとは思う。ただ、億単位いると生まれる文化的多様性というのも実は魅力的なはずで、とはいえそこに生じる政治的な分断をどう考えるのかということになると、アソシエーションの発想が有効なのだろうが、柄谷はそのアソシエーションを具現化したNAMの「失敗」で不当に敬遠されている。2020年代は再評価されるだろう。その意味でも近著のアソシエーション論(仮題『ニューアソシエーショニスト宣言』)には注目している。柄谷は嫌いなままでも、アソシエーションは嫌いになりたくないものである。

SNSでは、直近の芥川賞を受賞した遠野遥の談話が衝撃をもって一部話題となった。
https://www.sankei.com/life/news/200824/lif2008240005-n1.html
「円滑なインタビューのために」、『産経新聞』2020・8・24

主題の積極性を軽くディスっているところなど一々興味深い内容だが(『破局』の主人公に似ている)、なにより注目したいのは、インタビュー形式をふくめ文壇政治の作法を批判している点である。遠野にしてみれば、蓮實重彦三島賞受賞会見(2016)を意識していたわけではなく、至極素朴な感想なのだろう。

作家が自分の陣地である文壇に対して素朴な違和感を表明することすら聞かれなくなって久しいが、こんなふうにイロニーでかわす受けごたえを見るのは村上春樹以来である。「何かを伝えたいなら、小説を書いて伝えようなんて迂遠なことはせずに、友達に話したり、SNSに書いたほうがいい」なんて最高ではないか。この令和2年の遠野談話は、文学史を記述するにあたって今後いくども振り返りそうな気がする。

平成の純文学は、悪びれもせず物語に特化した村上春樹に対して「文学は物語に依存してはならない」と批判することに何かしらの意味があった。その村上春樹は、日本の土着的な文壇政治―文芸誌体制と文学賞―をディスり続けた特異な作家だが、この2010年代は、文芸誌関係以外の仕事が目立たず、川上未映子と対談するなど、すっかり文壇の人におさまった感がある。

他方、2010年代は、普通に物語も面白い純文学作家が複数現れた時代である。純文学ゆえに特権化されていた、村上春樹の物語―村上春樹いわく物語=無意識であり、それは純文学が抑圧した無意識でもある―は今やありふれているのだ。ということは、物語批判も形骸化するほかない。主題の積極性が称揚される時代である。

8月6日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事も話題になった。小川洋子「死者の声を運ぶ小舟」
https://www.nytimes.com/ja/2020/08/06/magazine/atomic-bombings-japan-books-hiroshima-nagasaki.html

この記事は留学生相手の授業で扱った。留学生向け講義(日本語)は10年以上担当しているが、長いこと戦争を素材にしたテキストは扱わなかった。当該授業は中国人を中心にアジアからの留学生が多数を占める。私はどうしても加害側に立って話すことになり、議論をまとめるのが正直しんどい。しかし最近は厚かましくなったのか、扱うようになった。

原爆については日本の加害性を隠蔽しかねないので、そこのところも踏まえて話すのだが、学生からはやはり「アジアにとっては原爆はやむをえなかったと考える人が多い」という意見もあった。

小川洋子の話はSNSで評判がよく、特に最後は私も胸がつまるものがあった。よい文章だと思う。「忘却・喪失に抗する」という話は、小川節炸裂といったところなのだが、しかし日本人には聞き心地がよく、感動的に過ぎるという印象も受ける。『ニューヨーク・タイムズ』の読者にもこれは無害で「いい話」なのではないか。

小川が取り上げた原民喜はまだ原爆と距離が取れていないわけだが(戦後間もないから当然)、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』は複数の政治的な視点が入ってくるし、井伏鱒二の『黒い雨』はどこまで掘り下げても中心(解決)にはたどり着かないという原爆問題の不可解さ―あるいは記憶の忘却―が裏テーマになっていた。

しかし、原爆は忘却にさらされているというのは本当か? 広島と長崎は確かにそうなのだとしても、たった10年前の、2011年の福島では「私たちはその脅かされた原子力に何故依存しているのか?」という問いが顕在化したはずである(『脱原発「異論」』2011)。文学がこういった現在進行形の側面を見ないで済ませるために死者を利用するような感動装置にならなければよいのだが。

東日本大震災文学(震災後文学)を、戦争文学(戦後文学)より軽視する向きに同意できないのは、原発なるものは、自衛隊(9条)とは別の形で、戦後における「軍事・武力の平和利用」という点で天皇制と同じ根深い問題を提起しているからでもある。2011年以前から、原子力災害のモチーフはサブカルを中心に様々な作品に反復的に取り上げられてきた。原爆/原発は風化間近な記憶の底にあるものではなく、私たちの生を支配している。

現代は、倫理的な問題を市場の原理と切り離して考えることが困難になった時代である。ネット右翼を中心とした保守は市場の原理を露悪的に示す主張をしており(その典型が表現の自由としてのヘイトと自己責任論)、リベラルは正義でもってそれに対抗しようとするが、自分たちの生を支配している市場の原理をどう取り込むかが問われていない。東京オリンピック大阪万博に対する、リベラルのSNSにおける超絶いい加減な反応―オリパラなんて電通案件だからやめてしまえだの万博ロゴは維新抜きに評価するだの―を見てもわかる。むろん超絶いい加減でいいのだが、それを正義の言説で語ろうとするところに問題がある。

当然、文学もまた商品である。純文学は物語を積極的に取り入れ、「ほどよく面白くてほどよく考えさせられる」作品―横光利一「純粋小説論」(1935)の理想型―が多く見られるようになった。最近リニューアルした文芸誌は各誌程度の差こそあれマーケティングを導入し、その傾向は今後なお強まるだろう。しかし、私は、柄谷行人の「近代文学の終り」(2004)が予言したように、純文学も単なる商品になるとは考えていない。文芸誌に発表し文学賞を受賞すれば―もしくは物語批判をすれば―商品以上の文学的なアウラが宿る、というような特権がなくなったにすぎない(まだ内側にいると特権があるような錯覚があるが)。

横光利一は、文芸復興の時代(昭和8‐10年)に「純文学にして通俗小説」を提唱した。元々モダニズムの作家として登場した横光たちは、技法を研ぎ澄ませ実験的な作品を連発したが、その結果、読者を切り落とし、閉塞的な状況が生まれた。時は戦争前夜であり、自由な創作活動もかなわなくなる。そこで、活況を呈する通俗小説から物語や主題を取り入れようという理論を立てる。「純文学にして通俗小説」。おそらくこの方向性は間違っていない。彼は理論家としては優れていた。しかしイロニーやユーモアを解さない、というかそのレトリックを致命的に欠落させた作家だった。超絶自分の欲望に忠実な川端康成谷崎潤一郎と比べると、頑なに正義の人だったわけだ。その結果は『雪国』『細雪』と『旅愁』の差に現れている。横光の方が商品としての文学作品を熟知していただろうが。

百田尚樹本がいくつか出ている。『百田尚樹をぜんぶ読む』『ルポ百田尚樹現象』には勉強させてもらった。リベラルからの検証は貴重なものだと思う。ただ、「モンスター」「現象」といった形容をするあたり、百田たちの陣営を持ち上げ過ぎのように感じることもある。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/ishido20200620_jp_5ef0079dc5b60f5875985e8d?fbclid=IwAR27YsCg8K-0PnPCD_fim6XkMr0d1CJYGIH0QzKPCLyHxn2w-0oGceMLPyc
百田尚樹小林よしのり。「右派本のマーケット」をつくった2人の決定的な違い」、『HUFFPOST』2020・6・24

1990年代の小林よしのりゴーマニズム宣言』には、リベラルの「自虐史観」に対する批判があり、彼が差別的な表現(日本の侵略戦争肯定)をする時は、リベラルの良識・偽善を批判するという方法論的な意味があった。当時「てんかん」差別が話題になった筒井康隆の「ブラックユーモア」も同じだろう。批評だと、加藤典洋の保守がこれに近い立場である。『批評空間』が代表するリベラルの抽象的な理念を批判して、身体性や経験則、もしくは大衆に付くという立場。

ゼロ年代に入ると、『嫌韓流』(2005)に象徴されるヘイトはその方法意識すら脱落させて、単に差別のための差別、露悪的な差別になる。そのようなコンテンツを消費する層が一定いることが明らかになったため、そこをターゲットにして利益と承認欲求を満たすプレイヤーが登場した。

そういうノリで中国韓国叩きをしている人たちと対話をしても時間の無駄だとしか私には思えない。むろん私がやっていることも、彼らより価値があることだなどと思ってはいないが、人生はそう長くはない。リベラルは今まで通り適宜ファクトチェックをして批判をし、自分たちの楽しいことをやればよいと思う。社会の分断を背景に人民戦線的な発想が出てくることはよくあることだが、残念ながらうまくいったケースはない。

まして日本はこれから急速かつ壊滅的な人口減少が避けられない。現実と向き合うということが保守なら、いまや百田たちの方がよほど空想的―前回の言葉でいうと「おじさん」が夢見るファンタジー―ではなかろうか。いずれにせよ、ネット右翼を含むヘイト・マーケットも今後先細りをし、プレイヤーは分断・細分化したパイを取り合うことになるのだろう。ちなみに、この8年間ほど日本の政権を誰が担ったのかについては、脳内シュレッダーにかけておいたので、私の記憶には存在しない。

他方、百田たちの側に立ってみるとどうだろうか? 文芸誌体制と文学賞に守られた純文学は、彼らにとって存在自体がハラスメントな―そういえば最近芥川賞の選評がなんでこんなに偉そうなのかと思うようになったのは年を取ったからだけだろうか?―既成利益団体にほかならず、自分たちは自らの手でマーケットを刈り取ってきたという自負があるはずだ。前回の話でいえば、純文学を中心とした文学制度こそぬるい「おじさん」で、百田たちは孤独な被害意識(ルサンチマン)のもとに陣地戦を繰り広げてきたというわけである。

1990年代後半からゼロ年代に行われた純文学論争は、エンターテインメント文学(市場原理)からの攻撃に対して、文芸誌=純文学は「価値の多様性を守る」という大義名分があった。しかし今や「価値の多様性を守る」といっても、結局は自分たちの利益(文学的なアウラ)を守っているだけではないかという目で見られているのである。これは国語科改革―実用文採用による文学的教養の相対化―と同じ発想だが、この発想は空想的被害妄想的だろうか?

PC批判と文化的盗用

こんにちは、文学クレーマーの中沢です。いくらイキってみても、世間的には、批評家はいまやクレーマーでしかないという眩しいツイートを目にして、これほど自分に合った属性表現はないと思った次第。元々批評家ですらないのだが、当面文学クレーマーでいきたい。

文学の現状について、私は、政治・社会的な主題を積極的に取り入れているという話を最近している。そこで、主題の積極性における批評性を考えていた。なんでもかんでも節操なく政治・社会的な主題を取り入れればよいわけではないだろうから。文学は、何でも書きうるが、何も書きえないという側面もまたある。

私は最近、「PC(ポリティカル・コレクトネス)批判」という標語に引っかかるものを感じている。「PC批判」は、リベラルの多様性肯定の偽善に対する批判としてそれなりに有意義なものがあるが、結局はリベラル批判仕草に陥っているところがあり、自分こそPCである-自分にこそ普遍性がある-という逆説に気付いていないことがままある。

ちょうどTwitterを流し読みしていると、「差別も多様性(のひとつ)」という露悪的な主張があった。これも「PC批判」として提示されており、実際にリベラルが叩かれていた。「差別も多様性」というのは、これまでも散々議論されてきた民主主義のアポリア問題のひとつにほかならない。民主主義は、民主主義を批判する声を代表しうるか? 

民主主義は必然的にその批判を内包する。しかし民主主義とその批判は、当然両立しえない。多様性とその批判(差別)も同じである。このアポリアを真として議論していても、相手を打ち負かす享楽に陥るか、シニシズムに陥るかしかない。最近のSNSがその証明を無惨な光景として示している。

ところで、このところ「文化的盗用(以下CA)」というコンセプトが目に付くようになった。Wikipediaでは、「ある文化圏の要素を他の文化圏の者が流用する行為である。少数民族など社会的少数者の文化に対して行った場合、論争の的になりやすい」という説明があるが、汎用性の高さからも注目している。CAは、自分にこそ普遍性(正義)があるというPC(反PC)的な主張ではなく、社会的な分断を前提にした、倫理的・実存的な陣地戦という様相を呈するものだからだ。「お前は俺たち(彼ら)の陣地に突貫する覚悟があるのか?」

CA的な発想は、1990年代にマイノリティーや戦争責任問題が顕在化した時の「サバルタン」に収れんする「代理不可能性」問題とも共有する部分があるが、この「代理不可能性」=「差別の前では沈黙するほかない」なる否定神学は、けっきょくPC的な普遍性に囚われており、反PC(差別も多様性)の裏バージョンだといえる。敵のコマは99、自分のコマはたった1。PCも反PCも、そんな盤上の形勢を一気に逆転する1手(革命?)を夢想する罠に陥りやすい。

今回の芥川賞の選評を読んでいて、島田雅彦は遠野遙を嫉妬しているのではないかという印象を勝手に持ったが(単なる思い込みです)、それは悪いことではない。文学の高齢化は不可避とはいえ、若い才能を読んだときの喜びは何ものにも代えがたいと感じた。しょせん中年男の感想かもしれないが。

最近、倉数茂『あがない』、村上春樹『一人称単数』、松田青子『持続可能な魂の利用』と、立て続けに「おじさん」小説を読んでいる。これらをまとめて「おじさん」小説と一括するのは誤解を招くかもしれない。倉数茂も村上春樹も、「おじさん」の挫折が描かれていて私には共感できる要素があるが、「おじさん」を排除したがっている松田青子作品はそうはいかない。

思えば、齢40代は「おじさん」化との、肉体をめぐる攻防戦だった。白髪に薄毛、代謝が悪く肥満ぎみ、さらには遠視で読書も難儀になる。抵抗はしたが、50を前にほぼあきらめた。ただ、年を取ると読書の共感範囲が狭まるのにはいささか閉口している。たとえば上田岳弘のキャラクターは苦手で、お金にも女にも困ってこなかった実業家が黄昏ている様は、2段3段と意識的に抽象度を上げないとなかなか入ってこない。IT的な事業が順調で、お金にも女にも困ってこなかったが、生きづらさを感じている中沢がいる可能世界を想像することはなかなかハードである。むろんこれは作家が悪いのではない。

いずれにせよ、前回の投稿で取り上げた山崎ナオコーラ「キラキラPMS(または、波乗り太郎)」といい、松田青子作といい、「おじさん」に期待される社会からパフォーマティヴに生成変化する様が描かれているのに対して、男性作家は過去に囚われている様が見られた。陣地を取りに行くか、それとも陣地を守るか?

ところで、芥川賞の前々回の選評では、候補作の古市憲寿作品『百の夜は跳ねて』が評者から痛烈に批判されたことで話題になった。彼に対する、盗作的なニュアンスをこめた批判は不当なものだと思うが、この批判にはCA的な文脈があったのではないか。

古市は、窓拭き清掃員の主題を木村友祐の作品から借用した。木村の作品は参考文献として明記されている。だから批判の余地はないはずだが、芥川賞選考委員の多くが感情的な批判を示した。山田詠美は、「候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」と、盗作よりも倫理的に低劣なものと難じている。

私は、古市の『平成くん、さようなら』以来、芥川賞レースでは古市推しだが(彼は純文学に陣地戦をもたらすピースになりうると考えるから)、『百の夜は跳ねて』では、妙にかしこまった彼のリベラル仕草についてTwitterで不満を述べた。実は私の不満もCAが背景にあり、首相夫人とも懇意な作家が「肉体労働者の生きづらさ」を主題とする倫理的・実存的な理由が見当たらないということにあったかもしれない。

もう少し時間を巻き戻せば、東北大震災を主題とした『美しい顔』に対する批判も、より広義なCA文脈に置き直してもよいだろう。当該作は、当初、参考文献の未記載において批判されたが、SNSを中心に批判が苛烈化するなか、被災地を取材していない非当事者性という観点から批判されることになった。この批判は、当該作を評価した評者にも及んだ(私も当該作を絶賛した)。

しょせん他人事だが、『美しい顔』の作家は、批判を受けて継続的にこの主題と向き合えばよいのにと考えている。「お前は俺たち(彼ら)の陣地に突貫する覚悟があるのか?」

この考えは実存的かもしれないが、私は、文学には倫理的・実存的な価値基準がそれほど重要だと思っていない。主題の積極性を推したいわけでもないし、技巧中心のテクスト主義でもない。ましてや物語が何より大事とも思わない。重要なのは、テクストと同じくらいパラテクストを充実させ、テクストとパラテクストを往還する作業だと思っている。パラテクストとは、テクストのメタメッセージといってもよい。ある主題と腐らず付き合えば、その作家のテクストを支えるあれやこれやの価値基準なりメタメッセージがテクストの周辺に繁茂して見えてくる。文学とはこうあるべきだという普遍的な価値などないのだから、既存の文学的価値や文芸誌体制に寄りかからずに、テクストとパラテクストを往還する様が文学の、純文学しかなしえない、あるべき動態ではないか。

今回の芥川賞でも沖縄や南米を取り上げた作品があったが、最近の純文学では、貧困・ジェンダー・被災をはじめ、他者の政治・文化を主題にする作品が増えている。しかし、果たしてこの主題はこの作家が取り上げるべきものなのか腑に落ちないものもある。『82年生まれ、キム・ジヨン』が、男性作家がすなるものだったらどうだっただろうか? いうまでもなくこの作品は、女性作家が書く以外の余地はなかった(なおかつ「理解のある」男性を話者にしたことに文学的な批評性があるのだが)。

そういえば、『82年生まれ、キム・ジヨン』を手に取ったときのことだが、帯に非男性のコメントがずらっと並んでいるのを読みながら何かしら軽い恐怖を感じたことを覚えている。このとき直観的に、#MeToo運動は意義深いと感じたのだった。これも陣地戦ではある。声に声を積み重ねていくこと。

いま文学の陣地の多くを占有しているのは明らかに女性を中心とした非男性である。これを先導しているのが文芸誌『文藝』であることに異論はあるまい。「韓国・フェミニズム・日本」に続く最新号の特集「覚醒するシスターフッド」が話題だが、これは『L文学完全読本』の斎藤美奈子が2002年に唱えていたものでもある。「21世紀 L文学宣言」。ただし、「L文学」はあくまでも文学にこだわったが、『文藝』の特集は文学が絶対というわけではない。

『男流文学論』(1992)で文学の男性支配に対する批判があり、『L文学』で女性作家の活躍を寿ぎ―「このところ女性作家の活躍が目立ちます」―、「覚醒するシスターフッド」が文学を足場に次の陣地を狙うのか、それとも?

もちろん男性は女性問題を主題に出来ないといいたいわけではない。当事者性からは自由であるべきだ(文学はなんでも書きうる)。ただし、そこには無数に分断された陣地がある。その陣地を読み取る力が試されるだろう。たとえば、2017年9月『早稲田文学増刊 女性号』を受けての2018年5月の『すばる』が組んだ特集「ぼくとフェミニズム」は陣地戦を意識していた。

前回の投稿でコロナ禍は国民の誰もが主題として共有しうると書いた。東日本大震災などの被災の主題と比べると確かにそうだが、「夜の街」をはじめ、東京と地方、学生と高齢者、経済優先派と自粛優先派など細かい分断は見て取れる。中上健次が扱った部落差別の主題にしても、当事者でさえ細かい分断があるものである。

ある作家の、震災を主題にした作品が海外で評価された時のことだが、その作品がSF的な想像力により被災を誇張したものだったところから、「東北(日本)に風評被害をもたらすのではないか」というような趣旨の批判をSNSで読んだことがある。こういう声は届いているだろうか?

純文学はいまやマイナーなジャンルであり、社会的な影響力がなく(要は無害とされている)、なおかついまだに制度的に保護されているジャンルである。だから私たちは普遍的な立場から主題を切り貼りできると信じられてしまえるところがある。

アートでは、2019年あいちトリエンナーレが可視化した「アートの公共性」問題が、社会の分断下の陣地戦を繰り広げた。これは自陣が切り崩されるケースである。当然、文学でも至る所にそういった事態は起こっている。女性の読者人口を支えてきた大学の文学部解消、そして最近では高等学校国語の実用化問題がそれだ。
https://diamond.jp/articles/-/245339
リンク先は、「文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化」という炎上しそうな対立図式―しかしSNSを見る限り文学側はこの対立図式をあまり批判していない―を立てていることからもわかる通り、文学側からの意見である。だからそれを差し引いて読む必要があるが、2022年度から始まる国語改革のもと、高等学校の「現代文」が解体され、国語科は実用文の重要性が増し、文学的教養が相対化されることになるのは事実だ。

文学は、これまで「エンタメに比すると難解すぎる(技巧偏重)」や「エンタメを取り入れるべき(主題と物語導入)」といった批判はあったが、それらはいずれもエンタメ文学との内部抗争レベルだったわけで、実用文からの牽制はなかった。おそらくこの端緒は、英語のグローバル化に対する日本語教育の意味を問うた水村美苗日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』(2008)の告発にあるが、漱石や四迷が好きな彼女自身は、日本語文学を多様性のひとつとして保護するというリベラルな考え方を持っていた。ただしこのときすでにリベラルは、ネオリベ的な世界の中で保守の立場に立つというねじれを生きているわけだが。

水村を批判する者もさすがに文学の価値までは批判しなかった。あれからわずか10年。『文学+』2号の書誌にも書いたが、ゼロ年代までの文学者による国語批判といえば国語教育のイデオロギー批判が定番だったが(石原千秋の受験シリーズが典型)、いまや文学はイデオロギー装置ですらなく、単に国のお荷物になりつつある。

実際、日本文藝家協会は、その危機を感じ取り、「駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要で文学は無駄であるという考えのようだ」と国語改革を批判している。

だが、権利者の保護のみならず、欧米に対する競争力や文学の永続的価値なるものを根拠に、著作権保護期間の延長(著者の死後50年→70年)に賛成していた協会が文学の公共性を唱えることに若干の不信感は持っている。70年前には通用しただろう文学的価値でもって70年後の文学を見通されても不安でしかない。ジャンルでいえば、端的にそれは「おじさん」が夢見るファンタジーというものだ。この10年で文学が置かれた状況がどれほど変わったのか見えているだろうか?

『持続可能な魂の利用』では、存在自体がハラスメントな「おじさん」が排除されたが(存在は許すが迷惑をかけるな)、世間的には文学への視線も似たようなものになっている。なんて書くと、リアル中年男が墓場まで文学を道連れにしようとしている魂胆が見えてあさましいか。

「ブラック企業」の語用をめぐる係争点

https://www.asahi.com/articles/ASN7X31M3N7QULFA03Q.html

https://twitter.com/shintak400/status/1288432971783917570

ブラック企業」の語用をめぐる対立。とてもクリティカルな係争点があるので、ポストしたいです。今野晴貴氏と河野真太郎氏、両方間違ってないと思います。実際に使われてきた言葉の歴史を無視できないという立場と、場合によっては批判的視点をもたないといけないという立場。

日本における黒人の表象については、1980年代後半に、偏見的なイラスト・画像が一斉批判された過去があります。カルピスのトレードマーク、だっこちゃん人形、サンボ&ハンナなどもこれを機になくなった。我々の世代なら誰しも読んでいる、複数の出版社から出ていた『ちびくろサンボ』の絵本もすべて廃棄・絶版になった。

この動きは、のちに一部の市民活動家による運動が中心になって行われたことが明らかになっている。また、差別批判を受けて「ことなかれ主義」で絶版にしたことに対する批判も生まれた。

90年前後は、リベラルのいまでいうPC的な差別批判が苛烈化した(「言葉狩り」と揶揄されもする)時代で、ポストバブルで保守化する勢力と論争になりはじめる分岐点でもある。この頃から不況を背景にPC疲れみたいなものを経験して、小林よしのりはじめとする保守勢力が伸長しだすことになる。

ブラック企業」については、結論としては変えるべきだと私は思います。実際に国際的な場所では翻訳に苦慮されているとあるように、日本の文脈にとどまらないほど影響力のある言葉になったということではないでしょうか。

言葉は一つの現実をすくいとり、その現実にマッチしていればいるほど大きく育つものですが、別の現実と摩擦を起こし、改変や訂正を余儀なくされることもある。「差別だからダメだ」と上から批判するつもりはなく、言葉と現実が作り出す潮目を注視することができればよいのですが。それでもなお「ブラック企業」という言葉が、ある現実のために必要なのだということであれば…

蔓延するコロナ小説

1、最近どういうわけか、コロナ関係の小説を集中的に読んでいる。各誌時評などで取り上げられているので気になって文芸誌を漁って読み始めたのだが、想像以上に多数あって驚いた。創作だけではなく、エッセイや日記、評論を加えれば1冊まるごとコロナ本?という号(たとえば『文學界』7月)すらある。しかもコロナ禍は渦中にあるわけで、対応の速度が非常に速くもある(各誌6月号から)。

かほどのコロナ流行りにはいくつか理由が考えられる。東日本大震災などの被災と比べると、コロナ禍は当事者性の偏りがないため(全員等しく被害者でありうる)、フィクションにする敷居が低い、というような趣旨の発言を、『美しい顔』を例示しつつ栗原裕一郎Twitterでしていたが、それもあるんだろう。コロナは誰もが語る資格があるというわけだ。

一方、最近の文学は、社会的・政治的な主題を積極的に取り入れる傾向が高まっているという側面も見逃せない。この傾向は、2000年代後半のロスジェネ文脈での「プロレタリア文学」再興から東北大震災を経て10年代に強まっている。

前世紀末から00年代はといえば、主題や物語の影響力は弱く、もっぱら手法(叙述)の時代だった。文学の形式的な側面が重要視されたのである。90年代に影響力を持った『批評空間』も、00年代にそれに取って代わった保坂和志高橋源一郎の文学観も、立場は違えども、物語批判(形式優位)という文脈は共有していたわけである。00年代は特に勢いのあったライトノベルなどのエンターテインメント系文学との差異化を図るためにも、物語批判には重要な意味があったといえる。

2、話題を変えます。最近のTwitterの時事ネタを。ある研究者が出した著書について、読まずに書かれた書評が批判的に告発されていた。批判は当然ありうべきものだが、リプライに「書評は読みたくなるように書かれるべきだ」といった意見が複数あった。書評は役に立つべきものだという発想は、書評にとっても幸福なように思えないけれど、大きなお世話だろうか?

他に、アートに関してだけれども、最近の若者は、議論喚起型・問題提起型の作品を好まず、施策・回答もパッケージされた作品を求めているといった趣旨のツイートも注目されていた。文学に関していえば、前者は手法(叙述)重視型で、後者は政治・社会的主題(+物語)重視型となる。ただし、文学の場合、若者が前者側なのかは判断を留保したい。今回の芥川賞は、ノミネート作が団塊ジュニアゆとり世代に割れたけれど、上の世代が比較的、主題の積極性を打ち出しているのに対し、若い2作家の方が手法が議論喚起的だった。

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3、文学の中でも純文学は、叙述・自意識・主題・物語と全方位に配慮するジャンルである。ただし、文学史を振り返ると、手法を洗練させる時代と、通常はエンターテインメント系文学に委譲している物語までフォローしにいく時代との間で揺れ動きがある。コロナ禍を取り上げて社会に役立とうという使命が顕在化している最近の文学は、政治・社会的主題を物語にしてパッケージするという発想が積極的に受け入れられているといえる。00年代だと想像しにくい状況である。

純文学は、物語を強めると、それならエンタメで十分じゃないかと批判され、叙述を強めると、意味不明なので不要だと批判されるわけだが。特にこういう交通事故が起こるのは芥川賞受賞作だろう。芥川賞だから読んでみようとなると、純文学に免疫のない読者は上記のような拒絶反応を起こしがち。遠野遙『破局』のAmazonレビューを眺めてみたが、さっそく評価が二分している。

4、文芸誌が8月号まで出ている現時点では、コロナ小説は、まだ物語の背景にのみ採用する作品が多く、物語の主題として機能している作品は少ない(作品としてどちらが優れているというわけではない)。主題は大きく分けて「感染」にフォーカスしたものと、「ソーシャル・ディスタンス(人間関係の組み換え)」にフォーカスしたものがある。前者は、小林エリカの「脱皮」(『群像』6月)、後者は金原ひとみの「アンソーシャル ディスタンス」(『新潮』6月)、「#コロナウ」(『小説トリッパー』夏季号)など。

上田岳弘「悪口」(『群像』8月)は、コロナを上田らしいメタ視点に取り込んで特異な切り口を示しているのに、そのメタ視点とミクロな個人の内面の揺れ動きがばちっとはまってこない感じ。

コロナを自作の創作哲学にまで取り込んで貪欲に消化しているのは、山崎ナオコーラの近未来SF(?)「キラキラPMS(または、波乗り太郎)」(『すばる』8月)だった。最近の山崎の(ジェンダーを軸にした)手法がコロナの主題を呼び込み、コロナの主題が手法を活かしている。「コロナ禍に読む『源氏物語』」(『文學界』7月)も山崎の創作哲学を知る上で必読。

物語は、主人公の太郎が、女性に理解を示す―PMSにイライラする女性に同情する―男性として登場し、女性のパートナーとの対話を通して自身に生理+PMSが感染り、ソーシャル・ディスタンスが容認=拡張されたポストコロナを家族と共生するまでを描く。

私は以前、芥川賞ノミネート作・三木三奈「アキちゃん」の、ジェンダーの主題をめぐる叙述トリックの暴力性を少し批判的に取り上げたが(7月1日)、「キラキラPMS」のジェンダーの主題をめぐる叙述トリックは、その暴力性をむしろ解除するように働き、作家のジェンダー観を知らしめるために巧妙に仕掛けられている。

あなたは男か女か? 山崎にとってたぶんその問いは重要ではない。男と女を分けてそれぞれが社会に役立たんとする主語的世界ではなく、股から血が出たところから動きだす述語的世界を夢見ること*1。そんな世界を夢見る山崎は、コロナがもたらしたソーシャル・ディスタンスを容認する世界に述語的世界を重ねる。

文法的にはせいぜい気分や様態を示す付属語でしかない畳語や重語の波で溢れかえる「キラキラPMS」を読むことは、そのような世界の片鱗に触れる幸福な(?)体験でもある。

【追記】韓国の文学研究者から、発表があるということで日本の文学におけるコロナの影響について聴き取り調査を受けた。それなりに注目されているみたい。筒井康隆ジャックポット」(『新潮』8月)を紹介するのには抵抗があったな。彼にいわせれば「ブラックユーモア」ということなんだろうが。韓国の文壇では、現時点でコロナの目立った動きはないようである。

*1:主語と述語の関係は「コロナ禍に読む『源氏物語』」を参照。

2020年上半期芥川賞雑感(3)

最後に遠野遙氏の「破局」(『文藝』2020・夏)についてお話ししたいです。本作は文学史に置いてみると際立った特異性が見えてきます。

まず遠野のキャラクターにおいて指摘できる点は自閉症的な主体ということです。自閉症的な主体といえば、ゼロ年代の文学を席巻したモードですね。病名で文学の仕組みを説明するのは問題がありますが、少しの間お許しください。

たとえばファウスト系は、自己中心的な話法やドライヴ感のある話法として自閉症的な主体を活用しました。純文学だと、中原昌也阿部和重でしょう。彼らのキャラクターは総じて他者への共感能力が弱く、根拠のないマイルール―天皇=鴇、妹キャラ…―に従って行動し、発話するという特徴を持っていました。

遠野が特異なのは、マイルールを外在化・可視化・多数化している点にありますが、それを純文学伝統の自己言及・自問自答的な回路において機能させています。言い換えれば、純文学伝統の自己言及・自問自答的な回路を設けた上で、マイルールを外在化・可視化・多数化している点に特異性があります。

根拠のない自問自答を日本の小説において最初に大掛かりにやってのけたのは、「意識の流れ」を導入した横光利一の「機械」(1930)です。叙述としては、語られる私(物語)と語る私(叙述)の分裂を演出することになります。通常のリアリズム(私小説)の場合、語る私は語られる私との同一性を死守します。他方、語る私が過剰だと、その分裂が明確になり、リアリズムとしては破綻したということになりますが、そこにユーモアやイロニーが生じる。もちろん横光はリアリズム(私小説的な内面)批判を意図しているわけです。「誰かもう私に代って私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから」(「機械」)。

この自己言及・自問自答的な回路を後藤明生が継承したとするのにさして異論はなかろうと思います。横光‐後藤の自問自答。「あの外套はいったいどこに消え失せたのだろう? いったい、いつわたしの目の前から姿を消したのだろうか? このとつぜんの疑問が、その日わたしを早起きさせたのだった。/このとつぜんの早起きについて、何かもっともらしい理由を考える必要があるだろうか? 例えば、私の職業を露文和訳者だとする。わたしは目下、新しいゴーゴリ全集のために『外套』を翻訳中だ。(後略)」(『挟み撃ち』1973)。

そもそもこの「わたし」は露文翻訳者でないのだからもうこの設定の時点で読者はニヤニヤしながら読み進めるしかないわけですが、この自問自答―ノリツッコミ―が後藤作品の全編を覆い、根拠がないゆえに次々と論点がずれる様を私たちは楽しむ。

しかし、「破局」を読んでいてふと感じたんです。横光‐後藤の自己言及・自問自答の回路は、語られる私と語る私の同一性を分断しましたが、コギト―自問自答する私―自体は否定されていないのではないかと。後藤の語りが、他律的なようでいてどこか独善的な響きがあると長らく引っかかっていた疑問(「アミダクジ式弁証法」で書きましたが)が氷解した気分です。

破局」の「私」はマッチョな男で一見独善的ですが、一貫して他律的です。自己愛・自己保身のかけらもない。トレーニングのルーティンを日々繰り返し、社会的マナーや「父の口癖(女性には優しくしろ)」(28)、関係を持つ彼女たちの一々の反応(26)など、これら外在的指標によって「私」の認知と行動は支えられています。「服の上から大胸筋を触らせてやると、灯は嬉しそうに笑い、それを見た私は嬉しかったか?」(28)「灯の中に指を入れたまま、一瞬だけ眠った。セックスの最中に眠るのはマナーに反することだ、助手席で眠るのと同様に」(65)。

外在的指標によって認知と行動をそのつど確定すること。「私」にとっては自分の行動や生理(尿意)すら外在的な指標です。「尿意を催し、私はトイレに行った。(中略)尿意はもうなかった。だから当初の目的は果たせたような気もした」「考えるより先に謝罪の言葉が出てくるのは、私が善良な人間である証拠かもしれない」(35)

実は、後藤の自問自答も外部を必要としています。「とつぜん」の転調ですね。自問自答が停滞すると「とつぜん」の事件(偶然性)が外部から注入されます。しかし遠野の外在的な指標は、「とつぜん」外から現れる不可知なものではありません。有縁的・有契的なものとして自分の身の回りにある。だからつねに相手(彼女)を必要とします。

灯は今日も、インクの染みのような柄が入ったトレーナーを着ていた。この変な服が灯のお気に入りなのかと思うと、おかしくて笑いそうになった。どうして笑っているのかと灯が聞くから、どうやらこらえきれずに笑ってしまったらしい。昨日読んだ漫画を思い出したと説明すると、灯は笑い出し、私もそれを真似て笑った。(34)

作中最も美しい場面のひとつです。この「笑い」は誰のものか? 「私」のものでも、彼女の「灯」のものでもない。「私」と「灯」が作り出したものです。横光‐後藤なら、「私の笑いだろうか? 灯の笑いだろうか? 確かに灯を見て私は笑いそうになったが、最初から笑われていたのは私ではなかったか」などと問いを宙吊りにし、自己に閉じがちなところでしょう。

むろん「破局」の「私」が参照する外在的指標には根拠がない。だから彼女との関係は(「機械」のような「破局」に向けて)ずれていきます。

ところで、遠野作は、主要キャラクターが4人います。男が主人公の陽介と友人の膝、女が元カノと彼女の灯ですが、それぞれ作中の機能が明確で、計算されています。そういう意味でも、横光「機械」の実験空間―私と軽部と屋敷と主人―を思わせます。

男性陣は、世界(女性との関係)を確定する自意識の側にあり(ただし陽介や膝の自意識は「女性」がゾンビや幽霊であることが見えず空回りする)、女性陣は、欲望する/される身体として彼らとの関係性を求めます(男性陣は捕食される対象でしかない)。

女性サイドから見たら、金原ひとみの初期がこだわった、彼依存型のアミービックな「私」に相当するかと思いますhttps://sz9.hatenadiary.org/entry/20080317/1205741693